第2話:公爵家令嬢、まさかの編み物デビュー
入学式が終わり、生徒たちはそれぞれ自由時間を満喫しはじめた。
「わたくしたち、ティールームへ行きましょう」
「新作のケーキが出ているそうよ」
煌びやかなドレスをひらめかせ、令嬢たちは華やかに歩いていく。
誰もが高級ティーセットや宝石の話に夢中だ。
――その中で、私だけは違った。
(ティールーム? そんなのより大事なことがありますわ)
「リリア、毛糸屋さんを探しましょう」
「……はい? 毛糸屋さん、ですか?」
「ええ。この学園の近くなら、必ず手芸店が一つはあるはずですわ。
大きい街ほど、毛糸の種類も増えますもの」
さらりと言った瞬間、護衛騎士の肩がびくりと揺れた。
「ア、アメリア様。公爵令嬢が、庶民の通りを歩かれるのは……」
「毛糸のためなら仕方ありませんわ」
「仕方ない……のですか……!」
護衛騎士が頭を抱える一方で、私は上機嫌だった。
破滅フラグ? 断罪? 知らない。
いま欲しいものはただ一つ――毛糸。
◆
学園から少し離れた王都の石畳を歩くと、賑やかな通りの端に、小さな店が見えた。
可愛い木の扉。小さな看板に「手芸工房 ひつじの庭」と書かれている。
「ここですわ!」
扉を開ける瞬間、胸が高鳴ってしょうがない。
◆
「いらっしゃいませー。……あれ、公爵様のご令嬢?」
小さな店の奥から、優しそうな女性が顔を出した。
庶民向けの店らしく、豪華さはないけれど、温かさが詰まっている。
棚には色とりどりの毛糸玉。
ふわふわ、つやつや、もこもこ。
見た瞬間、胸が弾けた。
「まぁ……! なんて素敵なんでしょう!」
私は気品を忘れて店にかけ寄り、毛糸を抱えた。
白、ミント、薄紫、木苺みたいな赤まで並んでいる。
触れた指先から、糸の柔らかさが心に染み込む。
(これなら、また誰かを笑顔にできるかもしれませんわ)
自然と口角が上がり、気分が軽くなる。
店の女性は目をぱちぱちさせた。
「公爵令嬢が……毛糸を買いに?」
「ええ。とても大事なものですの」
堂々と答えると、女性はぱっと表情を柔らかくした。
「なら、こちらの新作なんてどうです? 軽くて、肌に優しくて、よく伸びますよ」
「まぁ! 最高ですわ!」
侍女と護衛は困惑したまま、固まっていた。
「アメリア様……まさか本当に買われるのですか……」
「もちろんです」
「もちろん、なんですね……」
何度もため息をつく侍女を横目に、私は幸せいっぱいで毛糸を抱えた。
(ふふ、これでまた編めますわ。人生に希望が戻ってきましたわ)
誰も知らない。
この小さなお店で、悪役令嬢の運命がまたひとつ、静かにズレ始めたことを。
購入した毛糸を抱えて、私は寮の自室に戻った。
公爵家令嬢専用の広い部屋。大きな窓、白いレースのカーテン、柔らかな絨毯――けれど今の私が気になるのは、家具でも宝石でもなく。
(ここなら、ゆっくり編めますわね)
そう考えただけで胸が温かくなる。
椅子に腰を下ろし、毛糸を膝に乗せる。
指先でふわりとつまむと、ミント色の糸は柔らかくて、春の風みたいに軽かった。
針を持つ指が、自然と動き出す。
――カチャッ、カチャッ。
滑らかな糸が、音を立てて形になっていく。
魔法でも秘術でもない。ただの編み物なのに。
糸をすくい、引き抜き、編んで、重ねて。
次第に私の視界から、煩わしい考えが消えていく。
(断罪イベント、破滅フラグ、王子ルート……)
気づいた時にはすべて遠くに追いやられていた。
(わたくし、転生してからずっと怯えてばかりでしたわね)
でも――。
(こうして編んでいる時だけ、世界が静かになる)
指先が踊る。糸は優しい弧を描く。
ただそれだけで、胸の奥がゆるゆるとほどけていく気がした。
侍女のリリアは、後ろでじっと見守っていた。
「アメリア様……やっぱり、すごく早いですわ。まるで糸が、自分から形になっていくみたい」
「ふふ。慣れですわよ」
「昨日いただいたシュシュも、つけた瞬間、体がふわっと軽くなったんですの。
寝つきも良くて……朝起きたら頭痛まで消えていましたわ」
「それは、気のせいですわ。けれど、そう言ってくださると嬉しいです」
軽く笑って返したものの――。
(……気のせい、かしら?)
