第22話:古代の精霊と毛糸の秘密
編み物の禁止が解かれてから数日。
校内は、まるで新しい流行が始まったみたいに賑わっていた。
「次はマフラー作りたい!」「俺は手袋!」「帽子もいけるだろ!」
昼休みになると、男女問わず毛糸が机の上に並ぶ。
誰も隠れたり、怯えたりしない。堂々と、楽しそうに編んでいる。
――だけど、アメリアだけは違った。
手元の毛糸を見つめながら、そっと指で撫でる。
ふわふわした感触は、前と変わらない。
でも、この糸で人の傷が治った。
偶然、と言うには出来すぎている。
(どうして……? なんで、治るの?)
考えれば考えるほど、不安とも期待ともつかない感情が胸に広がる。
そんなアメリアの横で、ミラベルがページをめくりながら口を開いた。
「――昔の話よ。この国が“毛糸の王国”と呼ばれていた時代があったの」
「毛糸の……王国?」
周りの生徒たちが一斉に聞き返す。
「ご冗談でしょう、ミラベル様」
「毛糸で国が成り立つわけがないじゃないか」
笑う者もいる。
けれど、ミラベルは笑わず、淡々と続けた。
「編み物と祈りは、同じ力の形だと信じられていた時代があるの。
――“想いを編むことは、癒やしを編むこと”。そんな伝承が残っているのよ」
その場にいた全員が沈黙した。
冗談とは思えない声色。
知識として語るというより、事実を確認するような口調だった。
アメリアだけは、息を飲んだまま目を丸くする。
(癒やし……編む……?)
心臓が小さく跳ねた。
ミラベルは立ち上がり、アメリアに視線を向ける。
「気になるでしょう?」
コクリ、とアメリアは頷いた。
二人は図書室へ向かった。
静かな書架の奥、滅多に人が来ない古書コーナー。
ミラベルが慎重に一冊を取り出す。
擦り切れた表紙、消えかけた題字。
『羊毛と癒やしの国史』
アメリアがページを開くと、
そこには、まるで絵本のような文字が並んでいた。
――毛糸は祝福の象徴。
――編むことは祈ること。
――優しい想いは、傷ついた心と身体を包む。
まるで、自分のことが書かれているようだった。
アメリアは震える指で、そっと活字をなぞった。
(偶然じゃ、ないの……?)
世界が静かに、ゆっくりと裏返っていくような感覚。
教室では笑い話だった“奇跡”が、
この国の歴史と繋がり始めていた。
古書室の奥。
積み上げられた埃の山をかき分けながら、アメリアは文献を開いた。
ページの端は欠け、文字は掠れ、古代語の部分はところどころ意味が抜け落ちている。
けれど、かろうじて読める文章が確かにそこにあった。
『――羊毛は、精霊の祝福を宿す器なり。』
アメリアはそっと息を吸い込む。
『――毛を紡ぐ者の心の澄明なるほど、癒やしは強まり……』
ページをめくるたびに、欠けた文字が現れ、文章は断片的に途切れる。
「……精霊?」
思わず声が漏れる。
ミラベルが、アメリアの横から覗き込み、落ち着いた声で補足した。
「古代の人々は、糸が“想いを繋げる力”を持つと信じていたのよ。
――魔法ではなく、祈りや心を形にする技術として」
アメリアの胸に、ひんやりとした衝撃が落ちる。
祈りでも魔法でもない。
誰にでも使える力――けれど。
『――善き心は、善き癒やしを紡ぐ。』
また一行、読めた。
その言葉に、教室の空気がかすかに揺れた気がした。
ミラベルの声が小さくなる。
「つまりこれは、血筋でも才能でもないの。
“心を込めて編む”という行為そのものが力になるってこと」
周りにいた数人の生徒が息を呑む。
「魔法じゃなくて……」
「技術? 誰でもできるってこと?」
アメリアは手のひらを見つめた。
その小さな掌が、生徒の傷を、教師の娘の痛みを、確かに癒やした事実。
偶然とは言い切れない。
やがて、誰かがぽつりと呟いた。
「……アメリアの編み物って、精霊の“祝福”だったの?」
まるで神話の一節のような響き。
けれど、文献は否定していた。
ミラベルは静かに首を振る。
「違うわ。“特別な力”じゃない。
心を込めた糸が、人を包む――それを古い人たちは“癒やし”と呼んだだけ」
