第36話:アメリアの未来の不安
療養院で起きた“小さな奇跡”は、王都中に広がるのに時間はかからなかった。
「癒やしの令嬢アメリアさまって、本当にいるんだって……!」
「触れると心が軽くなる毛糸、だそうよ」
街ではそんな噂が飛び交い、アメリアが学院へ向かう道でも、人々は柔らかな笑顔で挨拶してくる。
「おはようございます、アメリア様!」
「先日は母がお世話になったと聞きました!」
それは、転生してきた彼女が想像もできなかった温かさだった。
学院に着けば、扉を開けた瞬間にクラスメイトが駆け寄ってくる。
「アメリア! 昨日の話、聞いたわよ。すごいじゃない!」
「あなたの編み物って、本当に不思議な力があるのね」
教師すら、控えめに微笑んで声をかけてくるほどだ。
「あなたの存在が、どれほど多くの人を救ったか……学院としても誇りに思いますよ」
ミラベルも、そんなアメリアを見て嬉しそうに頷いていた。
「アメリア、皆があなたを頼りにしてるわ。とても素敵なことよね」
――それなのに。
アメリアだけは、その中心にいながら、どこか別の世界に取り残されたような気持ちだった。
笑顔を向けられるたびに胸が苦しくなる。
感謝の言葉を聞くたびに、不思議な寒気が背筋を撫でる。
(どうして……みんな、あんなに優しくしてくれるの?
どうして……こんなにも、うまくいってしまうの?)
和む空気の中、アメリアはひとりだけ微笑んだふりをすることしかできなかった。
(こんなに幸せなのに……どうして、笑えないの……?)
その小さな違和感は、祝福の喧騒から取り残された彼女の胸の奥で、静かに形を取り始めていた。
昼休み、学院の中庭は柔らかな陽光に包まれていた。
ミラベルとクラスメイトが楽しそうに話している声が、風に乗って耳に届く。
――その中心にいるはずのアメリアは、少し離れた場所で立ち止まっていた。
手にしていた毛糸が、ふと、指から滑り落ちる。
編み針も進まない。胸の奥が、ぎゅっと締めつけられたように痛む。
(……どうして?
こんなにうまくいっているのに。
こんなに、優しくしてもらっているのに……)
胸のざわめきは、祝福の空気とは正反対の色をしていた。
そのとき――
転生してきた日の記憶が、稲妻のように脳裏を走る。
「悪役令嬢アメリアは、最後に破滅する」
前世でプレイした乙女ゲームの、冷たい結末。
(……あれは、本当に“別の誰か”の運命だったの?
それとも……“わたし”の未来……?)
息がうまく吸えない。
編み物をする指先が震え、毛糸を握る力さえ失われていく。
(わたし、本当に……悪役令嬢じゃなかったの?
誰かを癒してるみたいに見えても……
“破滅イベント”が、まだ起きていないだけなんじゃ……)
遠くでミラベルが笑っている。
クラスメイトも、教師も、今のアメリアを温かく見守っている。
――その光景を見て、胸がひどく痛んだ。
(みんな……わたしの未来を知らないだけ……
もし、本当に“あの運命”が来たら……)
罪悪感が静かに滲み出し、アメリアは視線を落とした。
祝福と笑顔の世界で、たったひとり、影が落ちていく。
夜。
寮の部屋には、静寂だけが満ちていた。
アメリアは机に向かい、灯された小さなランプの下で毛糸を見つめていた。
いつもなら、指が自然に動き出すはずだった。
けれど今日は――編み針を持つ手が、重い。まるで別人の手のようだった。
毛糸をそっと握る。
柔らかいはずの感触が、なぜか頼りなく思えた。
(どうして……編めないの?
こんなこと、今まで一度もなかったのに……)
胸の奥には、昼間から続いているざわつきが沈殿している。
気づけば、視線は自然と過去の記憶へと向かっていた。
――前世で遊んだ乙女ゲーム。
そこに登場した「悪役令嬢アメリア」は、最後には破滅する運命だった。
(今は順調でも……
ほんの少し選択を間違えただけで……全部壊れるかもしれない……)
思考は止められない勢いで転がりはじめる。
(もし……
わたしの“編み物の力”が異端だって疑われたら?)
不安がひとつ。
すぐに、次の不安が追いかけてくる。
(王太子ルートの時みたいに、ヒロインが現れて……
“あなたなんて邪魔”って言われたら?)
