第四話 異界の亡霊
その男の名は、記録にはほとんど残っていなかった。
ヨシタカ――そう名乗った者。
この世界に現れたとき、彼は剣も魔法も持たず、ただ一冊の手帳と、ボロボロのリュックだけを抱えていたという。
彼が最初に現れた場所は、ハウ=ラニ湿原。
そこは魔物の通り道として恐れられ、人間の居住など到底不可能な場所だった。
◇
私がその名を耳にしたのは、屍者使い《ネクロマンサー》の一団に関する記録を調査していたときだった。
“死人の山”――かつて千人規模の戦闘があったとされる戦場跡で、奇妙な遺物が出土した。
それは、私たちの世界には存在しない文字で綴られた手帳。
手帳の表紙には、油で滲んだ文字でこうあった。
「帰る方法」
ページの一部は失われていたが、辛うじて読み取れた内容は、魔法陣の模写、謎の機械の設計図、そして断片的な異界の言葉。
反転式の座標理論は可能性あり。
規則が整えば座標のずれを逆算できる。
問題は、エネルギーの供給源……魔核?
手に入らない。誰も教えてくれない。
奪うしかない。
私は確信した。
これは、「帰るため」に異世界の技術と魔力を奪った転移者――ヨシタカの遺品だ。
◇
かつてヨシタカは、ある小国の魔導師団に所属していたという記録が残っていた。
戦闘経験もない彼が、いかにしてその地位を得たのか。
その答えは、“異世界の知識”だった。
火薬の配合。
熱力学の応用。
魔法装置の設計理論。
そしてなにより、人を説得し、騙し、利用するための論理と心理。
彼はそれらを駆使して、地位を得、信頼を得、そして……裏切った。
魔導士団の魔核貯蔵庫を襲い、すべてを持ち逃げしたのだ。
◇
だがその“逃亡”も長くは続かなかった。
各国から賞金がかけられ、ヨシタカの名は「世界を欺いた偽神」として広まった。
彼の逃走経路には、数十の死体と破壊された施設、そして、誰かが泣きながら握りしめていたという手紙が残されていた。
ただひとつだけ、彼を知っていた少女がいた。
山岳集落で薬草を売っていたというその娘が語った。
「……彼は、悪い人じゃなかった。夜中、よく独り言を言っていた。
“まだ帰れる、まだ帰れる”って……“あの子が待ってる”って」
◇
ヨシタカの死体は見つかっていない。
ただ、屍者使いの拠点で焼け落ちた石室の壁に、奇妙な円形の焼き痕があったという。
そして、その中心にだけ、焦げ跡が一切残っていない空白の「人型」があった。
魔力の収束、爆縮、そして……消失。
彼が「帰った」のか、それとも「消えた」のか。
誰にも分からない。
ただ私は思う。
彼は確かに“必死”だった。
裏切りも、盗みも、殺しも、それらすべてが――
帰るためだったのだ。
◇
私は記録する。
ヨシタカという名の、黒衣の転移者がいた。
彼の人生は、他者を踏みにじり、信義を裏切り、死体の山を越えて積み上げたものだった。
だが、だからといって、その祈りが否定されるわけではない。
彼の祈りはひとつだけだった。
「帰らせてくれ」――それだけだった。
その声が、今もどこかの次元に届いていることを、私は願ってやまない。