前世でも、こんなことがあった。
私が渡した小物を身につけた友人が、不安が取れたように笑ってくれたこと。
ただの偶然だと思っていた。
けれど。
編み物をしていると、胸の奥がじんわり熱くなる感覚がある。
祈るような気持ちで、糸を結んでいるからだろうか。
「アメリア様。とても綺麗な色ですのね」
「ええ。春を身に纏うみたいでしょう?」
窓から差し込む陽光が、ミント色にきらりと反射する。
魔石の輝きより、ずっと優しくて、穏やかで。
編み進めているうちに、部屋中の空気が柔らかくなっていく。
リリアはうっとりと瞼を落とした。
「見ているだけで……胸が温かくなりますわ……。
なんだか、今日一日の疲れすら溶けていくような」
(本当に、そんな効果があるのかしら)
否定したいのに、糸を通すたびに、心まで落ち着いていくのを自分でも感じる。
針の音が、静かな部屋に優しく響いた。
――カチャッ、カチャッ、カチャッ。
やがて、膝にそっと広げたミント色の布が形を変えていく。
柔らかく、丸く、包み込むような形に。
(こんな時間が、ずっと続けばいいのに)
破滅フラグも、王子の婚約者としての重圧も。
いまはただ、毛糸と向き合う穏やかな自分だけがいた。
夕方になる頃、小さなストールが編みあがった。
ミント色の糸は、首元に寄り添うようにふわりと丸く形を整えている。
「リリア、寒くなってきましたし……よろしければ、どうぞ」
そっと差し出すと、リリアはぱちぱちと瞬きをし、慌てて両手を振った。
「と、とんでもありません! そんな高貴なお品を、わたくしなんかがいただくなど……」
「お願い。使ってくださる方がいらっしゃると、編んだ甲斐がありますもの」
言葉に嘘はなかった。
誰かに喜んでもらえるなら、これほど嬉しいことはない。
恐る恐るリリアが受け取る。
指でそっと生地を撫で、ゆっくり首元に巻きつけた。
――その瞬間。
「……っ!」
リリアの肩がぴくりと震え、目が驚きに丸くなる。
「リリア?」
声をかけると、侍女はゆっくりと胸に手を当てた。
「……身体が、軽い……気がしますの……?
さっきまで、背中がだるくて、頭が重かったのに……」
言葉は消え入りそうなのに、その瞳ははっきりとした驚きで揺れていた。
「なんだか息がしやすいですわ。胸がつかえていたのが、すっと消えたような……」
リリアは首元を押さえたまま、小さく息を吐く。
「……あたたかい……心まで、包まれていくような……」
その様子に、私はくすりと笑ってしまった。
「まぁ、気のせいですわ。編みたてですもの。毛糸が柔らかくて、気持ちいいのでしょう」
「そ、そうかもしれませんわね……」
けれど――そのとき、私は見た。
リリアの胸元で揺れるミント色のストールが、ほんの一瞬だけ光ったことを。
夕陽の反射にしては、あまりにも柔らかく、淡く、あたたかい光。
(……見間違い?)
