第二話 異界の種
この地に根を下ろした転移者の話を、私は信じなかった。
帰還できず、さりとて命を落とすこともなく、
異世界で家を建て、家族を持ち、季節の流れを愛したというその話が、
転移者の記録にあるまじき、穏やかすぎるものに思えたからだ。
だが、名は確かに残っていた。
アヤカ・ミヤシロ。
とある地方の郷土誌に、その名があった。
◇
「この畑の土はな、あの人が変えたんじゃ。ほら、見てみい。この土を握ってごらん」
老農夫は、陽に焼けた手で一握の土をすくいあげた。
ふかふかと柔らかく、しっとりと湿っている。
魔物に荒らされ、焼かれ、乾ききっていたこの谷に、命の香りが戻っている。
「前は石だらけで何も育たなかったんじゃ。けどあの人が……アヤカが、畑を耕し、土に草を敷いて腐らせ、山から水を引いてきた。『こんぽすと』とか『たいひ』とか、変な言葉を使っておったのう」
アヤカがこの村に現れたのは、五十年以上も前のこと。
旅の途中で山賊に襲われ、瀕死のところを村の者に助けられたという。
異形の言葉を話し、魔法も剣も使えず、細い体で怯えていたその少女が、次第に村に馴染み、知識で人々を救っていった。
◇
私は村の納屋にある古文書の中から、ひとつの帳面を見つけた。
それはアヤカが生前つけていた、農業記録だった。
紙質はこの世界のものだが、そこに記された文字は、見覚えのある異界の筆記法だった。
私は、かろうじて意味を読み取ることができた。
七年目、春。
今日、キュウリの芽が出た。たぶんキュウリじゃないかもしれない。
名前も分からない。だけど、これが生きてるのを見ると、泣きたくなる。
この世界で、私はまだ「人間」として生きてるんだと思える。
「アヤカ様は、よう働きなさったよ。言葉は最後までたどたどしかったが、誰よりもこの村のことを想っておられた」
そう語ったのは、今は村長を務める壮年の男だった。
彼はかつて、アヤカのもとで農業を学んだ少年だったという。
「死ぬ間際、私にこう言われた。『ねえ、もう帰らなくていいかな?』と。
私は何も言えなかった。ただ、手を握ったまま泣いたんです」
◇
アヤカの墓は、村の丘にあった。
石碑には名前も何もない。ただ、石を重ねただけの静かな墓標。
けれど、その足元に植えられた草花は、明らかに異界のものだった。
見たこともない葉の形。青白い小さな花。
この世界に咲くべきではない、けれど、確かに根付いている。
私は記録する。
彼方より来たりし者、アヤカ・ミヤシロ。
剣を持たず、魔法も使わず、それでも人を救い、土地を癒した者。
帰らなかったのではない。ここを「帰る場所」にしたのだ。
この大地の、やさしい揺らぎの中に、彼女の人生がいまも静かに息づいている。