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陽の光の照らす場所

作者: たただか
掲載日:2025/10/25

第一章 午後の教室


 放課後のチャイムが鳴る少し前。

 夏の陽射しは、まだ衰える気配を見せなかった。

 窓際の席に座る成瀬陽翔なるせ はるとは、プリントの端に走り書きをしながら、時折、まぶしい外の光に目を細めていた。


 蝉の鳴き声が、遠くグラウンドのほうから途切れ途切れに届く。

 扇風機の回転音と、プリントをめくる音。

 どこかで笑い声が弾ける。

 その全てが、夏の午後の教室に溶け込んでいた。


「なあ陽翔、ここの問題、どうやって解くんだっけ?」

 隣の席の男子が、汗で少しへたった前髪をかき上げながらプリントを差し出した。

「うーん、ここは……sinとcosが逆なんだよ。式見ろ、符号が違う」

「マジかよ、めんどくさっ」

「お前が授業中寝てたのが悪いんだろ」

 そう言って笑い合うと、周囲の友達もつられて笑い声を上げた。


 陽翔は、こういう他愛もない時間が好きだった。

 中学までは田舎の小さな町で過ごし、同級生も数えるほど。

 高校進学を機にこの都会に出てきて、最初のうちは慣れない空気に戸惑った。

 でも今では、賑やかなこのクラスも、自分の居場所になりつつある。

 勉強もそこそこ、友達もできて、毎日が穏やかに過ぎていく。


 ──そのはずだった。


 廊下の向こうを、軽やかな笑い声が通り抜けた。

 ふと顔を上げると、そこに篠原美空しのはら みくの姿が見えた。

 数人の友達と話しながら、肩までの髪を少し揺らして歩いている。

 窓から射し込む光が彼女の髪に反射して、まるでその周りだけ空気が澄んで見えた。


 その瞬間、陽翔の胸の奥で、なにかが小さくはじけた気がした。

 理由なんてわからない。ただ、目が離せなかった。


「おーい、陽翔。またぼーっとしてる」

 後ろから声をかけられ、陽翔はハッと顔を上げた。

 振り向くと、青木日和あおき ひよりがにやにやしながらこちらを見ていた。

 クラスのムードメーカーで、誰とでもすぐに話せる子だ。

 陽翔もよく一緒に昼ごはんを食べたりしている。


「何、また空でも見てたの?」

「いや、外が眩しくて……」

「ふーん? 眩しい、ねえ。……美空のこと、見てたでしょ」

「なっ、なんでそうなるんだよ」

「いや別に? 顔に書いてあるから」

 日和は笑いながら、机の端を指でトントンと叩いた。


 放課後のざわめきの中、彼女の声だけがやけに鮮やかに聞こえた。

 そして、少し間を置いて、何気ないように続ける。


「……そういえば、美空ね、彼氏できたんだって」


 その一言で、時間が止まったように感じた。


 周りの笑い声も、椅子を引く音も、全部遠くに霞んでいく。

 窓のカーテンが風でふわりと揺れ、その隙間から差し込む光が、陽翔の机の上に斜めの線を描いた。


「……へえ。そうなんだ」

 口から出た言葉は、驚くほど平静だった。

 けれど、胸の奥が妙に熱い。

 夏の日差しが心の中にまで差し込んでくるような、そんな息苦しさ。


「びっくりした? てか、気づいてなかったんだね」

「うん。全然」

「美空、春から同じクラスなのに、あんたら話してるの見ないもんね」

「まあ……。なんか、あんまりタイミングなくてさ」

 言葉を選びながら、陽翔は苦笑した。


 ──篠原美空に、彼氏ができた。


