第35話:病院に咲く小さな希望
ミラベルは城の文官から、療養院で“患者たちの心が弱っている”という話を聞いた。
病状そのものではなく、長い闘病で気力を失い、夜も眠れず、未来を恐れてしまう者が増えているという。
その説明を聞きながら、ミラベルの胸はじくりと痛んだ。
(アメリアの編み物なら……あの温かさなら、少しでも寄り添えるかもしれない)
そう思い立った瞬間、彼女は迷わず寮へ向かった。
アメリアは、毛糸を抱えたままミラベルの話を聞き、ゆっくりとまばたきをする。
「わたしの編み物で……本当に、助けられるでしょうか」
その声音は、期待でも自信でもなく、ただ純粋な不安だった。
ミラベルはそっと微笑み、アメリアの両手を包み込む。
「アメリアだからできることがあるの。あなたが編むものは……必ず誰かの支えになる」
しばらく黙っていたアメリアは、胸に落ちるように小さく頷いた。
「……わかりました。やってみます」
その表情はまだ不安を残していたが、それでも一歩踏み出す強さがあった。
翌朝。
ふたりは王都南端にある大きな療養院へと向かう。
煉瓦造りの建物は立派なのに、どこか静かで、重い空気をまとっていた。
冬の冷たい風が吹くなか、アメリアは胸元の毛糸を軽く抱えながら、息を整える。
ミラベルはその横顔を見守りながら、そっと言った。
「大丈夫。あなたの優しさは、きっと届くから」
アメリアは小さく深呼吸し、ゆっくりと扉に手を伸ばした。
その先に、まだ知らぬ“救うべき誰か”が待っていることを感じながら。
療養院の扉をくぐった瞬間、ひんやりとした静寂がふたりを包んだ。
外の喧噪とはまるで別世界――声を潜めたくなるような、重たい空気。
廊下には薬品の匂いと、遠くから微かに聞こえる咳の音。
足音だけが、石床にかすかに響く。
案内してくれた看護師は、眉尻を下げながら説明した。
「病状そのものもありますが……気力が落ちてしまう方が多いんです。
痛みで夜眠れなかったり、先のことを考えるのが怖くなってしまったりして」
その言葉は淡々としていたが、そこににじむ苦労と無力感は容易に感じ取れた。
ベッドに横たわる患者たちは、目を閉じたまま深く息をつく者、天井を虚ろに見つめる者、震える手を握りしめる者――誰もが疲れ切っていた。
アメリアはその姿を見て、胸が締めつけられるような痛みを覚える。
そして思わず、抱えていた毛糸をきゅ、と握りしめた。
(……わたしの編み物で、本当に何かできるのかな)
その疑いと、不安と、でも“助けたい”という想いが、静かに混ざり合っていく。
ミラベルはそんなアメリアの横顔を見て、そっと寄り添うように立った。
まだ始まったばかりの訪問だが、アメリアの心はすでに深く動かされていた。
看護師に案内された先は、廊下のいちばん奥にある、小さな個室だった。
扉が静かに開くと、淡い光だけが差し込む部屋のベッドに、痩せた少年が横たわっていた。
年の頃は十歳前後だろうか。
腕は枝のように細く、頬はこけ、目の下には深い影が落ちている。
呼吸は浅く、胸が上下するたびに苦しげな音が漏れた。
看護師がそっと説明する。
「……この子は長く病と闘っていまして。
痛みの波が強い日が多く、ほとんど眠れないんです。
未来の話をすると、泣いてしまうこともあって……」
その声は仕事としての説明ではなく、
まるで家族を案じるような、深い悲しみを帯びていた。
少年はまぶたをわずかに持ち上げ、来客が誰なのか確かめるように視線を向ける。
その目は年齢に似合わず、諦めと疲労で濁っていた。
「……目を閉じるとね、苦しくなるんだ。
寝たくても……寝られないんだよ」
震える声で、少年はぽつりと打ち明ける。
アメリアは胸をえぐられたような気持ちで、一歩、二歩とゆっくり近づく。
声をかけようと口を開くが、言葉が見つからず――
代わりに、静かに膝をつき、少年と同じ目線に合わせた。
そして、両手でそっと抱えるようにしていた小さなブランケットを見つめる。
昨夜遅くまで、少年のことを思いながら編んだもの。
柔らかな、淡い色の糸で――痛みで緊張した身体でも拒まないように。
「……少しでも、楽になれますように」
か細い願いを込めてアメリアがそう告げた瞬間、
少年の目に、わずかな期待――消えかけた火が、かすかに揺れ戻るような光が宿った。
アメリアはベッドの脇に腰を落とし、そっとブランケットを広げた。
淡い生成り色の糸――ほんのりと温もりが宿る、不思議な柔らかさ。
少年の胸元へゆっくりと掛けると、糸が肌に触れた瞬間――
まるで微かな光がふわりと灯ったように、空気が変わった。
少年は驚いたように目を瞬かせ、かすれた声を漏らす。
「……あったかい……」
その言葉は、泣き出す直前の子どものように震えていた。
これまで痛みに固く強張っていた顔が、
少しずつ、ゆっくりとほどけていく。
細い指がブランケットの端を頼るように握った。
呼吸が深く、静かになり――
少年のまぶたが自然に落ちていく。
医師が息を呑むように前に出た。
「……これは……本当に……いつ以来だ?
