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編み物好きの女子が悪役令嬢に転生したら、国を丸ごと癒やしてしまった話  作者: 南蛇井


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第13話:ミラベルの母、体調悪化

昼下がりの学園の食堂は、いつもと変わらず上品なざわめきに満ちていた。

ミラベルは一人、窓際の席で紅茶を口に運ぶ。氷のように整った横顔は、相変わらず微動だにしない。


そんな平穏を、突然切り裂くように――

慌てふためいた足音が駆け込んできた。


「み、ミラベル様!」


振り向いた令嬢たちが息を呑む。

普段なら学園に姿を見せないはずの、屋敷付きの侍女が、蒼白な顔で立っていた。


「奥様が……急にご気分が悪く……!

 医師を呼びましたが、まだ……!」


ざくり、と音が聞こえたかのように、ミラベルの指が止まった。

持っていたティーカップの縁をなぞる白い指。その先端が、かすかに震える。


しかし、表情は変わらない。

眉ひとつ動かさず、凍ったままの顔で、ゆっくりと立ち上がる。


「――馬車の準備をして。」


それだけ。

けれど、侍女は涙ぐんで頷いた。


周囲の令嬢たちは、誰も声をかけられない。

冷たいほどの静けさの中で、ミラベルだけがひとり、歩み去る。


歩幅は静かに。

姿勢はいつも通り美しく。


けれど、靴音は普段より速い。


誰より静かに、

誰より急いで、

ミラベルは学園を後にした。



屋敷は、まるで時が止まったかのように静まり返っていた。

廊下には侍女たちが控えているが、誰ひとり声を出さない。

泣きはらした目の者、すすり泣きを必死に堪える者――

その全てが、この場の深刻さを物語っていた。


ミラベルは立ち止まらない。

恐怖も焦りも見せず、ただ一直線に母の病室へ向かう。

迷いなど一片もない、氷の女侯爵の足取り。


扉の前に立ち、ひとつだけ浅く息を吸う。

そして、音もなく扉を開いた。


――視線が、そこで止まった。


母はベッドに横たわり、枕へ沈みこむように身を預けていた。

胸が上下するたび、苦しげな呼吸が聞こえる。

いつも優しく笑っていた顔は、血の気を失い雪のように白い。

まぶたは重く、声も出ない。


ミラベルは、ゆっくりと近づいた。

そして、母の手を取る。


細い。

あまりにも細い。

そして――冷たい。


まるで、命の炎が小さくなりすぎて、指先に届かなくなったようだった。


(こんなはずじゃなかった。)


胸の奥で声が響く。

(お母さまは、もっと強いはず。誰よりも、気高くて……。)


けれど、唇を噛むだけで、涙は落ちない。

泣けば、母を不安にさせてしまうから。


ミラベルは、いつも通りの表情で座り、そっと手を握りしめた。

震えそうになる指先を、必死に抑えながら。


ただ、ひとつだけ違うのは――

その唇が、強く、痛いほど結ばれていることだった。



病室に医師の低い声が落ちる。


「できる限りの治療は続けています。

 しかし……容体が安定する保証は、まだ」


言い淀む医師に、侍女たちが目を伏せた。


父は今、遠征で国境付近。

この家を束ねる者は不在で、貴族たちの「見舞いの言葉」は、実際には何の役にも立たない。


沈黙の中、侍女の一人が震える声で言った。


「……ミラベル様。

 徹夜では、お身体がもちません。少しお休みに――」


ミラベルは、ゆっくりと顔を上げた。


「休む時間があるなら、方法を探します」


凍りつくほど冷静な声。

だが――ほんのわずか、声が揺れた。


侍女はそれに気づき、息を呑む。


ミラベルは、母の手を握りしめながら、静かに思った。


(泣きたい。

 叫びたい。

 全部投げ出して、子供みたいにすがりつきたい。)


けれど、まぶたは濡れない。

涙はどこにも落ちない。


(泣いたって、病は治らない。

 泣いたら――お母さまが心配してしまうだけ。)