 その言葉が、ゆっくりと心に沈んでいく。

 これまで何度も隣を歩いた帰り道、祭りの屋台で一緒に食べたかき氷。

 どれも懐かしいのに、今は遠い記憶みたいに感じられる。


「ごめんね、言っちゃって」

 日和が小さく笑って言った。

 陽翔は首を振る。

「ううん、教えてくれてありがとう」


 そう言いながらも、胸の中では言葉にならない感情が膨らんでいた。

 少し寂しくて、少し悔しくて、そして何より、自分がそれを“寂しい”と思っていることに驚いていた。


 放課後。

 教室の生徒たちが次々に帰っていき、やがて残ったのは陽翔と日和だけになった。

 窓から射す夕陽が床を橙に染め、机の影が長く伸びる。

 蝉の声が遠くで響き、街の喧騒が少しずつ近づいてくる時間。


 日和は机に肘をつき、頬杖をつきながら言った。

「……ねえ陽翔、正直に言ってみ? 篠原さんのこと、好きだったでしょ」

 陽翔は苦笑し、視線を窓の外に逸らした。

「どうだろ。そうだったのかもしれないな」

「“だった”?」

「うん。気づいたのが遅かっただけかも」


 窓の外では、グラウンドを帰る部活生の笑い声が風に乗って流れていった。

 その声を聞きながら、陽翔は小さく息を吐いた。


「でもさ、今さらどうしようもないし。

 美空が幸せそうなら、それでいいかなって思うよ」


 その言葉を聞いて、日和は少しだけ眉を寄せた。

 それでも何も言わず、しばらくしてから、静かに笑った。


「……らしいね、あんたらしい」

「そうかな」

「うん。でもね、そういう優しさって、時々損するんだよ」


 教室の隅に置かれた黒板消しから、白い粉が夕陽に照らされて浮かんでいた。

 その光の粒の中に、日和の横顔が揺らめく。

 柔らかくて、少し切ない光景だった。


 陽翔は、静かに立ち上がる。

 窓を開けると、温い風が頬を撫で、光が再び差し込んだ。


 ──気づいてしまった。

 自分は、篠原美空の笑顔に惹かれていた。

 それをもう隠せるほど、子どもではない。


 彼女の笑う姿を見ていると、胸の奥に陽だまりができたような気がした。

 でも今、その光は少し遠くにある。

 それでも──彼女が笑っているなら、それでいい。


 そう思いながら、陽翔はカーテンを軽く閉じた。

 夕陽の残照が、薄く彼の横顔を染めていた。


第二章 夏の帰省


 八月の朝は、どこか懐かしい匂いがした。

 アスファルトの熱気と、線路沿いの草の青臭さ。

 駅のホームに降り立った成瀬陽翔は、都会ではあまり聞かない蝉の大合唱に少し笑ってしまった。


 腕時計を見ると、午前十時。

 陽翔の故郷である小さな町の駅は、夏休みの帰省客でほどよく賑わっている。

 けれど都会と違って、時間がゆっくりと流れているように感じた。


「……やっぱり、空気うまいな」


 荷物を肩にかけ、駅前の坂道を歩き出す。

 あたりには古い商店や、シャッターの閉じた文具店。

 風に混じって、どこかの家で煮物を作っている匂いがした。

 どれもこれも、記憶の底に染みついた“地元の匂い”だった。


 坂を上りきると、小さな川が見えた。

 子供たちが網を手にして水の中を走り回っている。

 陽翔も昔、同じようにこの川で魚を追いかけていたことを思い出す。

 無邪気に笑う声が風に乗って流れ、その中にかつての自分と篠原美空の姿を重ねた。


 ──あの頃、世界はもっと単純だった。


 陽翔は少し笑いながら、手のひらに当たる陽射しを見上げた。