そう思いながらも、胸がざわついた。
ストールは、編み目ひとつひとつが花のように膨らみ、まるで呼吸するみたいに優しく揺れている。
リリアはうっとりと微笑んだ。
「アメリア様……こんな素敵なもの、いただけるなんて……とても幸せです」
「喜んでいただけたなら、それで充分ですわ」
窓の外では、夕暮れが金色に染まり、鳥たちが帰り道を急いでいる。
部屋には、まだほんのりと糸のぬくもりが残っていた。
(……魔法? いいえ、そんなはず……)
否定しようとしたけれど、胸の高鳴りは止まらなかった。
毛糸が紡ぐ小さな幸福は、まだ誰も知らない――
でも確かに、ここから始まっていた。
翌日。
貴族科の廊下を歩いていたときだった。
私は、陽当たりの良い窓際のソファに腰を下ろし、
購入したばかりのふわふわした糸を編んでいた。
広い廊下の向こうで、ひそひそ声が聞こえる。
「……ねぇ、見て。あれ、公爵令嬢じゃない?」
「本当だわ。なんで編み物してるの?」
気づかないふりで針を動かし続ける。
編み目に光が通るたび、毛糸の色が小さく揺れる。
やがて令嬢たちが、そろそろと近づいてきた。
「……本当に編んでる……」
「初めて見たわ。あんなに綺麗に編めるのね……」
覗き込む瞳は、なぜか敵意ではなく、
小動物を見るときのような目だった。
(……悪役令嬢、どうしたのかしら?って顔ですわね)
けれど、針を進めるたびに、彼女たちの表情が柔らかくなっていく。
「……なんだか、落ち着くわ」
「動きを見ているだけで、心が静かになるというか――」
うっとりとした声まで聞こえてきて、思わず笑いそうになる。
そこへ、ストールを巻いたリリアが通りかかった。
「あら、アメリア様。お茶をお持ちしましたわ」
「ありがとう、リリア」
令嬢たちの視線が一斉にストールへ向く。
「……ちょっと待って。昨日、顔色悪かった侍女よね?」
「え、めちゃくちゃ元気そうじゃない?」
「むしろ……なんか綺麗になった?」
リリアは困ったように笑った。
「アメリア様が編んでくださったストールなんですの。
つけていると、心が温かくなるような気がいたしますのよ」
「えっ、魔法?」「回復の付与?」「高級品?」
「い、いえ! そんな大層なものでは!」
リリアがあわてて手を振ったが、ざわざわは止まらない。
「公爵令嬢の趣味が……人助け?」
「いじめるどころか、癒やしてる……?」
ひそひそ声に、私は静かにストールの毛先を摘み、笑った。
「気のせいですわ。ただの毛糸と編み針。どこにでもあるもの」
けれど――令嬢たちは、それ以上を感じていたようだ。
「……なんだか、見ているだけで幸せになる」
「確かに、癒しの魔法みたい……」
やがて彼女たちの視線は柔らかくなり、
敵意よりも、興味と好奇心に変わっていた。
その小さな変化が、後に誰も予想しないほど大きな波になることを、
このときの私はまだ知らない。
翌日の昼休み。
学園のあちこちで、妙な噂が聞こえ始めていた。
「悪役令嬢なのに優しいらしいわよ」
「侍女にストールを編んであげたんですって」
「しかも、つけた人の体調が良くなるみたい」
「むしろ……天使じゃない?」
「いや、そんな……でも昨日見たわ。
編んでいるだけなのに、見ているこっちが癒やされるの」
私はそんな声を背に、いつものように毛糸を抱えて廊下を歩く。
(悪役令嬢が天使? どういう理論ですの……)
ただ好きで編んでいるだけなのに、なぜか周りが勝手に盛り上がっている。
しかし――噂は止まらない。
「聞いて、昨日泣いてた子にハンカチ編んで渡したんだって」
「泣き止んだらしいわよ!」
「だから天使なんだってば!」
(泣いていたから渡しただけですわ……)
そんなふうに心の中でツッコミながら、廊下を曲がったそのとき。
「あ、あのっ!」
突然、すれ違いざまに見知らぬ女子生徒が飛び出してきた。
「わた、わたくし……!」
顔を真っ赤にし、ぎゅっと拳を握りしめている。
なんでしょう?と微笑むと、彼女は震える声で言った。
「そ、その……いつか、わたくしにも……編んでいただけませんか?」
私は思わず硬直した。
(……依頼? まさかの注文?)
数秒の沈黙。
彼女は今にも泣きそうに縮こまっている。
仕方なく――私はふわりと微笑んだ。
「ええ、もちろん」
「ほ、本当ですの……!?」
「ただし、お代は……」
生徒がごくりと息を呑む。
「お菓子一つで」
「ひっ……!!」
なぜか叫びに近い声を上げ、彼女は顔を真っ赤にして走り去っていった。
ぽかんと立ち尽くす私の後ろで、周囲の生徒たちが騒然とする。
「聞いた!? お菓子でいいんだって!」
「なんて良心的!」
「やっぱり天使だわ!!」
(どこで悪役要素を落としてきましたの、私)
頭を押さえつつ、自室へ戻る。
だがその日の夕方――
部屋の扉の前には、そっと置かれた小箱。
中身は色とりどりのお菓子。
そして、添えられた一枚のメモ。
『いつか、編んでいただけたら嬉しいです』
私は小さく息を漏らし、思わず笑ってしまった。
「……そんなに、ほしいのですの?」
毛糸を手に取り、そっと糸を指にかける。
その瞬間。
今度は、編み針が淡くきらりと光った。
気づかぬふりをして、私は糸を編み始めた。
――そして。
そうして、悪役令嬢アメリアの“編み物依頼”は、
ひっそりと予約で埋まり始めていった。




