第39話:アメリアの決意 ― “世界で一番あったかい糸を紡ぐ”
朝の光が、薄いカーテン越しにアメリアの頬を撫でた。
まぶたの裏にまだ、昨夜の光景が温かく残っている。
編み物を身に着けた人々であふれた大広間。
笑顔、拍手、柔らかな空気。
あんな場所に自分が立っていたなんて——今思い返しても胸がじんと熱くなる。
ゆっくりと身を起こすと、胸の奥に小さなざわめきも同時に蘇った。
(……あんなに笑っていたのに。
まだ胸がざわつくなんて……わたし、弱いなぁ)
昨夜からずっと離れない“不安”の影。
祝賀会の幸福に溶けてくれればいいのに、心のどこかにしつこく絡みついている。
アメリアは小さく息を吐くと、ベッドを降りて洗面台へ向かう。
顔を洗った冷たい水が、じんわりと意識を覚ましていく。
「……よし。」
小さく呟き、鏡に向かって微笑む。
昨夜とは違う、少しだけ強い表情。
気持ちを立て直すために、アメリアはそっと胸元を押さえた。
温かさと不安の両方がまだそこにある。
それでも、今日を歩き出すための力に変えられる気がして——彼女はゆっくりと深呼吸した。
王宮の食堂は、朝の光をたっぷり含んだ空気で満たされていた。
長いテーブルの向こうで、ミラベルがアメリアを見つけた瞬間、ぱっと花が咲くように手を振る。
「アメリア!」
その声に、胸の奥の不安が少しだけ揺れ、和らぐ。
席に近づくと、ミラベルは椅子から身を乗り出して言った。
「ねぇアメリア。昨日のあなた、本当に素敵だったわ。」
あまりに真っ直ぐな褒め言葉に、アメリアは思わず視線を落とす。
「そ、そんな……わたしなんて……。
ただ、言われたままに話しただけで……」
「ううん、違うわ。」
ミラベルは微笑みながらスープの匙を置いた。
その瞳はどこまでも優しく、どこまでも強い。
「あなたの言葉にはね、全部“本物の優しさ”があったの。
みんな、それに触れたから笑っていたのよ。」
アメリアの肩から力が抜けていく。
こうして言われると、胸の奥に沈んでいた重りが少し軽くなる。
……けれど、ミラベルは気づいていた。
その瞳の奥に、消え切らない影が揺れていることに。
ミラベルはそっと声を落とす。
「怖いのはね、未来が見えないからよ。」
アメリアの心臓がひゅっと縮む。
「でも、あなたが紡いできたものは……」
ミラベルは、自分の胸元につけたアメリア編みの小さな飾りを指で触れた。
柔らかな色が朝日に溶けて輝く。
「ちゃんと、誰かの未来になってる。」
その言葉は、静かにアメリアの胸に落ちていった。
不安の隙間にそっと入り込み、温かく広がっていく。
「……ミラベル……」
泣きそうになるのを堪えながら、アメリアは微笑んだ。
支えは、こんなに近くにあったのだと、胸が熱くなる。
祝賀会の翌日、王宮の片隅にある小さな工房の扉を開けると、
ふわりと柔らかな羊毛と草木染めの香りが鼻をくすぐった。
しばらく触れられなかった糸や作品たちが、まるで彼女を待っていたように静かに並んでいる。
アメリアは思わず息を呑み、ゆっくりと中へ足を踏み入れた。
「……ただいま。」
誰に向けたわけでもない声。
けれど、工房の空気がほんの少し揺れ、優しく彼女を迎えてくれた気がした。
壁際に置かれた糸車にそっと手を添える。
木の温もりが指先からじんわり伝わる。
「……やっぱり。わたしは、これが好き。」
自然と微笑みがこぼれる。
棚に並ぶ作品をひとつひとつ手に取るたび、
胸の奥で大切にしまっていた思い出が静かにあふれ出した。
孤児院の子どもたちが、はしゃぎながらマフラーを巻いた日。
ミラベルが照れながら「宝物にするわ」と言ってくれた手袋。
寒さの中で任務に向かう騎士に渡した小物。
そして――
アルベルト王子が、あの真っ直ぐな瞳で告げた
「希望だ」という言葉。
ひとつひとつが、自分を支えてくれた“糸”。
そう気づいた瞬間、胸がじんと温かくなる。
アメリアは作品をそっと抱きしめた。
「……わたし、こんなにも……誰かに、支えられてきたんだね。」
その事実が、小さな光のように胸の奥でふわりと輝いた。
工房の静かな空気が、アメリアを包み込んでいた。
糸車の規則的な木の軋みさえ聞こえない──
まるで世界が彼女の心の声を待っているかのように。
アメリアは深く息を吸い、そっと吐き出す。
(……怖い。)