 光が強い。まぶしすぎるほどに。


 そのとき、後ろから明るい声が響いた。

「陽翔ー! やっぱりいた!」


 振り向くと、夏の陽光を背にした二人の女子が立っていた。

 一人はワンピース姿の篠原美空、もう一人は軽いデニムに白いシャツの青木日和だった。


「二人とも帰ってきてたんだ」

「うん、昨日の夜。美空が“地元の空気吸いたい”って言うから」

 日和が笑うと、美空も少し照れくさそうに笑った。


「おかえり、美空」

「ただいま、陽翔」


 その言葉を聞いただけで、胸の奥が少しだけ温かくなった。

 けれど同時に、わずかな痛みも混じっている。

 彼女の隣に、別の“誰か”の存在を想像してしまう自分がいた。


「それにしても暑いね。都会より蝉が元気」

「だろ? あいつら、年中ここでライブやってるからな」

「ふふ、ほんと。変わってないな、陽翔」


 美空の笑顔に、陽翔は一瞬だけ言葉を失った。

 何も変わっていないのに、何かが変わってしまった気がした。



 三人は連れ立って、町の中心を抜けた先にある古い公民館に向かった。

 そこは町の子供たちの集合場所でもあり、今は夏休みのイベント準備で使われている。

 彼らがそこへ向かったのは、自治会の山根幸蔵に頼まれたからだ。


「いやぁ、助かるよ。あそこの古い倉庫な、長いこと誰も掃除してなくてな。

 お前らが帰ってきたついでに、ちょっと頼むわ」


 山根が笑いながら言ったときの調子があまりに自然で、三人は思わず顔を見合わせて笑ってしまった。


 倉庫は、川沿いの少し奥にある。

 トタン屋根がところどころ錆びて、壁には蔦が絡まっている。

 戸を開けた瞬間、土と木の匂いがふわりと広がった。


「わー……これは、なかなかのやりがい」

 日和が手を腰に当てて呟く。

「うん、ちょっとした遺跡だね」

 美空が笑いながら箒を取る。

 陽翔はバケツを抱えながら言った。

「日和、あっちの窓開けといて。風通さないと蒸し焼きになる」

「了解!」


 窓を開けると、光が一気に差し込んだ。

 ほこりの粒がきらきらと浮かび上がり、空間全体がやわらかく金色に染まる。

 美空がその光の中で髪を束ねた瞬間、陽翔は思わず手を止めた。

 それはまるで、陽射しそのものが人の形になったように見えた。


「陽翔、ぼーっとしてないで動けー」

 日和の声に我に返り、陽翔は慌ててほうきを持ち直す。

「わかってるって!」


 笑い声が、埃の舞う倉庫に響いた。



 昼を過ぎたころ、作業の区切りがついた。

 三人は川辺に腰を下ろし、コンビニで買ったおにぎりを頬張る。


「やっぱり地元の空気、落ち着くなぁ」

 日和が寝転がりながら言うと、美空も頷いた。

「うん、風の匂いが違うね」

「俺はこの蝉のうるささが懐かしいかな。都会だと聞こえないから」


 陽翔の言葉に、美空が少し笑う。

「ねえ、陽翔。都会の暮らし、どう? 一人暮らし慣れた?」

「まあ、なんとか。最初はコンビニ弁当ばっかりだったけど、最近は自炊してる」

「え、陽翔が? 絶対焦がしてそう」

「するかよ!」

「ふふ、冗談。……でも、そういうとこ、変わらないね」


 美空の声には、どこか懐かしさが混じっていた。

 陽翔は一瞬、何か言おうとして、言葉を飲み込んだ。


 川面が光を反射して、きらきらと揺れている。

 その光を見つめながら、陽翔は小さく息を吐いた。


(……このまま、何も言わずにいられたらいいのかもな)


