第33話:孤児院に届く一枚のマフラー
王都の外れ、古い孤児院では、今年の厳しい寒さが小さな子供たちの体を容赦なく奪っていた――そんな知らせが、公爵家の玄関先にもたらされたのは、柔らかな陽が傾きはじめた午後のことだった。
ミラベルの母の体調がようやく安定したと聞き、お祝いの菓子を手に訪れた孤児院の院長は、深々と礼をしてから、ふと力の抜けたように肩を落とす。
「今年は防寒具が足りなくて……。
子供たちは強がっていますが、夜はさすがに震えてしまう子もいて」
院長の声は、愚痴というより、押し込めていた苦しみが少し零れたような響きだった。
ミラベルは思わず息を呑む。
孤児院は民の寄付で成り立っている。景気や情勢が悪い年は、それが真っ先に響く。
小さな子供たちが、寒さに耐えながら眠りにつく光景が、胸の中に重く落ちていく。
(……なんとかしたい。けれど……)
脳裏に浮かんだのは、編み針を静かに動かすアメリアの姿だった。
あの子の編み物は、ただの手仕事ではない。そっと触れただけで心が温かくなる、不思議な優しさを持っている。
(あの子の編み物なら、助けられるかもしれない……。
でも、負担をかけてしまう? 十数人分なんて……)
唇がかすかに揺れた。
言い出そうとして、言葉が喉の奥で絡まる。
院長も、折れたように微笑みながら続ける。
「無理は承知しています。ただ……子供たちの寝顔を見ると、どうにかしてあげたくて」
ミラベルは胸に手を添え、小さく頷くしかなかった。
助けになれる手段があるのに、踏み出せない自分がもどかしい。
それでも――アメリアに頼むのは、やはり躊躇われた。
(……どうするべきかしら。彼女は、いつも静かに過ごしているだけなのに)
寒風が窓を叩く音が、現実を急かすように響く。
でもミラベルは、まだ言い出せなかった。
静かな葛藤だけが、胸の奥でそっと揺れていた。
その日の夕刻、ミラベルはアメリアの部屋の前で小さく息を整えた。
ドアの向こうからは、いつもの規則正しい編み針の音。
その静けさを乱してしまうのではと胸が痛んだが——それでも、子供たちの震える肩が頭から離れない。
「アメリア、少し……話してもいいかしら?」
扉を開けると、アメリアは窓際に座り、淡々と編み針を動かしていた。
ミラベルの声に顔を上げると、ほんのりと柔らかい瞳を向ける。
「どうしたの、ミラベル?」
ミラベルは、孤児院の現状を慎重に、言葉を選びながら伝えた。
ひどい寒さに震える子供たち。寄付が追いつかず、夜は泣きながら眠りにつく子がいること。
アメリアの編み物なら助けになれるかもしれないと思いながらも、負担をかけたくない気持ちで迷っていること——。
話し終えるころには、ミラベルの手は胸元でぎゅっと握り締められていた。
「だから……無理にとは言えないの。あなたの時間を奪ってしまうし……十人以上も……」
するとアメリアは、わずかな間も置かずに頷いた。
「……編める分だけですが、お渡ししたいです」
「え……?」
ミラベルは思わず瞬きを繰り返す。
予想以上に迷いのない返答だった。
「アメリア、本当に……? 無理は——」
「無理じゃないですよ」
アメリアは静かに微笑んだ。
その表情は、使命感でも義務感でもなく、ただ自然体の優しさに満ちている。
「夜のほうが静かで、手が進みますから。
……子供たちが少しでも楽になるなら、編みたいです」
その一言に、ミラベルの胸がじんと熱くなる。
アメリアはすでに編み針を取り直し、糸にそっと触れていた。
まるで“もう始めている”と言わんばかりに。
ミラベルは言葉を失ったまま、そっと微笑むしかなかった。
(この子は……どうしてこんなにも、まっすぐに優しいんだろう)
その夜、窓の外で風が強く吹こうとも、アメリアの部屋からは一定のリズムが途切れることはなかった。
夜の寮は、しんと静まり返っていた。
廊下の灯りも落ち、遠くで木々が揺れる音がかすかに響くだけ。
そんな闇の中で、アメリアの部屋だけに小さなランプが灯っていた。
淡い橙色の柔らかな光。その中で、彼女は机に向かい、黙々と編み針を動かしている。
慌ただしさも焦りもない。
ただ、毛糸が指を通っていくその感触を確かめるように、静かに、丁寧に編み続けていた。
机の上には何種類もの毛糸玉が置かれている。
くすみのないクリーム色、春の風のような淡い空色、子供の頬のようにやさしい桃色。
どれも肌に触れれば安心するような温かい糸ばかりだった。
アメリアはひとつひとつ手に取りながら、迷いなく選ぶ。
(この色は、小さな子に似合いそう……
この糸は、冷え性の子にいいかも)
理由を言葉にしなくても、手が自然に動く。
まるで糸が子供たちの姿を思い浮かばせ、アメリアの指を導いているかのようだった。
そのころ、ミラベルは廊下をそっと歩き、アメリアの様子を覗きに来ていた。