魔法じゃないのに、奇跡みたいで。
奇跡のようなのに、誰にでもできる可能性がある。
アメリアはそっと目を伏せる。
胸の奥で、何かが繋がり始めていた。
自分の優しさは、偶然じゃない――
そう言われているような気がして。
アメリアは震える指先で、次のページをそっとめくった。
紙が風に揺れるような音を立てて、古代語の断片が現れる。
『――精霊の血脈を継ぐ者、ごくまれに羊毛と語らう。
糸の声を聴き、悲しみを撚り合わせ、祈りへと変える。』
「……羊毛と、語らう……?」
読み上げたアメリアに、生徒たちは一斉に顔を見合わせた。
「何それ、詩みたい」「羊毛と話す?」「まさか冗談でしょ」
くすくす笑い声が漏れる中で――
ただ一人、ミラベルだけが、真顔だった。
「あり得るわ。」
その静かな一言に、笑いが止まる。
ミラベルは文献を指でなぞりながら、低く呟いた。
「“糸の声を聴く”って、たぶん比喩じゃない。
昔の記録には、精霊の加護を受けた人間が“素材の声を聴いた”って話があるの。
水、石、木……そして、羊毛。」
アメリアの心に、ふいに一つの光景が蘇った。
――小さな村の道端。
――手押し車を引いた老人が、ほつれた毛糸玉を撫でていた。
その手は優しく、まるで生き物に話しかけているようで。
『この糸は、よく聴くんだ。お前の手なら、きっと喜ぶ。』
そう言って、微笑んだ老人。
アメリアは思わず、その時の感触を手のひらに確かめた。
(……あの人……まさか……)
ミラベルがアメリアの表情を見て、目を細める。
「思い当たるのね。」
アメリアは小さくうなずいた。
「昔、旅の途中で……毛糸をくれた人がいました。
――あの人、糸を撫でながら、何か……聴いているみたいだった。」
沈黙が落ちる。
ミラベルは、目を閉じたまま小さく言った。
「その老人、ただの人じゃなかったのかもしれない。
精霊の血を引く“糸守り”――古い伝承にしか出てこない存在。」
アメリアの胸が静かに鳴る。
思えばあの日からすべてが始まった。
あの毛糸を手にした瞬間から、優しさが形になり、世界が少しずつ変わり始めた。
その意味が、今ようやく繋がりはじめていた。
(――わたしに糸を託したのは、偶然じゃなかったんだ)
ページの端が、ぱらりとめくれた。
古びた紙の上に、褪せた文字が浮かび上がる。
『癒やしの毛糸が生まれるは、三つの条件による。
一つ、心が真っ直ぐであること。
二つ、傷ついた者を救いたいという願いがあること。
三つ、精霊の加護を受けた羊毛を用いること。』
アメリアは、息を呑んだ。
その指先が微かに震える。
「……三つの、条件……」
教室の空気が一気に変わる。
誰もが息を殺し、アメリアの手元を見つめていた。
男子の一人がぽつりと呟く。
「精霊の……加護、だって?」
女子が、ためらいがちに続ける。
「でも……それ、まるで……アメリアの毛糸のことみたい。」
ざわ……と、静かな波が広がった。
アメリアは思わず目を伏せる。
胸の奥で、いくつもの場面がよみがえる。
――小さな包帯を編んだ夜。
――誰かの痛みを思って、糸を撚った手。
――そして、あの不思議な温もりをくれた老人の微笑み。
(まさか……)
視界の端で、ミラベルがゆっくり立ち上がった。
その眼差しは、柔らかくも鋭い。
「――あなたの毛糸は、偶然じゃないわ。」
静かな声だった。
けれど、その言葉が放たれた瞬間、誰もが息を止めた。
ミラベルは続ける。
「心が澄んでいて、誰かを助けたいと願っていた。
そして……その羊毛は、きっと“選ばれた”ものだったのよ。」
アメリアは、胸に手を当てた。
そこに、あの日から変わらず続く温もりがある気がした。
(……わたしの糸は、“優しさ”で生まれたんだ)
その実感が、静かに彼女の中に灯る。
奇跡ではなく、魔法でもなく――
“心”が編んだ力。
アメリアの瞳に、ほんの少し涙の光が宿った。
保健室の白いカーテンが、ゆらりと揺れていた。
夕陽が差し込み、空気の中にほのかな金の粒が浮かぶようだった。
「……では、始めましょうか。」
保健医の声が静かに響く。