 でも、心のどこかで違う声がささやく。

 “それじゃあ、きっと後悔する”と。



 その夜。

 美空と日和は、篠原家の古い縁側に座ってスイカを食べていた。

 外では虫の声が絶え間なく響いている。


「ねえ、日和」

「ん?」

「今日、陽翔、ちょっと変じゃなかった?」

「変って?」

「うまく言えないけど……なんか、前より距離がある気がした」

「そりゃあ、いろいろあったからじゃない?」

「いろいろって?」


 美空が首をかしげると、日和は静かに笑った。


「美空、あんた、陽翔のことどう思ってるの?」

「えっ?」

「幼なじみとしてじゃなくてさ。……男の子として」


 その言葉に、美空は言葉を失った。

 夏の夜風がそっと髪を揺らす。

 遠くで花火の音が聞こえた。


 彼のことを思い出す。

 笑った顔、少し照れた声、昔から変わらない優しさ。

 胸の奥が、なぜかざわつく。


「……わかんない。でも、今日一緒にいて、なんか懐かしくて、嬉しかった」

「じゃあ、それが答えなんじゃない?」

 日和の声は穏やかだった。


 美空は空を見上げた。

 満天の星の中に、ゆるやかに光る流れ星。

 それは、静かに胸の奥に沈んでいった。


第三章 揺れる心


 翌朝、蝉の声で目を覚ました。

 窓から差し込む陽光が、白いカーテンを透かしてゆらゆらと揺れている。

 枕元の時計は午前七時。

 昨日の掃除の疲れが少し残っているのか、身体が重かった。

 それでも、夏の朝の空気は清々しい。


 陽翔は顔を洗いに外へ出た。

 井戸のそばの水道をひねると、冷たい水が勢いよく流れ出した。

 両手ですくって顔を洗うと、頬に当たる水が心地よい。

 遠くで鶏が鳴き、風鈴の音がかすかに響く。


「おはよう、陽翔」


 声のほうを向くと、美空が麦わら帽子を手にして立っていた。

 白いTシャツに薄い水色のスカート、足元はサンダル。

 夏の朝そのものみたいな姿だった。


「おはよう。早いね」

「日和が朝から散歩行こうって言ってて。もう行っちゃったけど」

「相変わらず元気だな、あいつ」

「ね。……でも、陽翔も早起きだね」

「田舎に来ると自然と目が覚めるんだよ。都会だと、朝の音が少ないからさ」


 美空は頷いて、空を見上げた。

 青い空に、白い雲が流れていく。

 陽射しを受けてまぶしそうに目を細める横顔が、まるで光そのものに見えた。


「今日も暑くなりそうだね」

「うん。……昼からまた倉庫の片づけ、手伝うんだろ?」

「うん。日和が『地元の子たちにも声かけた』って」


 陽翔は少し笑う。

「子供の相手は疲れるけどな」

「でも、嬉しそうだったよ。陽翔が帰ってくるの、みんな楽しみにしてたんだって」

「俺なんか、もう忘れられてると思ったけどな」

「そんなことないよ。みんな、覚えてる」


 美空の声は、やわらかくて、どこか切なかった。

 風が吹き、二人の間を通り抜けていく。

 その風の中に、ほんの少しだけ昔の夏の匂いが混じっていた。



 昼過ぎ。

 子供たちの笑い声が、古い倉庫の中に響いていた。


「わー、クモいたー!」

「ほうき! ほうき貸して!」

「翔太、それで叩くなって!」


 陽翔は笑いながら、バケツの水を替えに外に出た。

 太陽は真上、草の匂いと土の熱気が混ざっている。

 その向こうで、美空と日和が窓際の掃除をしていた。


「陽翔ー、こっち終わったよー」

「了解!」

 バケツを持ち上げると、手首に水滴が冷たく跳ねた。


 美空が濡れたタオルで窓を拭くたびに、

 光がその腕に反射してきらきらと輝く。

 陽翔はその光をぼんやりと見てしまい、慌てて視線を逸らした。


 それに気づいた日和が、ニヤリと笑う。

「ねえ、美空。陽翔さ、さっきからずっと見てるよ?」

「えっ、うそ!」

「ほんとほんと。掃除するふりして、絶対見てた」

「ちょ、ちょっと日和!」

 美空が頬を赤らめる。

 陽翔はバケツを置きながら苦笑した。

「見てねえよ。ほこりがすごいなって思ってただけだ」

「ふーん、そういうことにしとく」


 日和はにやにや笑いながら、倉庫の外へ出ていった。

 美空と陽翔が残され、少しの沈黙が落ちる。


「……ごめんね、あの子、すぐからかうから」

「いや、別に。昔からだし」

「うん……昔から」


 その言葉が、少し遠くを見つめるような響きを持っていた。

 陽翔はその横顔を見て、胸の奥がざわついた。



 夕方。

 倉庫の片づけを終えると、子供たちが次々に帰っていった。

