第23話:アメリア、狙われる
王都の朝は、いつもより張りつめていた。
学園で起きた“癒しの奇跡”が、貴族たちの社交界を駆け抜けていったのだ。
「庶民の少女が、傷を癒したそうだ」
「第二王子が、その子を庇っていると?」
「まるで、神話の再現ではないか――」
声の調子はさまざまだった。好奇、軽蔑、警戒、そして恐怖。
だが、ただ一つ確かなことがあった。
――この“アメリア”という少女の存在が、静かに均衡を揺らしているということだ。
王都の会議室の奥。
第一王子派の有力貴族たちが円卓を囲み、重苦しい空気が漂っていた。
「第二王子ユーグ殿下が、庶民風情を庇い、世論を動かしている。
このままでは、我らの地位も危うい」
「いくら奇跡と言えど、証拠は曖昧だ。だが民は“癒しの乙女”などと呼び始めておる」
「……火種は小さいうちに摘むべきだな」
誰かがそう呟いたとき、ひとりの令嬢が静かに扇を閉じた。
淡い金髪をゆるく結い上げ、完璧な微笑を浮かべる女――
セシリア・ヴァルモント。
その瞳には、冷ややかな光が宿っていた。
「殿方ばかりで話していても、進展はございませんわね」
周囲の男たちが息をのむ。
セシリアは椅子を立ち、ゆっくりと歩きながら言った。
「“奇跡”を恐れる必要はありません。
それが偽物だと、皆に知らしめればよいだけのこと」
「……どういう意味だ?」
彼女は、扇の縁で唇を隠し、ほほえむ。
「簡単ですわ。“彼女自身”が自ら崩れ落ちるよう仕向ければいい」
沈黙。
扇がカチリと閉じる音が、やけに鋭く響く。
「第二王子に近づく庶民――その純粋さが、どれほど脆いものか。
すぐに分かりますわ。……お茶会の席で、ね」
その言葉には、柔らかな響きと、氷のような決意が混ざっていた。
アメリアを誘う招待状は、その翌朝にはもう学園に届いていた。
午後の陽がやわらかく庭を照らしていた。
だが、その光の中に立つアメリアの胸は、不安に揺れていた。
「関係を修復したいの」――そう記されたセシリア・ヴァルモントからの招待状。
穏やかな文字、香り立つ封蝋、そして“和解”という言葉。
アメリアは、信じたい気持ちと、どこかで鳴る小さな警鐘の間で揺れていた。
それでも――。
(争うのはいや。ちゃんと話せば、きっと分かってもらえる)
そう思い直して、彼女は一人、庭園へと足を運んだ。
*
セシリアの邸宅の庭園は、まるで絵画のようだった。
白い薔薇が咲き誇り、銀のティーセットが陽を反射してきらめく。
アメリアのために用意された席は、一段低い場所。
周囲の貴族令嬢たちが円を描くように座っている。
セシリアが優雅に微笑んだ。
「ようこそいらしたわ、アメリアさん。庶民の方とお茶をするなんて、初めてで楽しみですの」
アメリアは小さく会釈する。
「お招きいただき、ありがとうございます」
最初は穏やかな世間話だった。
だが、紅茶の香りが深く漂うにつれ、言葉の温度はじわりと冷えていく。
セシリアがカップを傾け、淡く微笑んだまま言う。
「不思議ね、あなたの糸。
あれは神の恩寵? それとも……庶民の奇術かしら?」
アメリアは一瞬だけ戸惑う。
(奇術……?)
