朝倉の事件②
二、三日が過ぎて、左隣(すなわち奥から三軒目)の空き家に人が越して来た。優衣が学校に行っている間の事であった。
明らかにお隣で人の気配がする。だが、廊下に出ても全然見かけない。
どういう人が越して来たのだろう?
こういう古くて安いアパートだから、独り者も多く住んでいて、あまり交流もない。
相手によっては、下手に関わらない方が良い場合もあるのだ。
ところが週末、朝早くに優衣がゴミ出しに出た時、その人に会った。
その人はなんと、あの夜のセールスマンだった。
優衣は戸惑ったが、相手は微笑んで会釈した。
「先日、廊下でお会いした方ですよね。あの時は失礼しました。実は、あの時空き室があるのを知り、ここが気に入ったので思い切って越して来たのです。よろしくお願いします」と朝倉は言った。
優衣も「こちらこそ、よろしくお願いします」と会釈した。
「お隣に越してきた人、朝倉さんっていうのよね」
仕事から帰ってきた母が言った。
「昨日、パートの帰りに会ったわよ。健康器具の販売員なんですってね。優しそうな感じの良い人ね」
お母さんは、そう感じたんだ…。
優衣は、初めて会ったあの夜の得も言われぬ恐さ、不気味さを思い出した。
でも、お母さんが「感じの良い人」と言うのなら、きっとそうなのだろう…。
あの時だって、私の勘違いだったみたいだし…。
失礼な事思っちゃったのかな…。
優衣は心の中で反省した。
優衣が朝倉を、たまにしか見かけなかったのも無理はない。
もともと朝倉は実家で暮らしている。アパートは優衣にストーカーする目的で一時的に借りたものに過ぎなかったからだ。
安普請なので、隣の部屋の会話も耳をすませばある程度聞こえる。裏窓を開けて上半身を乗り出して左を覗けば、隣家の洗濯物も見える。
朝倉にとっては、この上ない好条件の場所なのだ。
しかし、痴漢兼ストーカーと化した男にとって、この程度ではやはり衝動は制御出来なかった。隣家の声を聞きながら部屋でじっとしていると、ムラムラを抑えることが困難になってきたのだ。
ターゲットはすぐ隣の部屋だし、母親は留守がちだし、犯行は比較的容易に思えた。
朝倉は慎重にプランを練り始めた。
ある夜の事、隣室から声が聞こえた。優衣が誰かと電話で話していた。
優衣にはSという彼氏がいるらしい。だが、最近Nという女が現れ、Sを横取りしようと企んでいる。優衣に隠れてNがSにちょっかいを出しているというのだ。
優衣は、かなりストレスを感じている様だった。
その週末、優衣は早朝のゴミ出し時に、また朝倉に出会った。
「おはようございます」優衣が挨拶した。
「おはようございます。早いですね。あっ、そうだ。山下さん、実は会社で新しく発売予定のものがあってね、もしよかったらモニターになってもらえませんか? 製品は差し上げますから」朝倉が言った。
「いいですよ。でも、何かしら?」
「ストレスボールというものです。後でお宅にお持ちしますよ」
朝倉は野球の球より少し大き目の、ゴム製のボールと、粉末のダイエットドリンク剤も「おまけ」に持ってきた。
「このドリンク剤、評判いいんですよ。飲むと腸の働きが俄然良くなって、痩せるだけじゃなくて、お肌も生き生きするんです」と朝倉は熱心に言った。