 陽翔は一人で工具箱を整理していると、外から声がした。


「おつかれさまー」

 振り向くと、美空がペットボトルを二本持って立っていた。

「ほら、水分補給」

「ありがとう。助かる」

 キャップを開けて一口飲むと、冷たい水が喉を通っていく。

 その一瞬だけ、心の熱も少しだけ和らいだ気がした。


「ねえ、陽翔」

「ん?」

「……高校、楽しい?」

「まあ、楽しいよ。友達もできたし」

「そっか」

「美空は?」

「うん……楽しい。けど、なんかね、違う気もするの」

「違う?」

「毎日がキラキラしてるのに、どこかで置いてきたものがある感じ。……変だよね」


 陽翔は首を振る。

「変じゃないよ。俺も似たようなもんだ」


 ふたりの間に、また風が通り抜けた。

 西の空は少しずつ赤く染まり始めている。

 光が彼女の横顔を照らし、その輪郭をやさしく包む。


 陽翔は、胸の奥で言葉にならない衝動を感じた。

 けれど、それを口に出す勇気はなかった。


 ──そのときだった。


「美空」

 背後から日和の声が響いた。

「ちょっと話、していい?」

 美空は少し驚いたように振り向いた。

「うん、いいよ」

「二人ともそこ座って。……ちょっと真面目な話ね」


 日和は少しだけ真剣な表情をしていた。


「美空、さ。陽翔のこと、どう思ってる?」

「またそれ? さっきも──」

「冗談じゃなくて、ちゃんと」


 美空は言葉を失った。

 日和は続ける。


「私、ずっと見てたよ。陽翔、あんたのこと、まだちゃんと好き。

 それに、美空も気づいてないだけで、目が向いてる」


「……そんなこと、ないよ。私、彼氏いるし」

「でも、その“彼氏”の話してるときの美空、ぜんぜん楽しそうじゃない」


 風の音だけが響く。

 美空は俯いたまま、指先をいじっていた。

「……そんなつもりじゃないの。拓真くん、いい人だし」

「うん、悪い人じゃないのはわかる。

 でも、美空が幸せそうに笑ってるのって、陽翔と話してるときだけだよ」


 その言葉に、美空は顔を上げた。

 視線の先で、陽翔は何も言わずに黙って立っていた。


「……やめようよ、日和。そんなの、誰も得しない」

 美空の声は震えていた。

 陽翔は一歩、近づこうとして──立ち止まった。


「ごめん。俺、帰るわ」


 そう言って、陽翔は静かに倉庫を後にした。



 夜。

 陽翔は家の縁側で、缶ジュースを握りしめていた。

 空には無数の星が瞬いている。

 どれだけ見上げても、届かない光ばかりだった。


 ポケットの中のスマホが震えた。

 画面には“青木日和”の文字。

 ためらいながらも、通話ボタンを押す。


『陽翔、ごめん。あんな言い方して。……でも、私、もう見てられなかったんだ』

「俺の気持ち、勝手に言うなよ」

『言わなきゃ、あんたまた我慢してたでしょ』

「……」

『美空、明日、拓真くんと話すって。ちゃんと、答え出すって言ってた』

「答え?」

『うん。きっと、あんたに向き合うための答え』


 電話の向こうから、夜風の音が聞こえた。

 陽翔は目を閉じた。

 静かな夏の夜。

 胸の奥に、熱くも穏やかな光が、確かに灯っていた。


第四章 陽のあたる場所で


 八月の終わり。

 蝉の声も少しずつ遠のき、空は高く澄んでいた。

 田舎での夏が終わり、成瀬陽翔は再び都会のアパートへ戻っていた。


 いつものように通学路を歩きながら、ビルのガラスに映る自分の姿を見る。

 都会の陽射しは相変わらず強いが、田舎で見た光とは違う。

 あちらはやさしく包むような光で、こちらは鋭く照りつける光。

 それでも、陽翔はどこか前よりも心が穏やかだった。


 あの日の夜の電話のあと、美空が彼氏──拓真──と話したということだけは聞いた。

 何を話したかは知らない。

 ただ、「ありがとう」とだけ日和からメッセージが届いた。


 それ以来、美空とは連絡を取っていなかった。

 でも、不思議と寂しさよりも、静かな期待のようなものが胸の奥に残っていた。



 週末の午後。

 陽翔は、学校帰りに駅前のショッピングセンターへ立ち寄った。

 夏休みが終わる前に、家のものを少し買い足すつもりだった。


 エスカレーターを上がる途中で、ふと視界が開けた。

 吹き抜けの天井から陽光が差し込み、下の階にある花屋のガラスが光を反射している。

 花々の色が柔らかな光に包まれ、風に揺れていた。


 ──その中に、見覚えのある姿があった。


