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朝倉の事件①

朝倉義和は、健康器具の販売員である。真面目で優しい人という評判である。三十代半ばだが未だ独身で、両親と暮らしている。

両親ともに健在で、父親は六十四歳の今でも部長職で働いており、会社の定年延長制度を利用して七十歳まで仕事を続けるつもりでいる。

母親は専業主婦である。大変几帳面な性格で、家の中は塵一つなく掃除されていて、全てが常にあるべき場所に収まっていないと気が済まない。息子に対しては厳しい母であったが、同時に溺愛してもいた。

そんな母の影響もあってか、朝倉は典型的なマザコン体質の男性になってしまっていた。

生まれてこの方、正式なガールフレンドは出来た事がない。

当然、バレンタインデーの本命チョコは貰ったことがない。

クリスマスイブも毎年親と過ごしている。

彼女が欲しいという願望はあるが、どうしてもうまく行かなかった。

決して悪い風貌ではないが、マザコン体質が女性に敬遠されるのだ。

一度でもデートすれば、すぐにバレるほど分かり易いマザコンなのだ。

たとえば食事に行った際、「ママに教えてもらった店なんだ」などと、ついうっかり言ってしまう。

気を付けているつもりでも、言葉の端々に母親の影を感じさせてしまうのだ。

しかし長年の間に身についてしまった癖なので、朝倉本人もわかってはいたが、今更どうする事も出来なかった。

母との関わりが強すぎるために生じる、このような失敗の繰り返しで、女性と普通に付き合う事が段々不安になってきた。

見知らぬ女性と接する時、無意識に脳裏に浮かぶ母の影も気になったし、自身の言動に対する、相手の女性の受け答えや反応に、戸惑ったりもした。

しかし同時に、母以外の未知の女性と関わりたい、自分のものにしたい、という欲望のようなものも心底には潜んでいた。

このような心の状態を抱え、悶々とする日々が続いた。

そしていつしか、痴漢のような行為に走るようになっていた。

朝倉の標的は中高生の、比較的小柄で大人しそうな女子である。

健康器具の訪問セールスを行ったり、現物を購入者に届けた帰り、会社への途上で通りかかる中高一貫の女子校がある。丁度学校の下校時と重なることがあり、たまたま見かけた女学生の中から、扱いやすそうな少女を選りすぐり、後を付ける。

夕方、薄暗くなってきて、少女が友人達と別れて一人で家路につく頃、人気の無い通りに入った時が狙い目だ。

背後からそっと少女に近づき、いきなり抱きつくように腕を前にまわして、胸部を撫でまわす。

咄嗟の事に、驚きとショックで少女はなかなか声も出ない。

ようやく少女がショックから我に返り、声を出す力を取り戻した頃合いを見計らって、すかさず腕を引っ込め、後を向いて一目散に走って逃げるのだ。

少女は夕暮れの暗い通りで、やっとの思いで振り返り、走って逃げる後姿をかいま見る。

見ると言っても、角を曲がってすぐに犯行にあったので、犯人はすぐに元来た角を曲がって姿を消すのである。一瞬の事で、誰にやられたか、わかるはずもない。

朝倉は、上手い手を考えたものだと自画自賛した。

そして、しばらくはその手を使って、止むに止まれぬ病のような衝動を解き放ってきた。

しかし、次第に衝動はエスカレートし、それだけでは抑えきれなくなってきた。

物足りなくなってきたのだ。

そんな折、山下優衣に出会った。

山下優衣は、朝倉の会社の近くにある県立高校の一年生である。

美人だが静かでおとなしいタイプであった。

色白で伏し目がち、少し茶色くてウェーブのかかった髪をしていて、そこが何となく大人っぽく見えた。

まさに、朝倉の好みであった。

早速、朝倉はいつも通りの犯行に及んだ。犯行自体は上手く行った。

そこで自己制御して終わりにすれば良かったのだが、相手があまりにも自分の好みだったから、朝倉はまた彼女に会いたくなった。

そしてストーカー行為が始まったのだ。


美咲の柔道教室には中学生、高校生も通っている。夜のコースは午後六時~八時で、その後一時間程悩み相談室も設けている。ここ一ケ月程は背負い投げを教えている。痴漢は背後から近付いてくる事が多いから、そういう輩の腕をグッと掴み、「えいや!」と投げてやるのだ。

その後、腕を後ろに捻じ曲げて押さえつけ、スマホで警察を呼ぶところまで、美咲は手解きしていた。

本当に、痴漢をやる男は卑怯だ。おそらく男も、抵抗しなさそうな大人しい女性を物色し、狙いをつけてやってくるに違いない。卑怯者は自分より弱そうな相手を狙うのだ。

そうはさせるか!

