第37話:ミラベルと王子が答える ― アメリアは悪役じゃない
翌朝。学院へ向かう石畳の道を歩きながら、アメリアはそっと目元を押さえた。
冷たい朝の空気が染みて、泣き腫らした瞼がじんじんと痛む。
――昨夜は、泣きすぎた。
鏡を見て驚くほど目は赤く、腫れていた。それでも無理に隠して家を出たが、
表情には出さないつもりのその弱さは、どうしてもにじみ出てしまう。
学院の門をくぐると、いつも通り「おはようございます」と声がかかる。
生徒たちはアメリアの様子に気づかないふりをして、優しく微笑む。
最近、“癒やしの令嬢”として皆に慕われているせいもあって、
その空気はどこか柔らかだった。
だが――。
「……アメリア?」
ミラベルが、真っ直ぐにこちらを見つめていた。
その瞳には、小さな不安が揺れている。
続いて、廊下の向こうから歩いてきたアルベルト王子も足を止めた。
「……どうした? 少し、疲れているように見えるが」
アメリアは慌てて笑顔を作る。
「い、いえ! 大丈夫ですわ、きっと寝不足で……」
けれどその笑みは、誰が見てもぎこちなく、口元だけが引きつった。
頬も動かず、瞳にも笑意が宿らない。
ミラベルは胸の奥を締めつけられるような気持ちで、その表情を見つめた。
(やっぱり……昨日のことだけじゃない。
アメリア、もっと何か抱えてる……言えてないことがある)
心がざわつく。
親友の痛みに、触れられないもどかしさが募っていく。
アメリアの“沈んだ朝”は、静かに、しかし確実に物語を動かし始めていた。
その日、授業が終わると同時に、アメリアはそそくさと席を立った。
できるだけ人に心配をかけたくない。
自分の不安が誰かの重荷になることが、何より怖かった。
けれど。
「……アメリア、ちょっと待って」
そっと袖をつまむ指先が、彼女の逃げ道を塞いだ。
振り返ると、ミラベルが真剣な面持ちで立っている。
「ミラベル……?」
ミラベルは小さく首を振り、決意を込めた声で告げた。
「話して。……わたし、アメリアの負担になりたくないの」
その言葉にアメリアは息を飲んだ。
否定しようと口を開くが、ミラベルの揺るがない瞳を見た瞬間、喉がきゅっと詰まる。
「わ、わたしは……負担なんて……」
「じゃあ、どうしてそんな顔してるの?」
優しいのに鋭い問い。
アメリアは言葉を失う。
ちょうどそのとき、廊下の向こうから靴音が近づいた。
「……ミラベル、アメリア? 何かあったのか」
アルベルト王子だった。
ふたりの間に漂う空気に気づき、王子は足を止める。
普段よりもずっと控えめな声で続けた。
「……俺も、聞いていいだろうか?
無理にとは言わない。だが……心配なんだ」
気まずさを隠すように視線を落としながらも、
その声音には誠実さが滲んでいた。
アメリアは迷った。
胸の奥の秘密は、誰にも明かせない。
けれど――今、目の前にあるふたつの優しい眼差しが、
その固く閉ざした心をそっと揺さぶる。
(……言っても、いいの?
ほんの少しだけ……弱音を)
震える指先を胸元に寄せ、アメリアはゆっくりと息を吐いた。
その一瞬、彼女の世界は、少しだけ開き始めていた。
ミラベルとアルベルトに囲まれるようにして立つアメリアは、
指先をぎゅっと握りしめ、しばらく何も言えなかった。
胸の奥が痛い。息をするだけでも涙がこぼれそうだった。
けれど――ふたりの真剣な眼差しに背中を押されるように、
アメリアは震える唇を開いた。
「……わたし、怖いの」
その瞬間、小さく震える声に、ミラベルとアルベルトが息を呑む。
「いくら努力しても……どれだけ頑張っても……
“悪い未来”が決まっていたら、どうしようって……」
アメリアは必死に笑おうとする。
けれど、笑顔はすぐにくしゃりと歪んだ。
「みんなを裏切ることになったらどうしようって……
いつか、わたしが……みんなの前から消える未来が来るんじゃないかって……」
ひとつ言葉をこぼすたび、胸が締めつけられる。
“前世の記憶がある”なんて言えない。
“自分の破滅を知っている”とも言えない。
だから、言葉は曖昧で、説明できない部分ばかりだ。
自分で言っていても、何を恐れているのか伝わらない気がして……胸が苦しい。
「ごめんなさい……こんな、意味のわからないこと……
でも、ずっと怖かったの。ずっと……」
耐えようと噛みしめた唇が震え、
目の端に、透明な涙がそっと滲んだ。
それでもアメリアは必死に続ける。
「わたし……みんなが大好きだから……
幸せになってほしいから……
だから……“わたしが壊す未来”があるなんて……考えたくないのに……」
その告白は、限界の涙の縁に立ちながら絞り出された――
誰にも言えなかった、孤独な恐怖そのものだった。
アメリアの震える手を、
ミラベルはそっと、しかし強く包み込んだ。
その温もりは、拒絶とは正反対の——
迷いのない、確かな愛情。
「アメリア」
ミラベルの声は、静かで、揺るぎがなかった。
「あなたは悪役なんかじゃないよ」
アメリアの肩がぴくりと震える。
うつむいた顔が、ほんの少しだけ持ち上がった。
ミラベルはその瞳を真っ直ぐに見つめ、はっきりと言い切った。
「あなたは……わたしの人生を変えてくれた。
救いの人なの」
アメリアの目が大きく見開かれる。
“救い”という言葉は、彼女にとって信じがたい響きだった。
