第14話:アメリア、無意識の温かさ
放課後の編み物クラブは、いつもと変わらず穏やかな空気に包まれていた。
窓から差し込む夕方の光が、毛糸と指先に柔らかく落ちる。
アメリアは小さな息をつきながら、淡い色の糸を編み進めていた。
――そのとき。
「アメリア様……! アメリア様はどちらに……!」
扉が勢いよく開き、見慣れない侍女が息を切らして駆け込んでくる。
顔色は青く、手は小刻みに震えていた。
クラブ員たちが驚いて顔を上げる中、侍女はアメリアを見つけると、ほっと息を吐き、それでも声は震えたまま告げた。
「アメリア様……! ミラベル様が、お呼びです……!」
「えっ、ミラベルさまが……わたしを?」
アメリアは思わず目を丸くする。
あのミラベル――常に完璧、弱みを見せない令嬢。
そんな彼女からの急な呼び出し。
クラブの空気が一瞬でざわつく。
「ミラベル様が?」「なんで?」「どうしてアメリアなの?」
ヒソヒソと囁きが飛び交う。
けれどアメリアは、周囲の視線に気づいても表情を変えない。
ただ、胸の奥が少しだけ、きゅっと縮んだ。
(わたし……何か、迷惑をかけてしまったんだろうか)
心細さがじわりと滲む。
それでもアメリアは、静かに椅子から立ち上がった。
ぎゅっと毛糸を抱え、侍女に一歩近づく。
「行きます。ミラベルさまが困っているのなら……」
その言葉に、侍女の瞳がわずかに揺れた。
周囲の少女たちは息をのむ。
「あの子……怒られに行くんじゃないの?」「なのに、あんなふうに……」
アメリアはその視線にも気づかない。
ただ、小さく胸に手を当てて、侍女に頷く。
――誰かが困っているなら、行く。
理由はいらなかった。
そしてアメリアは、そっと毛糸を置き、静かに部室を後にした。
ミラベルの私室は、いつもと変わらず整然としていた。
上品なカーテン、無駄のない調度。
だが、空気だけが違う――どこか、重く沈んでいる。
扉を開けられ、アメリアがそっと中へ入ると、
椅子に座ったミラベルがゆっくり顔を上げた。
いつもの完璧な令嬢の表情。
けれど――目の下に淡くクマ。
紅茶のカップを握る指には、力が入っていない。
「……来てくれてありがとう」
その声音はかすかに掠れていた。
アメリアは驚かない。
問いたださない。
困った顔もつくらない。
ただ静かに、そっと微笑んだ。
「大丈夫です。わたしにできることがあれば」
その言葉は軽くも偽りもない。
ただ“あなたを助けたい”という気持ちだけが、まっすぐ。
ミラベルは一瞬視線を逸らす。
感情を悟られたくない――そんな意地が働く。
「……あなたは、本当に不思議だわね」
アメリアは首をかしげる。
「不思議、ですか?」
「普通なら、理由を聞くものよ。
何があったのか、どうして呼んだのか。
あなたは……聞かない」
アメリアは少し考えて、それから柔らかく言った。
「悲しいときや苦しいときって……
説明するだけで辛くなること、あるでしょう?」
ミラベルの胸に、かすかな衝撃が走る。
その考え方を知っている令嬢など、この学園に何人いるだろう。
返す言葉が出ない。
アメリアはそっと距離を縮める。
でも、触れない。
無理に覗かない。
ただ傍にいる。
――寄り添うだけの優しさ。
それは、強がりで覆ったミラベルの心に、静かに届いていく。
ミラベルは、ほんの一瞬だけ息を吐いた。
まるで、救われたように。
侍女は震える声で、アメリアの前にひざまずく。
「……奥様の容態が、あまり良くなくて……」
すぐ隣でミラベルは無表情を保っている。
だが、指先は白くなるほどカップを握りしめていた。
アメリアは小さく息を吸う。
「……ミラベルさまのお母さま、痛いのかもしれません」
ミラベルはわずかに視線をそらす。
「医師は……鎮痛薬を増やしたと言っていたわ。
眠れているはずよ」
アメリアは首を横に振った。
「……でも、痛いまま、眠れないで過ごすこともあります。
痛いのって、すごく寂しいから」
その声は、涙も、哀れみも乗せない。
ただ、静かに「同じ気持ちを想像した」言い方。
ミラベルは――胸が詰まる。
誰も、こう言ってくれなかった。
「痛いだろう」「かわいそう」ではなく、
『寂しいから』
そんな言葉で母を見てくれた人はいなかった。
ミラベルの喉が震える。
「……あなたに、何ができると言うの?」
アメリアは答えに迷い、糸を握りしめる。
「わたし、痛い人がいると……
何か、編んであげたくなるんです。
その人のために、手を動かしていると……
少しでも、苦しくなくなれたらって」
それは魔法の話でも、理屈でもない。
ただの、あまりにも優しい癖。
ミラベルの胸の奥で、何かがほどける。
アメリアは続けた。
「……ミラベルさまのお母さまに、
少しでも楽になるものを編いで差し上げたいんです。
迷惑じゃなければ、一緒に……病室へ行かせてください」
ミラベルは、息を呑む。
拒絶できない。
拒絶したくない。
かすかな声で:
「……勝手な子ね」
けれどその目は、初めて助けを求めていた。
アメリアはそっと席に座り、膝の上で毛糸を抱えた。
「少しでも……楽になりますように」
祈るような声。
誰にも聞こえないほどの小さな呟き。
ポーチから取り出したのは、いつもと同じ、
淡い色の毛糸と細い編み針。
理由の説明も、魔法の言葉もない。
ただ――誰かが苦しんでいるのなら、編む。
泣いている人がいるなら、温もりを作る。
それがアメリアの「当たり前」。
ミラベルは息を止めて見つめた。
(いま……こんなときに?)