夜更けまで編み続けていると知り、心配が先に立ったのだ。
「アメリア……?」
控えめに扉を開けると、オレンジの光の下で編み針がやわらかく響いていた。
アメリアは振り返り、けれど手は止めずに、穏やかな笑みを浮かべる。
「ミラベル、こんばんは。……眠れませんか?」
「あなたこそ、無理してないでしょうね……?」
アメリアは軽く首を横に振る。
「子供たち、寒いのは嫌だと思うんです。
……きっと、誰でも」
その横顔は、波ひとつない凪の海のように静かで、けれど温かい。
ミラベルの胸がじんわりと熱くなる。
(こんな優しさに、世界はどれだけ救われるんだろう)
ミラベルは、呼吸が胸の奥で柔らかくひろがるのを感じながら、
アメリアの背中にそっと目を細めた。
そして数日後——。
アメリアの机には、色とりどりのマフラーが山になって積まれていた。
桃色、空色、若草色、きなり色……
どれも編み目に個性があり、長さも幅も全部ちがう。
ひとつとして“同じ子”などいないように、
アメリアは最初から“同じもの”を作る気などなかったのだ。
そこに並ぶのは、十枚以上の、小さな命を包むための温もり。
アメリアの夜と優しさが編み込まれた、世界で一つだけの贈り物だった。
孤児院に着くと、冬の冷たい風が頬を刺した。
古い建物の前で、子供たちが遊ぶでもなく、ただこちらをじっと見つめている。
“お客様”に慣れていない——そんな距離のある空気が、淡い曇り空の下で揺れていた。
ミラベルがそっと微笑みかけると、子供たちは小動物のように一歩だけ後ろへ下がる。
けれど逃げようとはしない。ただ、どうしていいかわからないだけだ。
院長が駆け寄ってきて、深々と頭を下げる。
「まあまあ、わざわざ……ありがとうございます。子供たち、こっちへいらっしゃい」
その声に誘われ、子供たちが少しずつ寄ってくる。
アメリアは抱えていた布袋をぎゅっと握りしめ、照れくさそうに口を開いた。
「……あの。よかったら、使ってください」
布袋の口を開くと、色とりどりのマフラーがふわりとこぼれ出る。
子供たちの視線が、一斉に釘付けになった。
けれど誰も手を伸ばさない。
「触ってもいいものか」
「自分なんかが持っていいのか」
そんな迷いが、小さな瞳に影のように揺れていた。
その中で、一人——五歳くらいの、痩せた男の子が前に出た。
ためらう指が、そっと淡い水色のマフラーに触れる。
「……これ、ぼくがつけていいの?」
どこか壊れそうな声。
アメリアは少し驚いたように瞬きをし、すぐにやわらかく笑って頷いた。
「ええ。あなたに、です」
男の子はゆっくりとマフラーを持ち上げ、ぎこちなく首に巻いた。
その瞬間——
肩がふわっと緩む。
そして次の瞬間、彼はマフラーの端を、両手でぎゅっと握りしめた。
「……あったかい。
これ……ぼくのために、つくってくれたの……?」
声が震え、喉の奥で泣き声がつかえている。
涙は落ちまいと必死に堪えているのに、瞳だけが潤んでいた。
院長が口元を覆い、ハンカチで涙を拭う。
「この子……“自分のもの”なんて、ほとんど持ったことがなくて……」
その言葉に、ミラベルの胸が痛む。
アメリアはそっと子供の前にしゃがみ、頭を優しく撫でた。
「うん。あなたのだよ。
だから、大事にしていいの」
男の子の表情が、ゆっくりゆっくりとほころぶ。
その笑みは、寒い冬の孤児院に灯った小さなストーブみたいに温かかった。
その日、孤児院には久しく聞こえなかった種類の笑い声が満ちていた。
庭の木の下で、子供たちが首に巻いたばかりのマフラーを誇らしげに見せ合い、風の中を駆け回っている。
色とりどりの布が揺れ、そのたびに冬の曇り空が少しだけ明るくなったように見えた。
ミラベルはその光景を、建物の縁に寄りかかりながら眺めていた。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
それは焚き火に手をかざしたときの温もりではなく、もっと深くて、心そのものに沁みてくるような温度だった。
(……こんな世界を守りたい)
(アメリアが生み出す優しさを——)
(踏みにじられたり、奪われたりなんて……絶対にさせない)
心の中で静かに、けれど強く刻まれる決意。
ミラベルの視線は、自然とアメリアへと向かう。
アメリアは少し離れたところで、子供たちが笑い声をあげるのを見つめていた。
控えめで、どこか照れたような微笑み。
けれどそれは、どんな宝石よりも温かく輝いている。
風が吹き抜け、庭の木々がさわさわと揺れる。
子供たちのマフラーがふわりと浮き上がり、淡い春の気配を運んでくる。
まだ冬は終わらない。
けれど、この瞬間に確かに“春の予感”があった。
ミラベルはそっと目を閉じ、もう一度強く思う。
必ず守る。
この世界を——そして、彼女の優しさを。