だから、泣けない。


泣かないことが強さではなく、

泣けないほど、必死なのだと

誰も知らない。


ミラベルは、泣かない娘だった。

泣けば、崩れてしまうから。

母の閉じられていたまつげが、ふるふると震えた。

微かな呼吸の間を縫うように、その瞳がゆっくりと開く。


声は出ない。

けれど、唇がかすかに動いた。


――ミラベル。


名を呼ぶようなその気配に、ミラベルは身を乗り出した。


「大丈夫。わたしがいます」


凛とした声。

病に屈しない娘の声。


だが、母の指が持ち上がった瞬間、その強さは揺らぐ。


か細い指先が、ミラベルの頬を求めるように伸び――

ほんの数ミリ届かず、空を掴むように震えた。


その仕草ひとつで、胸が締めつけられる。


ミラベルは思わず母の手を両手で包み、顔を寄せた。


「……お願い、行かないで」


その声だけは、幼かった。

強い娘ではなく、ただの子供の声。


涙は落ちない。

けれど、視線は揺れる。

その揺れだけで、必死に泣かないようにしていることが分かってしまう。


静かな病室で、ミラベルは誰にも見せたことのない弱さを、ほんの一瞬だけ零した。


母は再び深い眠りへと落ちていった。

医師は短く、しかし重い一言だけを残す。


「……峠です」


それ以上、言葉はいらなかった。


ミラベルは静かに立ち上がり、病室を出る。

扉が閉まった瞬間、支えが消えたように一歩よろめき、壁に手をついた。


大きく息を吸う。

肺が痛いほどに。


泣きそうだった。

叫びたかった。


だが――涙は出ない。


廊下の奥から、一人の侍女が近づく。

目元を赤くし、震える声で告げた。


侍女

「……ミラベル様、泣いても、いいのですよ」


少しの沈黙。

ミラベルは、かすかな笑みを作ろうとする。


「泣いても、母は良くならないわ」


声は平坦。

だからこそ、痛い。


その手は、ぽとりと力なく下へ落ちる。

指先が震えている。


(もし……もし救える方法があるなら)


祈りでも、奇跡でもいい。

幼い願いのような思考が、胸の奥でひっそりと生まれる。


そのとき――ふと蘇った。


アメリアが編んだ毛糸が、淡い光を放った瞬間。

あの場にいた全員の空気が、柔らかく解けていった、説明できない“癒し”。


ミラベル(心)

(あれは……ただの偶然ではなかった)


胸の奥が、少しだけ熱くなる。


泣かない強さも限界に近い。

だからこそ――誰かに縋りたくなった。


ほんのわずかに、唇が動く。


(アメリア……)


その名だけが、心の中で確かに響いた。

夜の街道を、馬車が揺れながら進む。

外はもう深い闇で、街灯の光が窓に細く流れていく。


ミラベルは座席に背をつけたまま、動かない。

手を握りしめても、冷たい指先は震えを止めてくれなかった。


窓に映る自分の顔――

いつもの自信に満ちた令嬢ではない。


ただの十五歳の娘。

心細い子供の顔だった。


(……もし、あの毛糸が本当に魔法なら)


あのとき、アメリアの指先で光った淡い輝き。

誰も気づかなかったかもしれない。

だが、ミラベルは見た。

確かに“何か”があった。


(母を……救えるかもしれない)


その希望は、同時に痛みでもあった。


本当に救えるのか。

救えなかったら?

信じた自分が愚かだったら?


そんな迷いを押し殺すように、ミラベルは目を閉じた。


――ぽたり。


頬を伝い、膝の上に落ちる。


一粒だけ。

それでも、その涙は重かった。


誰にも見られない場所で。

誰にも気づかれないまま。


ミラベルは涙を拭かなかった。

拭くほどの余裕も、誇りも、今は残っていなかった。


ただ静かに、夜の揺れに身を任せる。


そして、小さく、誰にも聞こえない声でつぶやく。


「……アメリア」


それは祈りのようで、救いを求める声だった。




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