こんな穏やかな寝息……見たことがない……」
看護師も手で口元を押さえ、涙をこらえる。
ミラベルも信じられないというように瞬きをした。
病室に満ちていた重苦しい気配が、嘘のように薄らいでいく。
そして――
少年は、まるで痛みなど初めから存在しなかったかのように、
静かな寝息を立てた。
その寝顔は、幼い子供が安心しきって眠るときのそれだった。
アメリアはその姿を見つめながら、胸がじん、と熱くなる。
気づけば、指先が小さく震えていた。
(こんなふうに……わたしの編み物で……誰かを助けられるなんて)
その心の声は、驚きと喜びが混ざり、
自分でも掴みきれないほど優しく揺れていた。
どれほど眠っていたのだろう。
窓の外の光が傾き、病室には柔らかな夕色が差し込んでいた。
ブランケットを胸に抱いたまま、少年がゆっくりとまぶたを上げる。
痛みに怯えるようだった瞳は――今は、不思議なくらい静かだった。
少年はぼんやりと天井を見つめ、
それから両腕の中の温かな布に気づくと、布地をぎゅっと握りしめた。
「……あ……れ……?」
かすれた声が漏れる。
アメリアがそっと身を寄せる。
「痛く……ありませんか?」
少年は小さく首を振った。
そして――ふっと微笑む。
弱々しいのに、確かに“生きている”と感じられる笑顔。
「……また、がんばれる気がします」
その言葉は、か細い。
けれど、揺るがない芯があった。
痛みに押しつぶされていたはずの心が、もう一度未来を見ようとしている。
アメリアは一瞬、息を呑んだ。
驚きと、信じられない気持ちと、胸の奥に広がる温かさが混ざり合う。
視界が、ふわりとかすむ。
「……よかった。本当に……よかった……」
言葉に出した瞬間、涙声になってしまい、アメリアは慌てて目元を押さえた。
けれど、隠せなかった。
ミラベルはその横顔を見つめ、そっと微笑んだ。
(アメリア……あなたの編み物は、本物の“癒やし”なんだわ)
病室の空気が、ほんの少しだけ明るくなる。
少年の小さな“生きたい”の火が、静かに灯った瞬間だった。
それから数日。
療養院の空気は、どこか前より柔らかくなったように感じられた。
アメリアが少年のために編んだブランケットは、やがて小さな噂となり、
「同じものを作ってほしい」と各病室から頼まれるようになった。
看護師が、かごいっぱいの毛糸を抱えながら微笑む。
「アメリアさんの毛糸は……触れるだけで、心が軽くなるみたいです。
患者さんたち、みんな楽しみにしているんですよ」
「そ、そんな……大げさです……」
アメリアは頬を赤らめ、慌てて首を振った。
けれど胸の奥では、温かなものがふわりと広がっていた。
――自分の編んだものを、必要としてくれる人がいる。
その事実が、彼女にとって何よりの励ましだった。
やがて噂は療養院を越え、王都の人々の間へと広まっていく。
「編み物が病を癒すらしい」
「少女の作る布には、不思議な温かさがあるんだって」
「触れた人の心が安らぐんだってさ」
市場の露店でも、路地裏の小さな茶店でも、
誰かが必ずその話題を口にした。
アメリアは、そんな噂話を偶然耳にして、そっと微笑む。
(わたしの編み物が……誰かの“続きを生む”なら。
それだけで、もう十分)
希望なんて、大きな奇跡じゃなくていい。
ほんの少し、明日をもう一度信じられるだけでいい。
アメリアの細く優しい指先が、今日もまた毛糸をすくい、紡ぎ始めた。
その小さな糸は、確かに誰かの心へ届く――
そんな確信を帯びながら。