胸の奥に沈んだ影は、昨日の祝賀会の温かさに包まれても、完全には消えなかった。
“破滅ルート”という名の、前世の記憶。
確かに近づいている気配のする“影”。
逃げたい。
見なかったふりをしたい。
だって、もし本当に運命が変わっていなかったら──。
でも。
アメリアは、ゆっくりと机の引き出しを開けた。
そこには、色の不揃いな毛糸で編まれた、ちょっとだけ歪んだマフラーがしまわれている。
一番最初に編んだもの。
泣きそうな夜に、震える手で作った、小さな励ましの証。
アメリアは両手でそれを包み込んだ。
「……これは、逃げないって決めたときの、証。」
その言葉を口にした瞬間、工房の空気が少しだけ澄んだように感じた。
(怖いからって、何もしなかったら……きっと後悔する。)
不安は消えない。
“影”もまだそこにある。
それでも──
アメリアの胸の奥で、ほんの小さな“覚悟”の灯がともった。
逃げない。
未来を、見届ける。
そしてできるなら、自分の手で変えてみせる。
アメリアはマフラーを抱きしめながら、小さくうなずいた。
工房の窓から差し込んだ光が、彼女の決意をそっと照らしていた。
工房の窓から、やわらかな朝の光が差し込んでいた。
光は糸車を照らし、木目を淡く金色に染める。
その光の中に立つアメリアは、まるで糸そのものが彼女を包んでいるように見えた。
ゆっくりとマフラーを胸に抱きながら、アメリアは瞳を閉じる。
胸の奥底から、ひとつの想いが静かに湧き上がってきた。
昨日まで言葉にならなかった願い。
怖さと温かさが混ざり合い、ようやく形をととのえた思い。
そしてアメリアは、そっと口を開いた。
「これからは……
世界で一番、あったかい糸を紡ぎたい。」
声は小さく、震えてもいない。
まるで静かな湖に落ちたしずくみたいに、確かに響いた。
「誰かを守れる糸を。
未来を変えられる糸を……
わたしの手で。」
その瞬間、朝日の光が少しだけ強くなり、彼女の頬を温める。
決意を祝福するように、工房全体が柔らかく輝いた。
怖さが消えたわけじゃない。
未来の影がなくなったわけでもない。
でも──
アメリアはついに、“恐怖よりも守りたいもの”を選んだ。
彼女の中で、確かな決意の糸が静かに紡がれ始めていた。
アメリアは深く息を吸い込むと、糸車の前にそっと腰を下ろした。
胸の奥に灯った決意が、まだあたたかく脈打っている。
「……よし。」
その小さなひと言とともに、アメリアは新しい羊毛を手に取った。
柔らかくて、まだ行き先を知らない真っ白な綿。
未来そのもののように、触れるだけで胸がすっと軽くなる。
指先が羊毛をほぐし、糸車のリズムに合わせてゆっくりと紡ぎはじめた。
くる、くる、と音が回る。
音は心臓の鼓動よりも穏やかで、しかしどこか力強い。
不安で震えていた手とは思えないほど、自然な動き。
迷いが削ぎ落とされたように、糸はまっすぐ引かれていく。
一筋の糸が、光の中できらりと煌めいた。
まるで、アメリア自身がついに掴んだ“未来”が形になったかのようだった。
彼女はその光景に、そっと微笑む。
「……ここから、始めよう。」
大きな改革でも、派手な魔法でもない。
ほんの、小さなひとすじの糸。
けれどその一歩が、確かに世界をほんのわずかでも変えていく。
アメリアは今日、静かに、しかし確実に歩き出した──新しい未来へ向かって。
工房で静かに糸を紡ぐアメリアの姿から、場面はゆるやかに切り替わる。
――場所は王城。
祝賀会の余韻を残したまま、夜の廊下にはほのかな灯が揺れていた。
しかし、その静寂の中で
“ひたり、ひたり”と靴音が響く。
灯りの届かない薄暗い回廊を、
黒い影がひとつ、音もなく滑るように進んでいた。
姿は見えない。
だが、確かに意図をもって動く者がいる――そんな気配だけが残る。
誰もその存在に気づかない。
護衛も、侍従も、王族すらも。
ただ、影だけが深く、静かに、確実に迫っていた。
***
一方その頃――。
アメリアの工房では、窓辺から差し込む朝の光が
紡がれたばかりの一本の糸を照らし出していた。
その糸は細く、頼りなげで、
けれど確かに温かさを含んで輝いている。
暗い影へ抗うように、
光の糸がそっと揺れた。
***
――アメリアの決意は、まだ小さな灯火。
だがその灯火は、やがて訪れる闇を照らす光となる。
未来へ繋がる、温かな糸となって静かに紡がれていく。




