3
くすんだ白の軽バンは、抜け殻だけを運んでいた。
教会の前。聖堂は閉じている。
車を降りた神父は後部ドアを開け、空いた寸胴鍋を引きずり下ろす。
「なに、それ」
聞いた声。
神父は振り返らずに答える。
「鍋です。炊き出し用の」
「ふ〜ん。私と同じ?」
寸胴鍋は軽かった。
油に汚れた夢を抱えて振り返れば、カラスが見える。
少女は笑っていた。
口の端に咥えたタバコは揺れている。
「神父さん。トイレ掃除した?
私がしてあげようか?」
電柱からカラスが見下ろしている。
黒に濡れた羽は、僅かに震えていた。
車が走り抜ける。
少女の声は、その度に掠れていく。
鐘の音は聞こえない。
マリア像は聖堂の中。
カラスだけが、ロザリオの揺れを見つめている。
「カップ麺は、切らしています」
「あっそう」
少女はタバコを地に捨てる。
揉み潰す足。
靴は履いている。
通りすがりの笑い声。
視線は交わらない。
風だけがそよぐ。
風は排気ガスの匂い。
「……神父さん。エヴァ見た?」
「見てません」
「やっぱつまらないね、神父さん」
濡羽は乾かない。
ただ、風が撫でつけている。
「映画見ないの?」
「あまり見ません」
「じゃあ、何なら見るの?」
少女は問う。
神父は口を開きかけて、また閉じた。
風が吹いた。ロザリオが揺れた。
風の味は、苦い。
「……君を、見ている」
少女は驚かなかった。
ただ、ふっと何かを吐いた。
「嘘つき」
カラスが飛び立つ。
鳴き声は、聞こえない。
鍋の中、お玉が小さくカチャリと震える。
ただ、それだけ。
少女は笑う。
「ねぇ、何日か泊めてくれない?
教会の長椅子でも、なんなら神父さんの部屋の床でも、どこでもなんでも、好きにしていいからさ?」
まだ、笑っている。
笑いながら、カラスを見ていた。
カラスは揺れている。
いや、世界の端が揺れている。
ダンプカーが駆け抜ける。
土埃は陽の光を遮らない。
「……空き部屋があります。
そこで良ければ」
神父は再び動き出す。
鍋を抱え、教会の入口に向かって。
少女は動かない。
動かないで、見つめていた。
腕が伸びた。
伸びて、強ばって、力が抜けた。
神父は見ていない。
カラスも、マリア像もロザリオも。
ただ、鍋の端に歪んでいた。
****
小部屋には、むき出しのベッドと小さなデスク。そして十字架。
埃の匂いは空気を殺している。
「へぇ……ちゃんとしてる。
前は誰が住んでたの?」
部屋を覗き込む少女。
剥き出しの肩が跳ねている。
神父はなにも見ていない。
カラスだけが嗤っている。
「誰も、そして誰でも」
「なにそれ。
……まぁ、どうでもいいや」
踊るように小部屋に淀む。
それは少女には良く似合った。
十字架は、鈍く光る。
ロザリオが舞う。少女と絡む。
「……マットレスと掛け布団を持ってきます」
「うん。ありがとう」
少女は神父を見ていない。
十字架の欠片を仰いでいた。
カラスはいない。
いたが、誰も見ていなかった。
十字架の欠片は、ただこぼれている。
少女は手のひらを見つめる。
欠片はなかった。
****
鍋に水が満ちて、溢れた。
汚れは白い泡とともに、排水溝へ流れ込む。
油膜は溶かされる。
水はまだ冷たい。
台所。鍋を洗う神父の背。
神服は黒かった。
「ねぇ、神父さん。このカレーは?」
少女が指を指すのは、鍋さらいの残骸。
皿に盛られたライスとルー。
「炊き出しの残りです」
「ふーん。食べてもいい?」
「……どうぞ」
返事はいらなかった。
ラップを剥がし、添えられたスプーンを手に取る。
冷えたルーは油が固まって、ライスは固まっていた。
具は既になく、煮崩れた欠片だけが浮いている。
「温めないんですか?」
「いいよ、芳香剤の匂いと混ざるから」
「そうですか」
流しとテーブル。
背中合わせで視線を落とす。
食器と、鍋だけが鳴る。
「……お水くれない? 水道水」
「カビ臭いですよ。水道管が古いから」
「別に良いよ。死にはしないでしょ」
アサヒのロゴ入りのガラスコップ。
注がれた水は波打って、泡立つ。
「ありがと。
うぇ……ホント、カビ臭い」
「そうでしょう」
笑い合う。
一瞬だけ。
「……やっぱり良いや。あとあげる。
飲んで」
「はあ」
押し付けられたコップ。
現代の盃。カビの臭いを二人で分ける。
少女は微笑んでいる。
カラスはいない。