第30話:第二王子、正式な求婚 ―「泣いていい、弱くていい」
音楽の余韻がまだ空気の中に溶けている。
煌びやかな灯りが次々と落ち、宴が静かに幕を閉じていく頃。
庭園へと続くバルコニーには、月明かりだけが静かに残されていた。
ミラベルはひとり、白い手を胸元に添えたまま、ゆっくりと深呼吸を繰り返していた。
頬にはまだ、誰かに笑いかけたときの名残がほんのり残っている。
だが、その微笑みを思い出すたび、胸の奥がきゅっと締めつけられるように苦しくなる。
(今日……私、笑えていた。ちゃんと……自然に)
そう思うだけで、胸の奥が温かくなる。
周囲が暖かく迎えてくれたこと。
冷たい視線ではなく、ただの“同年代の仲間”としての眼差しが向けられたこと。
その全てが喜びのはずなのに──。
(なのに……どうして、涙が出そうになるの……?
“幸せ”を怖がってるだけ……なのに)
唇をぎゅっと噛んで、なんとかこぼれそうな想いを押しとどめる。
ずっと欲しかったものを、ようやく手にできた喜び。
それを信じてしまえば、もしも失ったときに立っていられなくなる。
そんな恐れが、影のように揺れていた。
そのときだった。
ふわりと、背中のほうから柔らかな気配が近づいてくる。
威圧するでも、驚かせようとするでもない──
ただ、そっと彼女を包み込むような優しい気配。
ミラベルは驚きに肩を震わせ、ゆっくりと振り返った。
そこに立っていたのは、月明かりを背にした第二王子ユーグだった。
彼の静かな眼差しが、まるでミラベルの不安ごと抱きしめるように温かく揺れていた。
バルコニーを満たす静寂を、足音がひとつ、ふたつと優しく刻む。
振り返るより前に、ミラベルはその気配だけで誰なのかを悟った。
月光の下、ゆっくりと歩み寄ってくる第二王子ユーグ。
煌びやかな王族の装飾も、今の彼にはどこか影を潜め、ただひとりの青年のように見える。
「……少し、外の空気を吸おうと思って」
飾り気のない、穏やかな声。
それだけの言葉なのに、不思議と胸の奥がほどけていく。
ミラベルは慌てて姿勢を正し、スカートの裾をつまんで頭を下げた。
「ゆ、ユーグ殿下……っ、失礼を──」
だが、彼は小さく首を横に振る。
「そんなに背筋を伸ばさなくていい」
その声音は、夜の空気よりも柔らかかった。
「今日のあなたは……ありのままで十分綺麗だった」
――瞬間。
胸の奥が強く揺れた。
まるで優しく触れられた場所が、そこから温かく広がっていくように。
努力した姿でも、完璧に取り繕った姿でもない。
“素の自分”を肯定されることに、ミラベルはどうしようもなく弱かった。
(どうして……そんな言葉を、迷いなく言えるの……)
心の奥に隠していた不安がひとつ、またひとつと溶けていく。
その変化を、ミラベル自身がまだうまく受け止められずにいた。
言葉を交わしたあとは、短い沈黙が続いた。
庭園の楽団の音は遠く、ここだけが別の世界のように静かだった。
ミラベルは胸の前で組んだ手をぎゅっと握りしめる。
言わないままでいた感情が、喉元まで満ちてきて――
もう隠しきれなかった。
「……怖いの」
かすれた声が、夜の空気に溶ける。
「今日みたいに笑える日が続くなんて……
私には……贅沢すぎる気がして」
幸せに触れた瞬間ほど、不安が大きくなる。
その弱さを、誰にも見せたことがなかった。
うつむいた視界が滲み、涙の気配がかすかに震える。
そのとき。
足音も立てずに、ユーグがそっと近づいた。
触れられそうな距離――だが、触れない。
けれどその存在は、背中に温もりを灯すように寄り添っていた。
「泣いてもいい」
静かだが、芯のある声。
「弱くてもいい」
まるで、ずっと隠してきた心の奥を優しく撫でるような響き。