ミラベルは続ける。
「アメリアがいなかったら、今のわたしはここにいない。
あの日、あなたが手を伸ばしてくれなかったら、
わたしはずっと――ひとりだった」
その告白に、アメリアは胸を押されるように息を呑む。
「あなたは、誰より優しくて……
誰より誰かのことを考えて動ける人。
兵士さんも、患者さんも、わたしも……
あなたに救われた人ばかりだよ」
ミラベルの目には怒りにも似た強い感情が宿る。
「そんな人のことを、“悪役”なんて……
わたしは絶対に呼ばせない」
その力強い宣言に、
アメリアの胸の奥で固く閉じていた何かが、音を立てて揺らいだ。
――堪えていた涙が、一瞬きらりと光る。
ミラベルの声は、最後だけ少し震えていた。
「アメリア。あなたは……わたしの大切な親友なんだよ」
その言葉は、アメリアの心の奥深くまで届き、
崩れそうだった世界を、そっと支え直した。
ミラベルの言葉が部屋の空気を温かく満たした直後、
静かに一歩踏み出す影があった。
アルベルト王子。
彼の足音は控えめだったが、
その眼差しはまっすぐアメリアに向けられていた。
「……俺も、同じだ」
低く落ち着いた声が響く。
アメリアは驚いたように瞬きをした。
アルベルトは言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。
「アメリア嬢は、この国にとって“害”どころか……希望だ」
“希望”という言葉に、アメリアの肩が震える。
彼は淡々と、だが真摯に言う。
「貴女が助けた人は、多い。
兵士たちも、療養院の患者も……
そして俺も、その一人だ」
アメリアは思わず小さく息を呑んだ。
王子が“自分も救われた”と言うなど、思ってもみなかった。
アルベルトは視線を逸らさず、真剣なまま言葉を重ねる。
「だから——どんな未来が来ようと、俺は貴女を信じ続ける。
貴女が選ぶ行いは、必ず誰かを救うと知っているからだ」
その声には嘘が一つもなかった。
虚勢も、同情もなく、ただひたすら誠実だった。
アメリアの胸の奥に長く張りついていた“氷”のような恐怖が、
静かに、静かに溶けていく。
(……信じてくれる……? わたしを?)
その思いが胸にじんわりと広がり、
アメリアの目には新しい涙が浮かび始めた。
しかしその涙は——
昨日のように絶望からではなく、
守られていると気づいた温かさから零れ落ちるものだった。
アメリアは胸の奥でせき止めていたものが、
とうとう堰を切ったように溢れ出すのを感じた。
震える唇から、やっとこぼれた言葉は——
あまりにも小さくて、か弱くて、けれど確かな本音だった。
「……わたし……
本当に……悪役じゃない……?」
その問いはこの世界に来てから、
何度も自分に問い続けてきたもの。
誰にも言えず、胸の奥底で固く凍りついていた恐怖。
しかし——
ミラベルは迷わず、ためらいもなくアメリアの手を握った。
「ええ。絶対に違う」
短い言葉なのに、揺るぎない温度があった。
続いて、反対側からアルベルト王子の声が重なる。
「断言する」
その声音には王族としての責任も、
一人の人間としての誠実さも混ざっていた。
アメリアはぐらりと視界が揺れ、
もう笑って誤魔化すこともできなくなった。
ぽたり——
初めは一粒。
次に二粒。
そして止めようとしても止まらない涙が、頬をつたう。
「……っ……ひっ……」
声を押し殺して泣くアメリアを、
ミラベルが右から、王子が左から、そっと支える。
抱き寄せるでも、押さえつけるでもなく。
ただ、アメリアが倒れてしまわないように。
彼女が“泣くこと”を許せるように。
アメリアはようやく気づいた。
(……泣いてもいいんだ……この世界で……)
初めて、この場所で涙を流してもいいと思えた。
それは、ひとりで抱えてきた不安が、
確かに誰かに届いた証だった。
しばらく泣いたあと、アメリアは袖でそっと目元を拭った。
涙を流したことで胸の重さは少しだけ軽くなる。
息も深く吸えるようになり、視界もようやく落ち着いた。
けれど——
胸の奥にへばりついた“黒い影”だけは、
まだ微動だにせず、そこに居座り続けている。
(……まだ、消えてくれない……)
ミラベルの励ましも、王子の言葉も、
たしかに彼女を支えた。
心を温め、凍りついていた部分を溶かしてくれた。
それでも——
アメリアだけが知る“前世の記憶”
“破滅の結末”
“悪役令嬢アメリアの断罪ルート”
その影は、誰にも説明できず、言葉にもできない。
だからこそ、完全には消えなかった。
ミラベルとアルベルト王子は、
優しく寄り添い、アメリアが落ち着くまでそばにいた。
ふたりとも彼女の不安を少しでも和らげようとしてくれた。
——だが、まだ気づいていない。
アメリアの心には、
誰にも触れられない“別世界の恐怖”が潜み続けていることを。
そしてその影は、
遠い未来の曖昧なものではなく、
すぐ先まで迫ってきている危機と結びついていた。
(どうして……胸がざわつくの?
何か……来る……?)
風が、校舎の外でざわりと揺れた。
それはまるで、静かに迫る嵐の前触れのように。
アメリアは胸に手を当てる。
温かいはずの心が、なぜかひやりと震えた。
――誰も知らないところで、
彼女を揺るがす新たな事件が、
着実に、静かに近づいていた。