「女性の方に是非飲んでもらいたくって。もしよかったら、ちょっとキッチンをお借りして、飲み方のデモンストレーションをさせて下さいませんか。あっ、すみません。もちろん、もちろんです。警戒されるのは当然です。ただのお隣同士とはいえ、まだよく知り合ってもいない他人だし、男性を家に上げるのは気になるでしょうから。こんな、見ての通りの頼りないへなちょこおじさんでもね(笑)。だけど、ほんのちょっとの時間、玄関のドアを開けっぱなしにして、外から丸わかりの状態でキッチンを使わせてもらえさえすれば、魔法のドリンク(笑)の効能を知ってもらえるんです。気に入らない事があれば、ドアの外に向かって、私なんか蹴り出してくれていいんです。ちょっとでも不快な事があれば、すぐにでも。この点は私の方からも、ぜひお願いします。清廉潔白でなければ、毎日専業主婦や若い独身女性を相手にセールスなんて出来ないですからね。私は真面目だけが取り柄の仕事人間で、良いと思う製品を、多くの方に只々知っていただきたいと思って日々働いてきているんです。でも、それでも用心は大切ですから、ドアは全開で誰にでも見える状態にしておいてくださって結構です」
ここまで言われると、優衣も警戒心が緩んだ。
…あの夜は恐いと思ったけど、こうして見ると普通の優しそうなおじさんだ。多分、いつものストーカーとは別人だったんだろう。それに、お昼間に外のドアを開けっぱなしにして、ちょっと話を聞くだけだ。何かあれば、すぐに大声で叫べばいい。ご近所にすぐ聞こえるから、きっと誰か気づいてくれるはずだ。大家さんもいつも気にしてくれているし…。
優衣は朝倉を家にあげ、玄関のドアは開けっぱなしにした。
「この、反発力が従来のものと違うのです。中にシリコンが入っていて、エネルギーを吸収する力がすごいんです」朝倉は言った。
「へえ…。面白いですね」優衣はボールを握って言った。
重量感のある丸いボールに剽軽な顔のイラストがあって、握ると面白い変顔になる。
「辛い事、苦しい事なんかがあるとね、このボールにぶつけるんです。握りつぶしてもいいし、壁に投げつけてもいい。一瞬、グチャっと潰れた様になるけど、またすぐ元に戻ります。だから、何度でも当たり散らしてストレスを解消できるんです」
「わあ、楽しい。ありがとうございます」
優衣は、早速力いっぱい握り潰しながらお礼を言った。
それから二人でそれぞれ叫びながらストレスボールを壁に投げつけた。
「せっかくセールスに行っても、話も聞かずにドアをバンッと閉めやがって!」朝倉が叫んで投げた。
優衣はそれを聞いて吹き出しそうになりながら、
「S君の馬鹿!」と叫んで投げ付けた。
こんな事をしばらく続けて、二人は笑い合い、ダイエットドリンクを飲んだ。
それからどれだけ時間が経ったのか、優衣にはわからなかった。
何故なら、急に大変な睡魔に襲われ、朝倉のいる前で眠ってしまったからだ。
目覚めると朝倉は既に居なかった。
ドリンクを飲んだコップが洗ってあり、玄関のドアは閉められていた。
会社の名刺が一枚置いてあり、裏にメモで「眠られたので、私は部屋に戻ります。また今度、ドリンクの効果、ストレスボールの使い心地について、何でもいいので教えて下さい。よろしくお願いします」と記してあった。
優衣は、なんだか変な感じがした。体のあちこちがだるいような感じだった。だが、それが何なのかはわからなかった。
三週間程が経った。優衣は明らかに体調がおかしかった。そもそも、月経がやってこなかった。
それに、よくはわからないのだが、何だか朝倉が恐くなった。
あれから、外に出ても朝倉と顔を合わす事がなく三週間が経っているから、いい様なものの…。
たまたま会ってしまうのが恐い…。
優衣は不安な日々を送っていた。
直感とでも言おうか…。朝倉と接してはいけない、と自分の中の何かが警鐘を鳴らしていた。
優衣は親友の森川沙希に相談し、沙希が通っている柔道教室の美咲先生に相談したのだった。
「話はよくわかったわ。その男には、今後絶対に近づいちゃ駄目よ。それから、明日、うちの姉がやっている医院に行くといいわ。無料で調べてくれるように私から話しておくから」
かくして、山下優衣は(母親に内緒で)中村婦人科を訪れ、早期妊娠がわかり中絶したのだ。