第29話:ミラベル、笑顔のデビュー ――「飾らず、ただ自分でいるために」
ミラベルは、まだ冷たい朝の空気の中で鏡の前に立っていた。
背後では侍女たちがせわしなく動き、ドレスの裾を整え、宝石を留め、香油を髪に垂らす。
きらびやかな手が次々と彼女を飾っていくたびに、鏡の中の“完璧な令嬢”が形作られていく。
だが――その姿を見つめる彼女の瞳には、どこか影があった。
ミラベル(心)
(綺麗に着飾っても、どこか息苦しい……
今日は“令嬢”ではなく、“わたし”として行きたいのに)
侍女が最後の仕上げに、金細工の髪飾りを差そうとしたとき、ミラベルはそっと手を上げて制した。
「ありがとう。……もう大丈夫よ」
その声は穏やかで、けれどどこか決意を帯びていた。
鏡台の上には、ひときわ目立たぬ存在――アメリアが贈ってくれた薄桃色のショールが置かれていた。
柔らかい羊毛の織り目が、朝陽を受けてほのかに輝いている。
ミラベルは手を伸ばし、慎重にその布を持ち上げる。
指先が糸を撫でた瞬間、微かな温もりが伝わってきた。
それはまるで、遠くからアメリアが「大丈夫」と微笑んでくれているような優しさだった。
ミラベル(心)
(……これなら、少しは胸を張って笑えるかもしれない)
侍女たちの「まあ、なんて素敵な色……」という囁きが遠くに聞こえる。
けれどミラベルの耳には、ただ静かな鼓動と、心の奥に灯る小さな勇気の音だけが響いていた。
彼女は姿勢を正し、鏡の中の自分に向かって小さく微笑んだ。
そこにいたのは――貴族としての仮面を外し、“ミラベル”という一人の少女として立つ姿。
その笑みは、彼女が初めて見せた本当の笑顔だった。
会場には、華やかな音楽と、きらめくシャンデリアの光が満ちていた。
貴族たちが集い、鮮やかなドレスが咲き誇る中、その中心へと続く大理石の階段の上に――ミラベルが静かに姿を現した。
淡い薄桃色のショールが、動くたびにやわらかく揺れ、光を受けてほのかに輝く。
それは豪奢な宝飾品よりも、なぜか人の視線を惹きつけた。
最初に息を呑んだのは、令嬢たちだった。
令嬢A
「……あれがミラベル・ローゼン。**“氷の令嬢”**が……笑ってる?」
続いて、令息たちがひそひそと囁く。
令息B
「ショールが光ってる……?
いや、彼女自身が柔らかく見えるんだ……まるで、春の風みたいだ」
そのざわめきはすぐに広がり、華やかな会場の空気がふと変わった。
誰もが知っているはずのミラベル――近寄り難い、完璧で、冷たい貴族令嬢のはずだった。
だが今、彼女の纏う雰囲気はまるで違っていた。
豪華さではなく、温かさ。
気品ではなく、優しさ。
ショールの淡い光がその印象をいっそう際立たせ、ミラベルは会場のどの令嬢よりも自然体で、美しかった。
ミラベルは周囲の視線に気付いても、逃げることなく微笑む。
その優しい笑みに、挨拶をしにきた令嬢たちは思わず頬を染め、令息たちは言葉を失った。
――ひとりの少女の“変化”が、その場の空気さえ温めていく。
ミラベル自身は気づかない。
アメリアが編んだショールと、心からの笑顔が、
彼女を“誰も近づけなかった存在”から“誰も放っておけない存在”へと変えていたことに。
会場のざわめきの向こう、
少し控えめに壁際へ立つアメリアの姿がミラベルの目に留まった。
淡い色のドレスに身を包み、
胸元には――ミラベルが贈った、小さな刺繍入りのブローチ。
会場の光を受けて、ちょん、と優しく輝いている。
ミラベルの胸が、ふっと温かくなる。
(ああ……ちゃんと付けてくれている)
その感情に背中を押されるように、彼女は周囲の視線を気にすることなく歩み寄った。
アメリアは気付いて目を丸くする。
ミラベル
「……似合っているわ」
アメリア
「えっ……そんな……!
