第10話:令嬢たちの編み物ブーム
ミラベルに手編みの手袋を渡した翌日。
学園では、ひそひそ声がいつもより弾んでいた。
「……あれ、可愛いわよね?」
「色も上品で、編み目がすごく綺麗だった」
「冷たい革より、ああいう柔らかいのって憧れるわ」
アメリアは、自分の机の端でそっと身を縮めた。
褒められているのに、なぜか居心地が悪い。
悪意ではないとわかっていても、じっと注目されるのは苦手だ。
そんな中――。
「……貸しなさいよ、それ」
鋭い声が飛び、教室の空気が一瞬止まる。
振り向くと、いつも強気で知られる令嬢ロザリンが、
机に置かれた毛糸玉と編み針を、当然のようにひったくっていた。
「ロ、ロザリン様!? 編み物、なさるのですか?」
周囲の令嬢が目を丸くする。
彼女はいつも気高く整っていて、器用そうに見えない。
だが、ロザリンは顎をつんと上げた。
「勘違いしないで。暇つぶしよ。
べつに、誰かにあげる必要なんて、ないし」
言葉とは裏腹に、指先は真剣そのものだった。
毛糸の通し方をじっと観察し、一度ほどけてはやり直し、
唇を噛みしめながら、何度も挑戦している。
(……すごい集中力)
アメリアは思わず息を呑む。
その姿を見て、周りの生徒たちもざわざわと囁いた。
「ロザリン様、あんなに真剣……」
「暇つぶしって顔じゃないわよね……」
しかしロザリンは耳を貸さない。
乱れた毛糸を整え、また針を動かす。
やがて――ほんの小さな一目が、糸の間に生まれた。
ロザリンの肩がぴくりと揺れる。
「……できた」
その声は、誇らしさと戸惑いが混じっていた。
アメリアは小さな声で、そっと言った。
「素敵ですわ、ロザリン様。最初の一目は、とても大切ですの」
ロザリンは頬をかすかに赤らめ、目をそらしながら、
小さく、しかししっかりと返した。
「う、うるさいわね。別に、褒められても……」
けれど指先は、次の一目へ進んでいた。
――気づかぬうちに、この瞬間が“編み物ブーム”の始まりとなる。
ロザリンが黙々と針を動かした翌日。
教室の空気は、どこかそわそわしていた。
「……ねえ、あれって毛糸?」
「昨日、ロザリン様が続けていたって噂、本当?」
「色選ぶのって楽しそうよね」
気づけば、机の上にふわりと毛糸玉が転がり始める。
淡いピンク、深い青、ミントの緑。
上品な令嬢たちの世界には似合わない、素朴で柔らかい空気。
そして自然と、こうなる。
「ロザリンがやるなら、わたくしも」
「……別に真似したわけじゃないわよ。たまたま興味が出ただけで」
昼休みには、談話室のあちこちで、毛糸と笑い声が混ざった。
◇
「えっ、針を二本持つの? 一本じゃないんですの?」
「こうして一目を作って……あ、違ったわ、ほどけた!」
「あ、待って、それ引っ張りすぎ!」
「きゃー糸が逃げた! 誰か捕まえてぇ!」
普段は別の派閥に分かれて座る令嬢たちが、
同じ机に身を寄せ、袖で毛糸を押さえ、
色や糸の柔らかさを比べて笑い合う。
ぎこちないけれど、楽しそうだった。
「あなた、その色、髪に似合いそう」
「えっ……ほ、褒められるなんて思わなかったわ」
「この編み方、昨日アメリア様がやっていたのよ」
「本当? 教えて、お願い」
派閥、家柄、立場。
そんなものが、柔らかい毛糸の上を転がって、ほどけていく。
――この学園で、初めて見る景色だった。
アメリアは、少し離れた席でその光景を眺めていた。
自分は輪の中に入らず、ただそっと微笑む。
(楽しそう……ええ、それだけで、十分ですわ)
ふと見ると、ロザリンは誰にも見られないように横顔をそむけ、
完成したばかりの不格好な小さな手袋を、そっと膝の上に隠していた。
(……あの方にも、優しいところがありますのね)
笑い声が弾む教室。
その中心に、毛糸の色が咲き始める。
編み物の輪は、ただの流行では終わらなかった。
気が付けば、廊下のあちこちで――
小さな包みを差し出す令嬢の姿があった。
「これ、余った糸で作ったの。あなた、手が冷えるから」
「えっ……私に? ありがと!」
中から出てくるのは、ちょっといびつなミトンや、指なし手袋。
完全に左右の長さが違っていたり、親指の位置がおかしかったりするのに、
受け取った子は決まって笑った。
「かわいい!」
「本当に自分で編んだの?」
「すごいわ、宝物にする!」
さらに、こんな例も。
「ロザリン、これ……」
「な、なによ。受け取りなさいよ。親友なんだから」
「……ふふ、嬉しい」
いつも口が悪いロザリンの頬が、ほんのり赤い。
◇
そして、次に標的となったのは――男子。
乙女たちの前を通りかかっただけで、不意に包みを押し付けられる。
「あなた、手が大きいから、サイズは合わないかもしれないけれど!」
「っ!? お、俺に!?」
「変だと思ったら、犬の散歩とかで使って!」
男子生徒たちは顔を真っ赤にして、言葉を失う。
