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熱いアスファルトの熱は、明け方の空気を暖めない。
遠くから、都市の貧乏ゆすりの音だけが響く。
合材を降ろしたダンプカーが、教会前を軽やかに走り抜ける。
聖堂が開く。中は暗かった。
マリア像は見えない。
「あ……ちーす、神父さん」
隣のホストクラブの前。男が一人。
気だるげなシャツは、裾がはみ出している。
「……おはようございます」
「今日も早いッスねー」
「ええ、そちらも」
半ば日課の挨拶。
お互い視線は合わさない。
店のドアノブと教会の十字架が交差する。
「こっちはこれから寝るところッスけど」
「そうですか」
鍵穴とロザリオが鳴る。
扉は閉ざされた。
男が顔をあげる。目の端に目やにが滲む。
「……神父さん。機嫌イイっすね」
「そうですか?」
「なんとなく分かりますよ。商売ッスから」
「そうですか」
微笑みが向かう合う。
影は写らない。
「……神父さん。職安通りの高架脇の中華屋、行きませんか?」
「いえ、用がありますから」
「そうッスか……」
目は泳ぐが定まっている。
見ないために、見ていた。
「随分と、遠くまで」
「好きなんですよ」
くすんだ金髪は湿っている。
コロンの香り。
よれたシャツにシワができる。
「……あそこ、ゴミを通りに山積みにしとくから、ネズミだらけッスよね」
「そうですね」
「いつも何匹か車に轢かれて潰れてる」
「そうですね」
神父の声は何も教えていなかった。
ただ遠くを見つめている。
「あれ、誰が片付けてるんです?」
「さぁ……」
神父の視線が滑り落ちる。
ネズミの死骸はない。
タバコの吸殻が潰れている。フィルターが焦げていた。
「……大久保通り、変わりましたね」
「ええ」
「昔はもっと小汚かった」
「かも、しれません」
「ただ、街は変わらないッスね」
「かも、しれません」
金髪が揺れる。
開かれかけた口は、すぐに閉じられた。
空咳が響く。
音はコンクリートに反響して、アスファルトに染みる。
「じゃあ……俺はあっちなんで」
「はい。失礼します」
男たちはすれ違った。
そのまま振り返らずに歩く。
コロンの残り香。
鳴き声はなかった。どこかで風が切られた。
****
聖句は朝日に照らされている。
聖水に落ちた波紋が聖堂の影をかき消してゆく。
ミサは空白に覆われている。
主婦が二人。老婆が一人。老爺が一人。
「……アーメン」
十字を切る。
マリア像は何も言わない。
ロザリオが、揺れる。
匂いが戻る。
防臭剤と洗剤とコーヒーの香り。
長椅子は軋みをあげて、腰をさする。
「神父さん。どうだったかね、ワシのやった米。役に立ったかい?」
「……ええ、お陰様で」
緩んだ空気。
近づいて、老爺はそう言った。
神父は口元を見つめている。
「そりゃあ良かった。
親戚が山程送って来たからね、食いきれなくて困っていたんだ」
「そうですか」
「……ほら、帰りますよ。
神父様も、またお願いしますね」
頭を下げる老婆。
派手さのない上等な服が、ガラス玉の瞳に表れていた。
老夫婦は扉の先に消えた。
主婦たちは世間話に花を咲かせている。
「でね、カラスがゴミを漁って」
「困るわよね、誰が片付けると思ってるのかしら」
「でも、私たちも似たようなもんよ」
「あらやだ、何言ってんの」
「そういえば、この間ウチの犬が鶏肉の骨をね……」
「また? その話、この間も聞いたわよ」
ぼんやりと聞こえてくる会話。
ステンドグラスは朝日に気づかなかった。
色付いた光は、誰の顔にも届かない。