ミラベルさまこそ、すごく素敵です。
そのショール……やっぱり、とても似合ってます」
ミラベルの肩にかかる薄桃のショールが、アメリアのほほ笑みに応えるようにふわりと光る。
その光は、編み手の心を映すように柔らかく温かかった。
二人は自然に微笑み合う。
その瞬間だけ、会場の喧騒がふっと遠のいたように感じられた。
音楽も笑い声も、煌めくライトさえも――すべてが背景に溶けていく。
ただ、ミラベルとアメリアの間に流れる
**“言葉より確かな信頼と友情”**だけが、静かにそこにあった。
会場の中央へ戻ると、先ほどとはまったく違う空気がミラベルを包んだ。
視線の色が――柔らかい。
最初に声をかけてきたのは、学院の教師だった。
堅苦しい表情が常の人物が、今日はどこか目を細めている。
教師
「ローゼン嬢。……今日のあなたは、実に素敵だ。
凛としていながら、どこかあたたかい。まるで春の陽だまりのようだ」
ミラベル
「そ、そんな……。ありがとうございます」
思わず俯きかけたが、肩のショールがそっと背中を支えるように揺れた。
その拍子に、ミラベルはゆっくり顔を上げる。
続いて、同級生たちが集まってきた。
生徒C
「ミラベルさん、なんだか……今日のあなた、いつもより華やかで!
会場が一段と明るくなったみたいです」
生徒D
「うん、ほんと。話しかけてもいい雰囲気っていうか……
なんか前より、ずっと優しそうに見えるよ」
「優しそう」
その言葉は、かつての“氷の令嬢”という印象とは真逆だった。
ミラベルは一瞬戸惑う。
けれど胸の奥は、不思議と温かかった。
ミラベル
「……ふふ。そう言ってもらえるのは少し恥ずかしいけれど、嬉しいわ」
照れ隠しの微笑みが自然に零れる。
逃げずに、堂々と相手の瞳を見て応じる自分に、彼女自身が驚いていた。
――大丈夫。
アメリアのショールが、そっと自分を包んでくれているから。
薄桃色の布が揺れるたび、まるで「ほら、胸を張って」と励ましてくれるように感じられる。
そしてミラベルは初めて、
“誰かに微笑みかけることが、こんなにも温かいものなのだ”
と知ったのだった。
ユーグは、人々に囲まれているミラベルを遠くから静かに見つめていた。
以前の硬い表情ではなく、どこか安堵したような、優しいまなざしで。
やがて周囲の生徒たちが散り、ミラベルがひと息ついた瞬間を見計らって、
彼はそっと歩み寄った。
ユーグ
「……ようやく、あなた自身の笑顔を見られた気がします」
ミラベル
「え……?」
その声色にはからかいも皮肉もなく、真っ直ぐな感情だけがあった。
ミラベル
「……そう見えたなら、きっとアメリアのおかげです」
ミラベルがそっと視線を横に送ると、少し離れたところにいたアメリアが
「わ、わたしなんて……!」と小さく手を振り、
けれどすぐに耳まで赤くして俯いた。
その控えめな様子に、ユーグは目を細める。
ミラベルもまた、自然に微笑んでいた。
ミラベル(心)
(この笑顔は、もう隠さなくていい……
誰かのために作ったものじゃない。
わたしが“わたし”として笑えるようになったのは――
あの毛糸の、やわらかい温もりから始まったんだ)
肩にかけたショールが、そっと揺れる。
そのぬくもりは、今でもミラベルの胸の奥で静かに光っていた。
音楽隊の奏でるワルツが、ホールいっぱいに広がっていく。
水晶のシャンデリアが光を散らし、人々の笑い声が重なり合う──
その中心で、ミラベルはそっとショールの裾を揺らしながら歩き出した。
最初は控えめな一歩。
だが、胸の奥を満たす温もりに背中を押されるように、
彼女は次の瞬間、ゆるやかな旋回の中へ身を委ねた。
薄桃色のショールがふわりと舞い上がる。
編み込まれた糸が光を受けてきらめき、
まるで春の花びらが踊りに加わったかのように、
ミラベルの周囲に柔らかな輝きが散った。
その光景を、ホールの端でアメリアが見上げていた。
胸元のブローチをそっと指で触れながら、
彼女の瞳はまるで宝石のように潤んでいる。
アメリア(心)
(ミラベルさまの笑顔……こんなに綺麗なんだ)
ミラベルがくるりと回るたび、
ショールの光が周囲の空気までも温かく染めていく。
その中心にある彼女の笑顔は、
これまで誰にも見せたことのない、心からのものだった。
ふとミラベルとアメリアの視線が重なる。
遠く離れていても、互いの思いは一瞬で繋がった。
音楽、光、笑顔──
そのすべてに包まれながら、物語は静かに、
次の幕へと歩みを進めていく。