想像の中で、ゲーム通りの展開が淡々と進み――
彼女の脳裏に、あの言葉がよみがえる。
「断罪イベント」
「婚約破棄」
「国外追放」
前世で、何度も、何度も見たバッドエンドの画面。
その冷たい展開が、まるで“未来の予告”のように胸の中に突き刺さる。
(みんなが突然……ゲーム通りに動き出したら……
わたし、どうすれば……)
アメリアは毛糸を胸に抱き寄せ、目を閉じる。
ただの記憶なのに、現実より強く感じられる。
転生者という事実が、彼女を世界の中心ではなく“世界の外側”に置いていた。
誰にも、この不安は話せない。
誰にも、理解されるはずがない。
(……わたしだけが知ってる未来に、怯えてる……)
静かな部屋で、編み針だけがぽつりと机に転がっていた。
その夜、ミラベルは寮の廊下を歩きながら、なんとなく落ち着かなかった。
昼間のアメリアの表情が、どうしても胸に引っかかっていたからだ。
――いつもと同じ笑顔。でも、どこか無理をしているようだった。
気づけば、ミラベルの足はアメリアの部屋の前で止まっていた。
軽くノックする。
「アメリア? 入ってもいい?」
返事はなかった。
代わりに、静かな沈黙だけが返ってくる。
嫌な予感がして、ミラベルはそっと扉を開けた。
……そして息を呑む。
机の上には、毛糸や編み針が散らばっている。
いつも丁寧に整理しているアメリアらしからぬ光景。
そして、その前で――
アメリアは膝を抱えるように座り、うつむいていた。
「アメリア……?」
優しく呼びかけると、アメリアが顔を上げる。
その瞳は、泣くのを必死にこらえたように赤く濡れていた。
「ミラベル……」
掠れた声。
その震えだけで、どれほど追い詰められていたか分かる。
「なにか……あったの?」
ミラベルは急がず、近づき、アメリアの隣にそっと座る。
アメリアは唇を震わせ、力なく答えた。
「……わたし、なんだか……怖いの」
ミラベルの胸がぎゅっと締めつけられる。
アメリアがこんなふうに弱音を吐くのは、滅多にないことだった。
「怖いって……なにが?」
しばらく沈黙してから、アメリアは俯いたまま言葉を落とした。
「もし……もしわたしが“悪役令嬢”のままだったら……
いつかみんなを裏切ることになるんじゃないかって……」
その声は震え、涙がポタリと落ちた。
「みんな、優しくしてくれるのに……
そんな未来があったらって思うと……
わたし……どうしていいか分からないの」
ミラベルは愕然とした。
あんなに皆を助け、誰より優しいアメリアが――
“自分が悪役だ”なんて、そんなふうに思っていたなんて。
「アメリア……そんなこと……」
否定しようとしたミラベルの言葉を、アメリアが小さく遮る。
「言えない未来を知ってるのが……怖いの。
みんなと一緒に笑ってるのに……
わたしだけ、全部壊れる未来を知ってたら……どうしようって……」
その言葉の意味を、ミラベルは完全には理解できなかった。
けれど――アメリアが“何かを抱え、ひとりで苦しんでいる”ことだけは、痛いほど分かった。
ミラベルはそっとアメリアの手を取る。
その手が、こんなに冷たいなんて。
「アメリア……ひとりで抱え込んじゃだめだよ」
優しい声で、寄り添うように言った。
アメリアの冷えた手を包みこむように、ミラベルはそっと握った。
その目は、揺らがない優しい光でアメリアを見つめている。
「アメリアは、アメリアよ」
言葉は静かで、でも強かった。
「あなたがしてきたことは、誰かを傷つけることじゃなくて……
癒したり、助けたりすることばかり。
未来なんて、誰にも決められないわ」
ミラベルが微笑むと、ふわりと空気が柔らかくなる。
アメリアは思わず視線を落とし、唇を震わせた。
「……うん。でも……」
言葉の先は続かない。
胸の奥では、別の声が響いていた。
(“ゲームのわたし”は違った……
悪役で、失敗して、最後には破滅した。
今が幸せなほど……破滅が近づいてる気がしてしまう……)
震える心を抱えたまま、アメリアはそっと眉を寄せる。
ミラベルの言葉はたしかに温かく、胸に沁みた。
だけど――不安の核心はそこではない。
自分だけが“前世の未来”を知っている。
誰にも言えない。
どれほど優しくされても、その孤独は消せない。
アメリアは、握られた手の温もりに少しだけ安心しながらも、
ぽつりと呟く。
「……もし、わたしの知らないところで……
本当の“運命”が決まっていたら……どうしよう」
ミラベルはアメリアの手を握り返した。
「運命なんて、私たちが変えてみせるわ。
ひとりで戦わせたりなんて、絶対にしない」
優しく頭を撫でるような声。
アメリアは小さく微笑んだ――
だけどその微笑みは、儚く震えていた。
(……ミラベルがいてくれるのは、すごく心強い。
でも……この不安だけは……言えない)
その夜、アメリアの胸の奥には、
“温もり”と“孤独”が同時に息づいていた。
その夜。
学院の寮の窓辺に、アメリアはひとり腰掛けていた。
外には雲ひとつない夜空。
銀色の月が、静かに世界を照らしている。
アメリアは胸の前で指を組み、そっと息を吸った。
昼間はなんとか笑ってみせたけれど、
張りつけた笑顔は、もうすっかり剝がれ落ちていた。
ぽたり、と頬を伝う雫。
(もし……もし未来が変わっていなかったら……
わたしはどこへ行くの……?)
喉の奥がきゅっと締めつけられる。
前世で知っている“物語の結末”。
それを避けるために、ずっとがむしゃらに走ってきた。
癒やしの力を使い、誰かを助け、
“悪役令嬢の道”から外れようとしてきた。
けれど――
(どれだけ足掻いても、
もし“破滅”が決まっているなら……?)
胸の奥に押し込めていた恐怖が、
今夜は静かに形を持ち始めていた。
指先が震える。
涙がひと筋、またひと筋と落ちる。
「……嫌だよ……こんなに幸せなのに……」
呟いた声は、月の光に溶けて消えていく。
そのとき――
窓の外の風がふと強く吹き、木々の枝がざわめいた。
まるで、夜の世界が何かを告げようとしているように。
アメリアは気づかない。
この静けさの下で、“ある大事件”が
すでに動き出していることを。
それは――
彼女が積み上げてきた平穏を揺るがし、
眠っていた“破滅フラグ”を呼び覚ます波紋となる。
涙を拭ったアメリアは、
月を見上げたまま、不安を抱えた夜を越えていく。
知らぬ間に、運命の歯車は
静かに、しかし確実に回り始めていた――。




