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タワーマンションの影が見下ろしている。
朝の東京医大通り。希望と絶望と、現実の忙しない足音に満ちていた。
公園の炊き出しの列のみが、影に切り取られている。
男たちに会話は無い。
ただ、ニット帽と軍手とジャンパーが、桜を眺めていた。
花は散る。
風に揺られたそれは、カレーの鍋を飾る。
ニット帽が視線を上げた。
軍手はポケットに手を入れた。
ジャンパーの背中が丸くなる。
神父はただ、桜の花びらを皿の外に滑らせた。
「主の平安を」
カレーが動いて行く。
市販のルーに痛みかけの安い根菜。少しの鶏肉。喜捨された米。
鍋は減る。米も減る。列は減らない。
奉仕者は列を見ない。
「あの人、三回お代わりしたわよ?」
「良くそんなに入るわね、まぁ普段ろくな物食べれないんでしょうけど……」
「しょうがないわよ」
神父はそれを背中で聞いた。
マリア像はここにはなかった。
ロザリオが神父の動きに合わせて揺れる。
タワーマンションの後ろ、十字の光の筋は公園だけに影を落とした。
皿が戻る。スプーンはなかった。
人参の欠片だけが残っていた。
「さて、神父様、そろそろ片付けしますか。だいぶ行き渡ったようですし」
一人がそう言って鍋を手に取る。
中には少し、ルーが残っていた。
遠くの桜の上。カラスは毛づくろいをする。
薄紅は黒点を覆い隠していた。
「失礼、お手洗いに行ってきます」
「あら、どうぞごゆっくり」
神父は主婦たちの軽やかな話し声に背を向ける。
声はどこまでも追いかける。
隣接する高校の鐘がなる。
告解はしない。
公衆トイレ。
発酵した臭気と湿度は、朝の冷気を拒んでいた。
便器は泥に汚れ少し欠けている。
前に立ち、尿を放つ。
小さく息を吐く神父。
水音が響く。
隣の便器に影が差した。
ジャンパーは何も言わない。
神父も何も言わない。
ただ、吐き出していた。
カラスが鳴いた。
ジャンパーが口を開いた。
「……カレーもいいが、たまにはオムレツとか食いてぇな」
視線は交わらない。
声だけが、公衆トイレに鈍く響く。
「……考えておきます」
神父の声にジャンパーが呻く。
「よせよ」
水音は、とうに止んでいた。
ジャンパーが丸まり、シワができる。
「……俺だって、若い頃は違ったさ
でもなぁ、ムリなんだよ。……もうムリなんだ……
なぁ、だめか神父さん。
ただ飯食って、糞して寝るだけじゃ」
「…………」
黙ってズボンに裾をしまい。便器の前で十字を切る。
嗚咽が響く。
高校の、鐘がなる。
ジャンパーにシワができる。
シワは、すぐに張り詰めて消えた。
「……俺はなぁ、アンタぐらいの歳の頃は、会社経営だってしてたんだ。しかも、三つだ。
金も女もいくらでも手に入ったんだ。
あんな粗末なカレーじゃなくて、銀座の一流レストランのカレーだっていくらでも食えた。
できるか? アンタにはできるのかよ?」
神父は答えない。
応えないことで、答えていた。
ジャンパーは薄汚れていた。
ゴミ捨て場で、拾ったジャンパー。
発酵した臭気に、タバコの香りが僅かに混じった。
「……何か言えよ、黙ってないで」
ジャンパーが覗き込む。
マリア像はない。
ロザリオが裏返った。
カラスが鳴く。
神父は微笑んでいた。
高校の鐘が鳴る。
懺悔は公衆トイレに響いている。