「な、なんか……あったけぇ……!」
「これ、手編み……?」
「どうすんだよ俺、部屋に飾っとくか?」
周りの男子まで騒ぎ出す。
「ずるい! 俺も欲しい!」「いやお前は黙ってろ!」
◇
そして、教師にまで波及した。
寒風吹き込む廊下を歩いていた歴史教師の手に、
こっそり小さな包みが乗せられる。
「授業中、チョークを持つ指が冷えていたから……差し出がましいですけれど」
教師は言葉を失い、目尻を拭った。
「……ありがとう。本当に……ありがとう」
廊下には、以前より多くの「ありがとう」が混ざるようになった。
すれ違いざま、小さく会釈。
ぎこちない笑い声も、誰かの手に触れた毛糸のぬくもりも、
確かに空気を丸くしていく。
プレゼントが増えるにつれ、喧嘩は目に見えて減った。
「返してほしい? やだわ、また編んであげる!」
「ひ、ひぃ……嬉しいけど、強引……!」
――それでも、みんな笑っていた。
◇
そして、窓際の席で静かに編み針を置く少女がひとり。
アメリアは、広がる光景をそっと見ていた。
(わたしみたいな子でも……)
(誰かの役に立てるのですわね)
胸を撫でおろす動作は、ほんの少し震えていた。
涙ではなく、安堵から生まれるあたたかさ。
毛糸は静かに光って、すぐに消えた。
誰も気づかない、ほんの小さな奇跡。
けれど、笑顔は確かに増えていた。
ミラベル・フォン・エーデルは、流行というものに興味がなかった。
今日も談話室の一角で、背筋を伸ばし、静かに紅茶を口にする。
周囲では女子たちが毛糸を広げ、わいわいとはしゃいでいる。
「ここ、目が飛んじゃった!」「もう一回ほどきなさいよ、ほら!」
いつもなら雑音にしかならないはずの声。
だが――今日は違う。
誰も、悪口を言わない。
誰も、誰かを見下していない。
失敗して笑い合い、上手くできなくても責めない。
ミラベルは視線を上げ、静かにその光景を観察した。
(面白い変化ですわね)
模倣は本物ではない。
だから、ただ真似をしているだけの子たちが、いずれ飽きてやめるだろう。
そのことくらい、ミラベルにはわかっている。
けれど――
(少なくとも今は、悪くない)
嫉妬で刺すような視線も、噂で誰かを傷つける囁きも、
このフワフワとした毛糸と一緒に、ほどけて薄まっていく。
いつの間にか、少女たちの輪には笑顔が増え、
一部の男子まで引き込まれ、あたふたと手を赤くしている。
(……くだらない。でも)
ミラベルの視線は、自然とひとりへ向かった。
窓辺で静かに毛糸をまとめている少女。
アメリア。
騒がず、命じず、取り入らず、誇らず。
ただ、自分の手でものを作り、誰かに渡す。
それだけの行為で、
空気は変わる。
関係がほどける。
心が温まる。
――無自覚に。
ミラベルは紅茶をひと口飲み、心の底で小さく息をつく。
(あなたは無自覚に、場を動かす。
偶然? それとも――)
細い指先が、机の下で毛糸の手袋の端をそっとなぞる。
指先が冷えなくなった、柔らかな感触。
ミラベルの瞳に、わずかに光が宿った。
(……ふふ。興味が尽きませんわ)
ほんの一瞬だけ、唇の端が緩む。
誰も気づかない。
ただ、遠くから第一王子だけが、そのわずかな変化を捉えていた。
昼下がりのテラス。
薄い風が旗を揺らし、庭の花々が小刻みに揺れる。
第一王子レオンハルトは、カップを片手に、校庭を見下ろしていた。
談話室の窓越し、あちこちに広がる毛糸の色。
笑う生徒たち。
騒ぎながら必死に編む少女、困惑して逃げる男たち。
王子は静かに、薄く笑みを刻む。
「たった一人の行動で、学園の空気が変わるものだね」
それは感想のようで、確信めいた呟きでもあった。
彼の金の瞳は、校舎の奥――一人の少女を見つめている。
アメリア・ローレン。
無自覚で、目立たない、気弱な令嬢。
けれど、なぜか周囲が変わっていく。
その現象の裏に、王子だけが気付いていた。
(偶然にしては、変化が急すぎる)
生徒たちの間で囁かれる噂がある。
――毛糸が、光る。
ほんの少し。
ふと視線を外した瞬間。
夜の寮のランプの下で、糸が静かに明滅したという話。
馬鹿げた笑い話、ありふれた噂。
だが、同時に――
生徒たちは、皆、明るい。
前より喧嘩が減り、涙も少なくなった。
些細な失敗でさえ、笑い合えるようになっている。
王子は、手すり越しに風を感じながら目を閉じた。
(ただのブームなら、悪くない。
だが――もし “魔力の干渉” があるのなら)
楽しげに笑う学園の空気の中で、
王子の表情だけは、穏やかに、しかし油断なく細められる。
「やっぱり――面白い」
風に溶ける声音は、誰にも届かない。
次の瞬間、王子は微笑のまま、指先で光をつまむような仕草をして――
金色の瞳が、ほんのわずか細く光った。
(しばらく、見せてもらおうか。
君が巻き起こす、ささやかな奇跡を)




