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第二話 異界の種

この地に根を下ろした転移者の話を、私は信じなかった。

帰還できず、さりとて命を落とすこともなく、

異世界で家を建て、家族を持ち、季節の流れを愛したというその話が、

転移者の記録にあるまじき、穏やかすぎるものに思えたからだ。


だが、名は確かに残っていた。

アヤカ・ミヤシロ。

とある地方の郷土誌に、その名があった。



「この畑の土はな、あの人が変えたんじゃ。ほら、見てみい。この土を握ってごらん」


老農夫は、陽に焼けた手で一握の土をすくいあげた。

ふかふかと柔らかく、しっとりと湿っている。

魔物に荒らされ、焼かれ、乾ききっていたこの谷に、命の香りが戻っている。


「前は石だらけで何も育たなかったんじゃ。けどあの人が……アヤカが、畑を耕し、土に草を敷いて腐らせ、山から水を引いてきた。『こんぽすと』とか『たいひ』とか、変な言葉を使っておったのう」


アヤカがこの村に現れたのは、五十年以上も前のこと。

旅の途中で山賊に襲われ、瀕死のところを村の者に助けられたという。

異形の言葉を話し、魔法も剣も使えず、細い体で怯えていたその少女が、次第に村に馴染み、知識で人々を救っていった。



私は村の納屋にある古文書の中から、ひとつの帳面を見つけた。

それはアヤカが生前つけていた、農業記録だった。


紙質はこの世界のものだが、そこに記された文字は、見覚えのある異界の筆記法だった。

私は、かろうじて意味を読み取ることができた。


七年目、春。

今日、キュウリの芽が出た。たぶんキュウリじゃないかもしれない。

名前も分からない。だけど、これが生きてるのを見ると、泣きたくなる。


この世界で、私はまだ「人間」として生きてるんだと思える。


「アヤカ様は、よう働きなさったよ。言葉は最後までたどたどしかったが、誰よりもこの村のことを想っておられた」


そう語ったのは、今は村長を務める壮年の男だった。

彼はかつて、アヤカのもとで農業を学んだ少年だったという。


「死ぬ間際、私にこう言われた。『ねえ、もう帰らなくていいかな?』と。

私は何も言えなかった。ただ、手を握ったまま泣いたんです」



アヤカの墓は、村の丘にあった。

石碑には名前も何もない。ただ、石を重ねただけの静かな墓標。


けれど、その足元に植えられた草花は、明らかに異界のものだった。

見たこともない葉の形。青白い小さな花。

この世界に咲くべきではない、けれど、確かに根付いている。


私は記録する。

彼方より来たりし者、アヤカ・ミヤシロ。

剣を持たず、魔法も使わず、それでも人を救い、土地を癒した者。

帰らなかったのではない。ここを「帰る場所」にしたのだ。


この大地の、やさしい揺らぎの中に、彼女の人生がいまも静かに息づいている。

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