第三話 異界の還り火
この世界に、確かに“帰った”者がいたという。
記録官として多くの転移者を調査してきたが、帰還の事例はただの噂、あるいは詐欺師の戯言として扱われていた。
だが、唯一――村の東にある古い魔導塔で、私はそれを裏付ける痕跡を見つけた。
その少女の名は、ミオ。
灰のような髪と、透けるような瞳を持つ少女だったという。
◇
「魔眼を持っていたんです」
そう語ったのは、魔導塔に住んでいた老魔導士・サリウス。
痩せた背にくすんだローブをまとい、過去を噛みしめるように口を開いた。
「彼女が現れたとき、空が割れた。まるで硝子が砕けるような音がして、塔の前に立っていた。
身にまとっていたのは、この地のどの文化にも属さない不思議な衣だった。
紺色の布で仕立てられた短い上衣と、ひだの入った膝丈の下衣。それらはひどく薄く、風に揺れるほど軽やかで、見るからに防寒性も防御力もなさそうだった。
胸元には飾り紐のようなものが結ばれていて、足元は柔らかな履き物。
後に彼女が口にした言葉によれば、それは“ガクセイ”と呼ばれる身分の者が着る特別な衣らしい。
わたしには、それが戦士でも貴族でもない者の衣だとは、とても思えなかった」
ミオは魔眼を持っていた。
未来を見る力。だがそれは、不完全で、制御もできず、視たものに飲まれてしまうほど危険な力だった。
サリウスは彼女を保護し、その力を封印する方法を教えた。
だがミオは繰り返し言ったという。
「わたし、帰らないといけないの。あの子に、また会いたいから」
◇
手記が残っていた。
それはミオが魔導塔で暮らしていた半年間に記したものだ。
今日はまた夢を見た。机の引き出しの中の手紙。あの子の字。
でも、読む前に目が覚めた。
いつも思う。わたしがいなくなった世界で、時間はちゃんと進んでるのかな。
だとしたら、あの子は、もうわたしのこと、忘れてるかも。
それでもいい。帰りたい。笑って手を振って、もう一度、ちゃんとさよならを言いたい。
「帰還の術なんて、できるわけがないと思っていた」
サリウスはそう言った。
けれど、彼女は実行した。
彼の蔵書の中から魔術理論を読み解き、使われなくなった“時空の門”の装置を再起動させ、そして――
「消えたんだ。音もなく。光もなく。まるで、初めから存在していなかったみたいに」
◇
ミオの痕跡は、魔導塔からすべて消えていた。
書きかけの本、使っていた寝台、日記……すべてが「そこに彼女がいた痕跡」だけを残して消失していた。
ただ一つだけ、残されていたものがあった。
それは――塔の石壁に刻まれていた、たどたどしい異世界文字。
指で書いたのか、子供の文字で、ゆがんだ筆跡。
「わたしは もどる だれにも わすれられても」
◇
私の調査報告書に、この項目は存在しない。
書けば抹消されるだろう。帰還など“あってはならない”からだ。
だが私は知っている。
ミオという名の少女が、この世界から、そして記録から、完全に消えたことを。
灰のように消えてなお、誰かの心にだけ、残っていることを。
彼女は、帰った。
それだけで、この世界がほんの少し優しく見えるのだ。