 淡いベージュのワンピース、肩までの髪が光を透かして揺れている。

 篠原美空だった。


 陽翔の足が止まった。

 エスカレーターの上で、ただ彼女の姿を目で追ってしまう。

 花を選ぶその横顔は、少し大人びて見えた。

 あの夏の光をそのまま纏っているようだった。


 エスカレーターが上りきると、陽翔は息を整えて、ゆっくりと階段を降りた。

 花屋の前に立つと、美空がこちらに気づいた。


「……陽翔」

「久しぶり」

「ほんとに。……元気だった?」

「うん。そっちは?」

「うん、私も」


 会話は短いのに、空気は不思議とやわらかい。

 久々に再会したというより、昨日まで隣にいたような自然さがあった。


 美空が手にしていたのは、薄紫の小さな花束だった。

 陽翔が尋ねる。

「それ、誰かに贈るの?」

「ううん、自分に。部屋に飾ろうと思って」

「へえ、意外だな。美空、あんまり花とか買うタイプじゃなかったのに」

「そうかも。……でも、この花、見てると夏の光を思い出すの」

「夏の光?」

「うん、田舎の。倉庫の窓から入ってきた光。陽翔が笑ってたときの」


 その言葉に、陽翔の心が静かに跳ねた。

 彼女の瞳には、あの夏の景色が映っているようだった。



 二人は並んでショッピングセンターを歩いた。

 窓の外には午後の陽が差し込み、通路の床に長い影が伸びている。

 他愛もない話をしながら歩くたびに、自然と歩幅が合っていく。


 やがて、美空が立ち止まった。

 吹き抜けの真ん中にあるエスカレーターの前──

 天井から光が真っすぐに降り注ぐ場所だった。


「ねえ、陽翔」

「ん?」

「私、拓真くんと別れた」


 陽翔は息を呑んだ。

 でも、彼女の表情はどこか穏やかだった。


「彼、すごく優しかった。でも……“好き”って気持ちは、少し違ったの。

 話してるうちに、自分でもわかってきた。

 私、陽翔といるときの方が、ちゃんと自分でいられるって」


 その言葉は、光よりもあたたかく胸に降りてきた。

 陽翔はゆっくりと息を吸い込み、手にしていた小さな袋を差し出した。


「実は……花屋で、美空が見てた花。俺も買ってきた」

「え……?」

「好きだって言ってたから。あの時、田舎で見たやつ。

 “夏の光みたい”って言ってたろ?」


 美空の目がゆるやかに潤む。

 陽翔は続けた。


「美空。……俺、ずっと好きだった」

 静かな声だったけれど、確かに届く声だった。

「気づくの、遅かったけど。

 それでも、もう逃げたくない。

 一緒に笑って、一緒に光の中を歩いていきたい」


 美空は少しだけうつむき、唇をかすかに震わせた。

 そして、顔を上げて微笑んだ。


「……私も、陽翔のことが好き。

 ずっと一緒にいるのが当たり前すぎて、気づけなかったけど。

 でも今は、ちゃんと“恋”として言える」


 陽の光が二人の間に降り注いでいた。

 白く、やわらかく、あの夏の倉庫を照らしていた光と同じ。

 それは祝福のようで、未来を照らすようでもあった。


 陽翔は小さく笑い、美空の手を取った。

 その瞬間、世界が少しだけ輝いた気がした。



 その夜。

 駅前のベンチに座って、日和にメッセージを送る。


「なあ、日和。俺、やっと言えた」


 すぐに返事が返ってきた。


「やっとか! おめでとう。二人とも、お似合いだよ」


 メッセージを読みながら、陽翔は空を見上げた。

 ビルの隙間に小さな星がひとつだけ光っている。

 都会の夜空でも、ちゃんと見える星。


 その隣には、美空が座っていた。

 彼女の髪に街の灯りが映り、やわらかく光っていた。


「ねえ、陽翔」

「うん?」

「この夏、忘れないね」

「ああ。……これからも、忘れないよ」


 二人の手がもう一度、そっと重なる。

 風が通り抜け、遠くで電車の音が響いた。

 世界が少しずつ静まり返っていく中、

 陽翔は確かに感じていた──


 この光は、もう誰のものでもない。

 二人で掴んだ、これからの光だと。



終章 陽の光の中で


 季節はめぐり、冬。

 高校の卒業が近づくころ、

 陽翔と美空はまた並んで登校していた。


 朝の陽がビルの間から差し込み、

 二人の影を長く伸ばしていく。


 その光の先には、

 あの日の夏の続きを描くように──

 確かに、幸せな未来があった。


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