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 午前4時の花園通り、街はまだ眠りそこねていた。


 ホストクラブから出されたゴミ。カラスは一羽、袋の口を器用に裂いた。

 吐瀉物が、側溝の蓋に模様を描いている。カラスすら避ける、ドブの匂い。


 酔っぱらいは微睡みを抱いて現実とキスをする。


 街は黙っている。

 私はそれを見る。


 すべてを蹴散らすように、産廃を集めるパッカー車が滑り込む。

 酔客が夢から覚めた。現実は鋼の顎の咀嚼音。


「たまらないよ」

 そうつぶやき、カラスは電線の上で首を振る。


 静けさの中の喧騒。神父がひとり、世界を切り裂いていた。


 穏やかな瞳は何も映していない。

 頭を掻く酔客も、その頭に糞を落としてカァと鳴いたカラスも。

 ただ、過去だけを見つめている。


 パッカー車の音が遠ざかる。空き缶がカランと転がって、朝の静けさにひっかかった



 雑居ビルの谷間の墓標。十字架が掲げられた新宿基督教会。祈りの墓、沈黙の社。


 猥雑の夜明け。少女は教会の軒先にうずくまっていた。スカートのすそを尻の下に押し込んで、煙草をふかして。

 少女が何かを吐き出している。神父はそれに気づかないふりをした。靴音だけが響く。


 かすかに漂う酒と化粧の匂い。

 素足。ヒールの片割れが側で裏返っている。

 瞳は澄んでいた。その奥にはカラスが一羽、眠っていた。


「ここで眠ると風邪をひきますよ」


 初めて、視線が交差した気がした。


「教会ってさ、Wi-Fiある? 神様とLINEできるの?

 あとトイレも貸してよ。それとも、神様はおしっこしない?」


 紫煙が神父の聖銀を燻す。

 瞳の中のカラスが、目を覚ます。

 神父の唇がわずかに歪んだ――笑ったのか、ただ息を吐いたのか、自分でも分からないままに。


「トイレは2階、でも水流れが悪いから気をつけて」


 ****


 聖堂に豚骨の香りが漂う。

 マリア像はラーメンの湯気に微笑んでいる。


「ゴハン、ありがとね。

 お腹空いてたんだ」


 笑みを浮かべる少女。

 手慣れたもの。擦り切れた感情は丸めて捨てた。


「カップ麺ですが、炊き出し用のが余っていたので」


 聖堂の隅の屑籠には、そんなクズごみが今も昔も落ちている。


 少女が麺をすする音が、聖堂に反響する。

 箸が止まる。


「しょっぱ……」


 少女はインスタントのチャーシューをつつく。

 干からびて薄っぺらく、味もよく分からない。それでもお湯で戻せば、メインの具材になる。


「それが良いんですよ」


 塩の味は何度も確かめた。

 神父はそれを受け入れた。


「何それ。神父さんももっと良いもの食べたら?

 お寿司とか、焼肉とか」


 暗い聖堂。マリア像はなにも照らさない。

 壁に貼られた炊き出しの日程表には斜線が

 貼られていた。

 次の炊き出しの料理の献立を神父は考える。


 麺を飲み込んだ少女の喉が開く。


「……ねえ神父さん、こういうとき、祈るの? 今日も私たちのために生きる糧を……って」


 神父は微笑み、答えない。

 ただ、黙って十字を切る。


「……お祈りするならついでに頼んでよ、替え玉くださいって、バリカタでさ、120円の」


 少女は容器を手に取り、スープを啜った。

 具材の切れ端が縁にこびりつく。


 舌でそれを舐め取る少女。

 見つめる神父。


 遠くでカラスが鳴いている。


 少女はふと神父の顔を見上げる。

 目は笑っていなかった。


「……見ちゃダメだよ?」


 神父の視線が、カップ麺の空き容器をかすめて止まった。

 微笑みではなく、諦めにも似た哀れみが、その口元に浮かんでいた。


「……神様ってさ、私の着替え、覗くのかな?」


 少女は窓の外を見つめる。

 フワリと、塀の上にカラスが降りたった。

 神父は小さく頭を振る。

 少女は言った後で、ふっと眉間を触った。


「なーんてね、気にしてないけど」


 指先がスカートの裾を握りしめていた。

 ステンドグラスに朝日が差し込む。

 光の筋が聖水盤を照らす。

 朝刊を配るカブの排気音。


「……聞かないんだ、私のこと」


 少女は空っぽになった容器を見つめる。

 穴が空くほど。中身がまた湧きいでるのを待つように。


「決まりですから」


 神父は続けて口を開きかけ、目を伏せた。まぶたの影が彼女に答えた。


「ぷっ……何それ。

 でも、慣れてるよね、神父さん。

 ……いや、別に、どうでもいいけど」


 神父の上下に動く喉仏だけが、小さく赦しを乞うていた。


 少女はタバコを取り出そうとして、諦めた。

 ライターは140円の使い捨て。


 少女は机肘をつき、身を乗り出して神父に顔を近づける。


「フランス映画って見る?」

「いいえ」

「じゃあエヴァは?」

「名前は知ってます」

「そう。

 神父さんってつまらないね」


 再び身体をそらし、空になったカップを弄ぶ少女。指先が絡みつく。


「カップラーメンなんか久し振りに食べたら。

 ねぇ、神父さん。私の家はお金持ちなんだよ? 神父さんのお給料より私のお小遣いの方がきっと多いよ?」

「そうですか」


 神父は穏やかに、マリア像を見つめる。

 白い瞳は、石膏で固められている。


「……ねぇ、神父様。セックスしようよ。そして一緒に死んで。私を天国に連れてって?」


 窓辺のカラスが鳴いている。遠くに向かって、呼びかけている。

 呼びかけているが、返事はない。


「私は神父だよ?」

「オナニーしないの?

 トイレに毛がいっぱい落ちてたよ?」


 痛みを餌にする。それは祈りだった。


 あの目を、かつて見殺しにした誰かに見た。あの声の震えを、いつか自分も持っていた。

 神父はマリア像を見遣る。


 彼女は、静かにそこに在った。


 一瞬だけ祈ろうとして、神父は自分が笑っているのに気がついた。


「……ねぇ神父さん。

 二階のトイレ、神様の匂いがしたよ。

 うんこと、おしっこと、ドブの匂い」

「私には、わからないな」

「じゃあ、神父さんには神様が分からないんじゃない? 植村花菜に聞いてみたら?」


 聖水にさざ波が立つ。

 少女は笑った。


「……神はきっと、聖堂で豚骨ラーメンを振る舞った私を赦すでしょう。

 それが、あなたの身体を温めた愛です」


 神父の瞳にも、カラスが蠢く。

 少女のカラスがカァとないた。


「赦される事が愛?

 なら、扱いてあげるよ。神父さんの。

 それとも舐めた方がいい? 慣れてるよ、そんなの」


 窓越しに、カラスが覗く。

 電線が風に揺れている。


「……あたしさ、ほんとはさ……」


 少女がなにか言いかけて、口を閉じた。

 神父は待った。


「……ごめん、先にトイレ行ってくる。食べたら出したくなっちゃった。

 ……あと、トイレはマメに掃除した方が良いよ」


 そう言って、少女は立ち上がった。

 神父は苦笑しながら十字を切った。


 祈りの影が、立ち上った。

 マリア像は黙っていた。


 耳を塞ぐ。

 声にならない嗚咽が漏れる。


 水音が響いた気がした。

 窓辺のカラスが羽ばたく。

「すべては、そこに在る」……と。

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