否。
(なんで、そんなことができるの……?)
心の底からの驚きだった。
アメリアの指が動く。
すらすら、迷いなく、柔らかい編み目が生まれていく。
――その瞬間。
毛糸が、ふわり、と淡く光った。
灯りでも反射でもない。
あたたかい光が、ゆっくり糸をなぞるように揺らぎ、
小さなハンカチの形が、少しずつ形になっていく。
アメリアは気づかない。
彼女にとってこれはただの“編み物”。
だが――ミラベルは見てしまった。
(また……光った……)
心臓が高鳴る。
恐怖でも、迷信でもない。
目の前で起きている、説明できない現象。
アメリアは静かに微笑んだ。
「大丈夫。きっと、届きます」
届く?
何が?
誰に?
ミラベルの胸に、聞いたことのない震えが走る。
「あ……できた」
アメリアの指が止まった。
膝の上には、小さな白いハンカチ。
大きくも、立派でもない。
編み目はそろっていないし、ところどころ歪んでいる。
誰が見ても、習いたての、拙い編み物。
それでも――
アメリアは大事そうに両手で包み込むと、
そっとミラベルへ差し出した。
「……うまくないけど……冷たい手を、包めるように……」
その言葉は、言い訳でも自慢でもなく、
ただまっすぐな願い。
ミラベルは息を飲んだ。
胸の奥がぎゅっと掴まれたようで、言葉が出ない。
受け取ったハンカチは軽くて、温かい。
ほんのり、毛糸の優しい香りがした。
「……ありがとう……」
声にならない声。
結局、うまく言えず、
ミラベルは頷くことしかできなかった。
アメリアは、微笑んだ。
侍女がそっと近づき、
「お母様の手に……」と言うと、
ミラベルは小さく頷いた。
白いハンカチが、病室へ運ばれていく。
その姿を見送るミラベルの指は、
震えていた。
病室の空気は、重かった。
薬品の匂いと、夜の冷たい風。
ミラベルは母の寝台のそばに立ち、動けずにいた。
白いハンカチが、そっと母の手に置かれてから――
ほんの数分。
ふいに、侍女が小さく息を呑んだ。
「……あ……」
ミラベルが目を向けると、
母の肩が、緩やかに上下している。
先ほどまでの荒い呼吸ではなく、
苦しみに引きつったような顔でもなく。
「……苦しそうじゃ、なくなりました……!」
侍女は思わず口を押さえた。
震えた声には、驚きと、喜びと、信じられないという戸惑い。
医師も慌てて近づき、脈を測る。
「薬は……先ほどと同量のままですが……
呼吸が落ち着いている……?」
ミラベルの胸が強く鳴る。
――魔法。
その言葉は、声にならないまま喉の奥で震えた。
後ろで見守っていたアメリアが、ほっとしたように微笑む。
「よかった……
少し、楽になったんですね」
その表情に、不思議さも、疑いもない。
自分がしたことを、特別なものだと思っていない。
ミラベルは何も言えなかった。
母を見て。
アメリアを見て。
震える自分の手を見て。
ただ、茫然と、息をのみ続けるしかなかった。
奇跡のような静けさが続く病室で、
ミラベルだけが取り残されたように立っている。
母は安らかな表情。
ハンカチは、白く、小さく、少し歪んでいる。
なのに――その温もりは、確かに届いた。
ミラベルの胸の奥で、理性が必死に叫ぶ。
(偶然?
でも……薬も変えていない。
こんなふうに苦しみが和らいだこと、今まで一度も――)
ありえない。
ありえないはずなのに、目の前で起きている。
(この子は……いったい……)
思考がうまく回らないまま、
アメリアがそっと立ち上がった。
「わたし、もう帰りますね。
ミラベルさまも、ちゃんと眠ってください」
その声は、優しくて、押しつけがましくなくて――
ただ、心配しているだけ。
自分に向けられた、純粋な善意。
ミラベルの胸が、ぎゅっと締めつけられた。
喉が熱くなり、声が震えそうになる。
それでも、逃げずに、向きあって。
「…………ありがとう」
短く。
けれど、誤魔化しも虚勢もない。
素直に言えたのは、
きっと、生まれて初めてだった。
アメリアの足音が遠ざかり、
病室は再び静寂に包まれた。
窓の外は夜。
灯りの弱い明かりが、母の頬をやわらかく照らしている。
ミラベルはそっと、母の手に視線を落とした。
――温かい。
ほんの少し前まで、氷のように冷たかった指が、
今は、じんわりと血が通っている。
その上には、白い手編みのハンカチ。
編み目は揃わず、ところどころ歪んでいて。
けれど、不格好なその形が、
誰よりもまっすぐな優しさに見えた。
ミラベルの胸の奥で、
ささやかな確信が芽を出す。
(……やっぱり、魔法だ)
泣きたくなるほどの安堵と、
震えるほどの希望。
涙はこぼれない。
今夜は、泣かない。
けれどその瞳には、はっきりと——
「希望」が、一粒、光っていた。