そして――
「……その姿ごと、私は愛せる」
月明かりが、ふたりの間を満たす。
ミラベルは息を呑んだ。
胸の奥のもっと奥に、そっと手を差し込まれたような感覚。
誰にも見せまいとしていた“弱さ”に、
初めて光が差し込んだ瞬間だった。
ミラベルが息を震わせたその瞬間――
ユーグはそっと一歩、彼女の前に進み出た。
そして。
月明かりの下で、静かに、しかし迷いなく片膝をつく。
胸に手を当て、深く頭を垂れたその姿は、
王族としての威厳ではなく、ひとりの男としての誠意そのものだった。
「ミラベル・ローゼン」
名前を呼ぶ声は、どこまでも真っ直ぐで温かい。
「どうか、私の隣に立つ未来を──
共に歩む生涯を、受け取ってほしい」
夜風がそっと吹き抜ける。
ミラベルの肩にかけられたショールがふわりと揺れ、糸が淡く光を放った。
まるでアメリアの温もりが、背中をそっと押してくれているかのように。
ミラベルの胸が、大きく揺れる。
(こんな言葉……
望んではいけない。
求めてはいけない――そう思っていたのに)
なのに。
押し殺してきた願いが、心の奥でそっと形を取りはじめる。
ずっと遠いものだと諦めていた光が、目の前で手を差し伸べている。
堪えていた涙が、ついに溢れた。
それは悲しみではなく、
長い孤独がほどけていく音そのものだった。
涙が止まらなかった。
ミラベルは口元を手で押さえ、必死に呼吸を整えようとする。
けれど胸の奥から溢れてくる感情は、言葉にしなければこぼれてしまうほどに大きかった。
「……わたし……強くないわ……」
震える声。
それなのに、その言葉だけは真実として揺らがない。
「泣いてばかりで……何度もつまずくのに……
そんな私でも……いいの……?」
問いかけは弱々しいが、
まるで幼い頃から閉じ込めてきた本音が初めて外に出たような、
痛いほどの純粋さがあった。
ユーグはそっと視線を上げ、彼女の涙をまっすぐ受け止める。
躊躇など一片もない、穏やかな微笑み。
「だからこそ、守りたいと思った」
短い言葉。
けれど、その中には愛情より深い“覚悟”があった。
ミラベルの肩が、震える。
俯いたまま涙がぽろぽろと零れ落ちる。
ショールの糸がその雫を受けて淡く光り、まるで祝福しているようだった。
やがて、ミラベルは涙を拭うこともせず、
そのままの姿でしっかりと顔を上げた。
「……はい。
私で、よければ……」
か細い声。
でも、はっきりとした頷き。
“氷の令嬢”と呼ばれた少女の心はその瞬間、完全に溶けた。
それは恋の成立というより、長い孤独からの解放だった。
ミラベルの返事を聞いた瞬間、
ユーグの表情が静かにほどけた。
彼はゆっくりと立ち上がり、
そっと両腕を広げ、まるで触れる前から彼女を包んでいるような優しさで──
ミラベルを抱き寄せた。
驚いたように身を固くしたミラベルだったが、
次の瞬間には、抑えていた涙が堰を切ったように溢れ出る。
細い肩が震え、彼の胸元に顔をうずめて泣き続ける。
ユーグは強くは抱かない。
ただ、逃げ場を与えるような温度で、静かに支える。
「もう隠れなくていい。
あなたの涙も笑顔も、全部……これからは隣で受け止める」
低く、穏やかな声が夜気に溶ける。
言葉というより、誓いだった。
ミラベルの涙がドレスの胸元を濡らしていく。
その滴は、悲しみではなく、
彼女の人生で初めて“救われた涙”だった。
抱擁の中、ショールの糸が微かに光り、
まるで二人の未来を予祝するように揺れる。
月明かりの下、
二つの影がゆっくりと一つに重なっていく。
──こうして静かな幸福の瞬間は幕を閉じ、
物語は次章、
公爵家と王子の婚約問題という新たな波へ歩み出すのだった。