けれど笑って、静かに答えた。
「そんな立派なものではありません。
ただ、心を込めているだけです」
「心?」
セシリアの声に、僅かな嘲りが混じる。
「そんな曖昧なもので、貴族の病まで癒せると?」
その瞬間――。
テーブルの端で、使用人が香炉に火を点けた。
ふわりと漂う甘い香り。
だが、アメリアの喉が一瞬で焼けつくように痛む。
(……え? なに、これ……)
視界がにじむ。
手にしたカップが震える。
貴族令嬢たちのざわめきが遠くで響いた。
「まぁ……庶民の身で“神の力”を使うからよ」
「やはり、穢れたものだったのね」
囁きが広がる。
それは悲鳴ではなく――計算された“合唱”。
セシリアは扇を閉じ、冷たく微笑む。
「残念だわ。あなたが本物なら、きっとこんなことにはならなかったのに」
アメリアの意識が霞んでいく。
膝が崩れ、世界が傾ぐ。
(……違う……そんなつもりじゃ……)
最後に見たのは、空高く揺れる白薔薇。
その香りだけが、なぜか涙の味に似ていた。
午後の授業。
中庭では、上級生たちが実技の講義を受けていた。
風は穏やかに流れ、花壇のラベンダーが香り立つ――はずだった。
ミラベルはノートに視線を落としながら、ふと顔を上げた。
微かな違和感。風が、一瞬だけ“逆流した”ように感じたのだ。
(……何、この感じ)
次の瞬間、風に混じって、淡い光の粒がひとつ――
彼女の目の前を、儚く揺れて通り過ぎた。
胸が締めつけられる。
それは、あの時――アメリアが“癒しの奇跡”を見せた瞬間に漂った、あの光と同じものだった。
ミラベルの表情が固くなる。
(この光が出るのは、アメリアの“想い”が強く動いたとき。
でも、今は……お茶会に行っているはず。そんな場所で……?)
「ミラベル先生? どうかなさいました?」
近くの教師が声をかけた。
ミラベルは答えない。
ただ、風の匂いをもう一度嗅いだ。
そこには、薔薇の香りと――ごく微かに、焦げた草の匂い。
(毒草の煙……? まさか)
次の瞬間、彼女は椅子を蹴って立ち上がった。
「ごめんなさい、授業は続けておいて!」
「ミラベル先生!? 一体――」
制止の声を振り切り、彼女は走り出した。
風を切り、制服の裾が翻る。
(嫌な気配……アメリアが、危ない)
彼女の足音が石畳を叩き、校舎を抜け、薔薇園の方角へ向かう。
胸の奥で、確信にも似た焦燥が燃え上がっていた。
――アメリアに、何かが起きている。
王宮の執務室。
会議の報告を受けていた第二王子ユーグの耳に、慌ただしい足音が響いた。
扉が開く。
「殿下! 報告がございます!」
伝令の声は震えていた。
「……アメリア様が、セシリア様のお茶会で――突然倒れたと!」
空気が凍る。
ペンが机から転がり落ちる音がやけに大きく響いた。
「倒れた……?」
ユーグの瞳がわずかに揺れる。
「原因は?」
「香炉の煙に反応したようです。ですが、他の者は――」
「十分だ」
彼は最後まで聞かずに立ち上がった。
執事が慌てて後を追おうとする。
「殿下、危険です! 今向かわれては――」
「黙れ。庶民だから、という理由で見捨てろと言うのか?」
その言葉に、室内が静まり返った。
冷ややかな怒気と決意が、王族の威厳を帯びて空気を震わせる。
ユーグは外套を掴み、迷わず廊下を駆け抜ける。
馬屋へ向かう足音は、焦燥そのものだった。
(アメリア……お前が傷つくのを、もう見たくない)
一方その頃――
ミラベルもまた、学園の中庭を突っ切り、庭園の方向へ走っていた。
それぞれが別の経路で、同じ場所を目指す。
薔薇の香りと、毒草の煙が入り混じる“庭園”。
運命は、ひとつの焦点へと収束していく。
庭園の奥。
白い石畳の上に、アメリアが倒れていた。
頬は青白く、唇は震え、細い指がかすかに痙攣している。
香炉から立ちのぼる紫の煙が、ゆるやかに風に溶けていく。
その前に立つのは、セシリア・ヴァルモント。
紅茶のカップを指先で転がしながら、冷たい笑みを浮かべていた。
「……あなたは“庶民の希望”なのだとか」
彼女の声は、まるで演奏の前の調弦のように滑らかだった。
「なら、ここで消えてもらう。希望は、時に秩序を壊すものだから」
その瞬間――。
バンッ!
