第一話 異界の剣士
その石碑には、名がなかった。
かろうじて読み取れるのは、雨風に削られた剣の刻印と、ひとつの祈りの言葉だけ。
――この魂が、彼方に還らんことを。
王都ザル=フィエルより南西、かつて“魔喰いの谷”と呼ばれた戦場跡に、私は偶然その墓標を見つけた。
荒れた地にぽつんと立つ無名の碑。誰が建てたのかも分からず、記録にも残っていない。
だが、私は直感した。ここに眠るのは、「彼方より来たりし者」――転移者だ。
私は王立史学会に所属する一介の調査員に過ぎない。
だが、この地で数人の古老に話を聞き、やがて彼の名を知った。
カズト。
あるいは、黒き剣の傭兵と呼ばれた男。
◇
「カズト? ああ、あのよそ者か……まだ覚えているよ。妙な言葉を話していたな。あれは、呪いか何かじゃないかって噂されてた」
そう言ったのは、村の鍛冶屋だった老人である。
彼は言葉を選びながら語った。カズトはこの村にしばらく滞在し、剣の腕を見込まれて傭兵隊に加わったのだという。
魔物に襲われた旅団を単身で救ったこともある。
そのとき使っていたのは、黒い鉄で鍛えられた奇妙な剣。
「異邦の刃」と呼ばれ、誰も同じ材質の剣を見たことがなかった。
「いつだったか、焚き火のそばで、ぽつりとこう呟いたんだよ。『どうして、あの朝、あのデンシャに乗ってしまったんだろう』ってな」
私はその言葉を何度も反芻した。
“デンシャ”とは、この世界に存在しない単語。おそらく彼の元いた世界の道具だろう。
そして、“あの朝”とは、転移の瞬間を意味している。
なぜ、彼はこの世界に呼ばれたのか。
なぜ、彼は帰れなかったのか。
私は更なる手がかりを求め、かつて傭兵団が使っていた古い宿舎を訪れた。
そこで、一冊の革の手帳が埃をかぶって残っていた。
カズトの手記を読み解く作業は容易ではなかった。
彼が書いた文字は彼の国の言葉そのものだが、私には馴染みのない単語が多い。
彼の世界の言葉を理解するには、私の長年の研究が欠かせなかった。
1月14日 晴れ
突然、目の前が白くなって気づいたら草原だった。
エキのホームにいたはずだ。夢じゃない。スマホも使えない。ふざけるな。
2月21日 雨
生きるために魔物の肉を喰った。最初は吐いたけど、今はもう慣れた。
この世界の奴らは、俺のことを「呪われた子」と呼ぶ。上等だ。
3月3日 晴れ
たまに夢を見る。家族の声が聞こえる。起きたら、胸が苦しい。
こんな世界で生きたくない。でも死ぬのは嫌だ。
4月29日 嵐
魔導士たちが言っていた。『帰還の魔術』というものがあるらしい。
それを見つけるまでは、絶対に死ねない。俺は帰る。
その手帳の最後のページは、破れていた。
おそらく、彼の最期の記録は、誰かの手によって奪われたのだろう。
しかし、彼が最後まで「帰還」を信じていたことだけは、確かだ。
石碑の前に戻った私は、そっと一輪の野花を手向けた。
帰ることは叶わなかった。だが彼は、諦めなかった。
その誇りと絶望の入り混じった人生は、確かにここにあった。
私は日誌に記す。
彼は確かに存在した。
彼の名は――カズト。
彼は「帰還者」ではなかった。だが、いつか誰かがその意志を継ぐだろう。