「先生、実は友達が悩んでいる事があるんですが…。教室には通ってない子なんですけど、相談にのってもらっていいですか?」

森川沙希という女子高生が聞いた。

「もちろんよ。連れてきなさい。」


翌週、森川沙希は友人を連れて来た。山下優衣であった。山下優衣は母子家庭で、母は昼夜を問わずパートで働いているため、家では一人でいることが多かった。そんな彼女が卑劣な痴漢やストーカーに遭い、その後もおかしな事が続いているというのだ。


二ケ月ほど前、山下優衣は痴漢に遭った。

バイトを終えた夜九時頃、帰宅途中に何者かに、背後からいきなり抱きつかれ、胸元を撫でまわされた。

「きゃっ!」と叫ぼうとした瞬間、すぐに男は腕を引っ込め、背後に走って逃げたのだった。あっという間の出来事だった。

それからというもの、毎日ではないが、バイトなどで遅くなった日や、部活や、友達と寄り道をして遅くなった日など、夜九時を過ぎた帰宅時に、よく背後に不審な男性がつけてくるのを感じたのだった。

振り返ると、相手は自身の全体像が見えにくいように巧妙に距離を置いていた。まるで、優衣が近視で授業中だけ眼鏡をかけていて、普段は裸眼でいるため、一定の距離をあけると見えづらいのを知っているかのようだった。

勇気を出して振り返ったまま見ていると、ある時は偶然を装いながら速度を落とし、顔を隠すようにして暗い道路脇に寄り、住宅の庭木を眺めているふりをした。

またある時は、忘れ物をしたかのようにUターンして急ぎ足で戻っていった。

だが、その後優衣が歩きだすと、再び気配がして足音が聞こえてきた。

小走りに逃げると相手も速足でついてくるのだ。

その男は、地味で目立たない背広姿で、サラリーマン風であった。

街灯や明るい窓の外で、顔が照らされるのを避けるように、絶妙に距離を置いて付けてくる。

あの角を曲がると、高い塀が左右に立つ薄暗い裏通りだ。前に痴漢にあった場所だ。

優衣は恐くなって、角を曲がるや否や全力で走り出した。

アパートに着いて、横の電信柱につかまって息をついた。

振り返ると誰もいなかった。


ある日の下校後、友人と暫しの立ち話の後、岐路で別れて一人になり、人通りの少ない横道に曲ったあたりから、その足音はずっと背後に聞こえていた。

その足音や気配から、いつものストーカーだと思った。

優衣は気味が悪かったが、通常通りだと後をつけてくるだけだし、今夜も襲ってこない可能性が高いと思われたので、警戒しつつアパートに着いた。

いつもなら、ここまでくると背後の気配は消え、振り返っても誰もいないのだが、今回は違った。

自宅はアパートの二階なので外の階段を上るのだが、明らかに背後の人も階段を上がってくる。

しかも、かすかな足音で、いかにも人目を忍んでいるかのように慎重な上りかたで…

制服のスカート丈は、さほどミニにしてはいないが、なんとなく背後の男に覗きこまれていないか心配になった。でも、振り返る勇気が出なかった。

優衣は階段を上ると急いで、七軒あるうちの奥から二軒目の自宅の鍵を開け、部屋に入ろうとした。

その時、勇気を出して振り向いた。

すると、背後にいた人は突如、その場所で真横にあった部屋のチャイムを押した。その仕草はいささか迅速過ぎたが、スムーズで、不自然さはなかった。

その人物の見た目があまりにも普通っぽかったので、優衣はいささか拍子抜けしたくらいだった。

…なあんだ、矢野さん家に来た人だったんだ…

優衣はホッとして、部屋に入った。

声が聞こえる。

「こんばんは。健康器具の○○の、朝倉というものです…」

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