庭園の扉が、轟音を立てて開かれた。
風が吹き抜け、香炉の煙が散る。
「――触るな!!」
鋭い声。
ミラベルが立っていた。
金糸の髪が陽光を弾き、瞳には怒りの光。
彼女は迷わず駆け寄り、アメリアの体を抱きかかえる。
「アメリア、しっかりして……!」
セシリアの表情が歪む。
「何の真似かしら、侯爵令嬢。これはただの事故――」
「嘘を言わないで」
ミラベルの声は震えていた。
「あなた、わざと……この香を――」
その時、さらに重い足音が響く。
扉の向こうから、青い外套の男が歩み出た。
鋭い眼差し、冷徹な声。
「――王族の名の下に命ずる」
セシリアをはじめ、その場の全員が息を呑む。
第二王子、ユーグ・エルディア。
「この場にいる者は、全員その場を離れよ」
一言で、庭園の空気が凍りつく。
セシリアは蒼ざめ、使用人たちは膝をつき、誰も逆らえなかった。
ミラベルの腕の中、アメリアが微かに息をする。
その小さな音が、静まり返った庭園の中に、確かに響いた。
淡い夕陽が差し込む庭園。
倒れたアメリアを支えながら、ユーグは香炉を見つめた。
白磁の器の中――まだかすかに紫煙が揺らめいている。
彼はゆっくりと蓋を持ち上げ、指先で香の残滓をすくい上げた。
そして、低く、怒りを押し殺した声で言う。
「……毒草《スピリタ草》だ」
庭師や侍従たちがざわめく。
ユーグの視線は鋭く、炎のように冷たかった。
「この国では使用が禁じられている。
理由は簡単だ――吸えば、命を落とす」
セシリアは一歩も引かず、まるで舞台上の女優のように優雅に微笑んだ。
「誤解ですわ、殿下。そんなつもりはありません。
ただ……庶民の方は、体が少し繊細ですもの」
その一言に、ミラベルの瞳が光を帯びた。
「庶民だろうと、人だろうと――同じよ」
彼女は一歩前に出て、まっすぐセシリアを見据える。
「あなたが、一番それを理解していない」
その声には、怒りでも悲しみでもなく、静かな断罪の響きがあった。
セシリアの笑みが、一瞬だけ揺らぐ。
だがすぐに表情を取り戻し、口元を整える。
「……殿下もご存じのとおり、私はただのおもてなしを――」
「黙れ」
ユーグの一言で、空気が凍った。
王族の命令に逆らうことなど、誰にもできない。
背後から近衛の兵が現れ、セシリアの侍従たちを拘束する。
その場は混乱のまま収束し、
“毒草による事故”――という形で、事は表向きに処理された。
だが、ミラベルは知っていた。
そしてユーグもまた――沈黙の裏で、確かな怒りを燃やしていた。
庭園を離れるとき、アメリアの睫毛が震え、かすかに目を開く。
その瞬間、ミラベルの心の中に決意が芽生えた。
(もう、誰にも彼女を傷つけさせない)
夜の学園医務室。
窓の外では月が白く滲み、静寂だけが世界を包んでいた。
アメリアがゆっくりと瞼を開けると、淡いランプの光の下でミラベルが本を閉じた。
その隣、窓際にはユーグが腕を組み、夜空を見つめている。
「……ミラベルさま……?」
掠れた声に、ミラベルが微笑む。
「やっと目が覚めたのね」
アメリアは自分の手元を見る。包帯が巻かれ、指先にはまだかすかな痛み。
そして、心の奥に残るのは――あの庭園の冷たい香りと、崩れ落ちた瞬間の恐怖。
「……ごめんなさい。私、また迷惑を……」
その言葉に、ユーグがゆっくりと振り返る。
瞳には怒りではなく、深い静けさが宿っていた。
「違う」
短い一言に、アメリアは息を呑む。
「迷惑をかけたのは君じゃない。
……この国の“古い考え”のほうだ」
ミラベルも続けるように、アメリアの手をそっと握った。
「あなたが生きている。それだけで十分よ」
沈黙の中――アメリアの指先で、毛糸がふわりと淡く光った。
まるで小さな灯火が「大丈夫」と語りかけるように。
その光を見つめながら、ユーグは窓辺で静かに呟く。
「……この光が、国を変えるだろう。
けれど――同時に、狙われもする」
ミラベルの瞳が鋭く光る。
アメリアは何も言えず、ただその言葉の重みを胸に刻んだ。
外では風が夜を運び、月の光が三人を照らす。
その淡い光こそ――“優しさがもたらす奇跡”の証。
やがて訪れる嵐の前の、ほんの一瞬の静けさだった。