周囲には教師数名と、生徒会の代表、そしてアメリアがいた。
腕に軽い切り傷を負った男子生徒が、少し緊張した面持ちでベッドに座っている。
「お、おれ、実験台とか初めてなんだけど……」
「大丈夫よ、痛くしないから。」
アメリアは柔らかく微笑み、毛糸を手に取った。
――羊毛の、あの温かい手触り。
指先に触れた瞬間、胸の奥に小さな灯がともる。
(お願い。どうか、この人の痛みが少しでも和らぎますように……)
彼女は祈るように、一目一目、丁寧に編んでいく。
そのたびに、針が淡い光を受けてきらりと揺れた。
見ていた誰もが言葉を失う。
やがて、アメリアは完成した小さな布を男子の傷口に巻きつけた。
柔らかな毛糸が肌に触れた瞬間――空気が変わる。
男子が、驚いたように目を見開いた。
「……あれ、なんか……あったかい。」
保健医がすぐに覗き込む。
しばらく沈黙が続いたあと、彼の声が震えた。
「……赤みが、引いている……?」
教師の一人が慌てて覗き込み、
もう一人が小さく息を呑んだ。
「……確かに、さっきまで血が滲んでいたはずだ。」
「皮膚が、もう……塞がり始めている……。」
誰もがその場で固まった。
沈黙が、まるで空間全体を覆うようだった。
やがて、最初に声を上げたのは保健医だった。
「――本当に、治ってる。」
アメリアは静かに両手を見つめた。
自分の指先が、信じられないように震えていた。
教師の一人が、顔を強張らせたまま呟く。
「……禁じていたのは……」
「“危険”だからではなく……“恐れていた”から、なのかもしれない。」
ミラベルが目を伏せ、微かに微笑む。
「優しさを怖がるなんて――少し、滑稽ね。」
光が静かに沈み、保健室の中は穏やかな金色に包まれていた。
アメリアの編んだ糸は、まるで“息づいている”ように、淡く温かく輝いていた。
夜。
静まり返った寮の部屋に、時計の針の音だけが響いていた。
アメリアは机の上に置いた毛糸玉を、そっと手に取る。
今日の実験のことが、まだ胸の奥で温かく残っている。
「……やっぱり、ただの偶然じゃないんだよね」
そう呟きながら、毛糸を小箱にしまおうとした、そのとき――
ふ、と。
毛糸の上に、柔らかな光の粒が一つ、浮かんだ。
白金色の、ほんの針の先ほどの光。
それがふわりと宙を漂い、まるで“ありがとう”と言うように揺れてから、静かに消えていく。
アメリアは目を瞬かせた。
「……え?」
見間違いかもしれない。
疲れてるのかな。
そう自分に言い聞かせ、笑って首を振る。
けれど――
窓辺のカーテンを揺らした夜風が通り抜けた瞬間、
ほんの一瞬、糸の中から鈴のような音が聞こえた気がした。
それは彼女だけが気づかない、ささやかな“奇跡”の証。
机の上の毛糸は、まるで微笑むように、
淡く光を反射していた。
――古の精霊たちが、静かに目を覚まし始めていた。
夜の学園は、ひときわ静かだった。
外の庭に淡い月光が差し込み、廊下の石床を白く照らしている。
アメリアは毛糸の入った小箱を抱えて歩いていた。
廊下の先で、ミラベルが待っている。
「……また、少し光ったの」
アメリアは小さく笑いながら言った。
「怖くはないけど、不思議で……」
ミラベルはその笑顔を見つめ、静かに首を振る。
「それは不思議なんかじゃないわ。
あなたの優しさは、古い時代から受け継がれているのよ」
アメリアは、驚いたように目を瞬く。
そして、そっと小箱を抱きしめる。
「……もし、誰かを守れるなら、もっと編みたい。
もっと、この手で……」
ミラベルは、少しだけ微笑んだ。
その笑みには温かさと、ほんのわずかな影が混じっている。
「ええ。あなたらしいわ」
けれど、ミラベルの心の奥で別の声が囁く。
(この力は――いずれ国を揺るがす。
優しさだけでは、済まなくなる日がくる)
アメリアはまだ知らない。
その“癒やしの糸”が、王国の運命を変える導火線になることを。
二人の沈黙を、月明かりだけが見守っていた。
廊下の窓に映る光が、糸のように揺れ、
夜は静かに、次の物語へと続いていった。




