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時田の事件②

時田は暫し迷ったが、結局警察には行かなかったし、賠償金も支払わなかった。

自首する勇気は到底無かったし、お金を用意する手立ても無かった。

自分の身に起こった昨夜の出来事が、まるで夢物語のようで現実味がなかった事も、一因であった。


それから暫くは何事もなく過ぎた。

賠償金を用意して一週間後に指定の場所に行く、という事も事実上無視した形だが、別にそれから後も特に音沙汰無かった。

時田は次第にあの夜の出来事を忘れていった。

賠償金を記したメモも、とうにどこかに無くしてしまい、気にもかけなかった。

時田はいつのまにか、すっかり楽観的な気分になっていた。

あれが現実の出来事だったとしても、単なるいたずらだろう。まさか、何の資格も無いただの一般人が、「仕置き人」と称して刑罰を実行するだなんて。テレビの見過ぎだ。馬鹿馬鹿しい。

それに、かりに自分が警察に自首し、痴漢行為を自白したとしても、証拠不十分だし、こんな風に脅されての自首だという事を告げたとしても、笑われるだけだ。誰も信じまい。あまりにも荒唐無稽過ぎるだろう。


日が経って記憶も大分薄れてきた頃、時田は相変わらずフリーター生活を続け、お金もなくストレスの多い日々にうんざりしていた。

そんな中、またもや痴漢行為がしたくてたまらなくなってきた。

一応、あの夜の恐怖をすっかり忘れ去ったわけではなかったので、今日まで痴漢を行う事は差し控えていた。

だが時田は、一種の説明のつかない病に罹っていると言っても過言ではなかった。

もはや、痴漢を行わないと心の平静が保てない程であった。

…バレなければいいんだ。一回くらい、平気だろう。

時田は、通勤ラッシュの満員電車に乗りこみ、大人しそうな女子学生の背後に立った…


次の駅で、女子学生は真赤な顔で泣きそうになりながら、急いで電車を降りて走り去った。

別の出入り口から、ゆっくりと時田も下車し、女子学生とは反対方向の出口へと向かった。

とりあえず時田の内部に巣食うある種の衝動は若干静まったようだった。

だがまだ、心的な解放感には程遠かった。

それから一週間、時田は一日おきの間隔で満員電車に乗り込み、女生徒を選りすぐって背後に立ち、用心深く犯行に及んだ。

この秘かな試みは、いずれも成功したし、それなりのスリルと達成感があった。

だがどうしても、心の底に僅かながら不穏な気分が残った。

あの時の恐怖は大方薄れたが、まだ忘れたわけじゃない。

でも、恐る恐る痴漢を繰り返し、何の音沙汰もない日々が続いたことで、だんだん大胆にもなってきていた。

むしろ、あの時の恐怖が根底にある事で、スリルが増した気すらしていた。

やっぱり、前から狙っていたあの子に行かなければ、この気持ちは満たされない。

大丈夫だ。ずっとバレてない。

やっぱりあれは、単なるいたずらで、ちょっとした脅し程度のものに過ぎなかったんだ。

ならば、自分の心に巣食うモヤモヤを解消したところで、何の問題もなかろう。

そうと決まれば、一時(いっとき)も待ってはいられない。

「週に三回以下」とするルールには違反するが、先週まで長い間、何もしなかったのだから、その埋め合わせと思えばいいだろう。

今夜は少し雨模様だが…

時田は急ぎ足で反対ホームに行き逆方向の電車に乗り、自宅の最寄りの駅で下車し、目的地へと向かった。

しかし時田は目的地点に潜んでいる際中、まだターゲットの女性の姿が見えないうちに何者かに背後からうなじにスタンガンを押しつけられ、前回同様に連れ去られた。


時田の犯行が何故、比較的早くバレたのか…

それはつまり、中村美咲が非常に論理的な分析のもと、ごく一般的な痴漢犯罪者の心理と動向をつかんでいたからである。

美咲は大学時代、心理学と共に統計学も学んでいた。

心理的変化による行動と時間的経過を統計的に見ることで、平均的な人間がいつ、どんな状況で、どんな行動を取るか、おおよそ計算できた。

きちんと期日に慰謝料を払わない、自首しない犯罪者の場合、だいたい何日くらい経つと再犯に向かうのか。

過去三年間で、そのデータもある程度取っていたし、「そろそろかな」と思うタイミングで、夕方ごろから見張っていたら、大体二、三日の間に事は起きた。

人間の内面的な問題は、心的なものでも肉体的なものでも、肉体の構造が同じなら、分析の結果にさほどの誤差は生じないというのが、美咲の持論だった。分析において、もちろん、その人間の性格の違いは大きい。

臆病であればあるほど再犯までの期間は長いし、また病(と呼ぶべきかどうかは疑問だが)の重症度によっても違った。

美咲はX軸とY軸のマトリックスの表を作り、たくさんの事項を書き込めるカレンダーと並べて壁に貼っていた。

その表には犯罪者の名前と捕らえた月日があちこちに記されていて、短期で再犯するタイプか、長期でじっくり待つタイプかが一目瞭然になっていた。

その人物を見て、可能な範囲でプロフィールも調べ上げ、かつ被害者から聞いた内容を参考に、その性格、どのような頻度でどのくらいの期間、どんな風に行ってきたのか等を分析して判断し、表の適切な位置に置き、カレンダーの見張るべき日をチェックした。

美咲は分析力に長けていたし、何年にもわたって続けてきている事による勘も鋭かった。


時田は、大変な痛みに呻きながら目を覚ました。

白いタイル張りの狭い部屋の、堅い台の上に寝ていた。

下半身裸で、腰の辺りが包帯でぐるぐる巻かれている。

びっくりして起き上がろうとした。

だが、激痛が走り、起き上がれなかった。

その時、時田は自分の身に何が起きたのかを悟り、絶望し、再び意識を失った。


「ところで多嘉恵さん、前に言ってた痴漢の話、その後何か聞いてる?」

神原にとって、お喋りで世間話が好きな多嘉恵さんは、貴重な情報源の一つなのだ。

残念ながら、人付き合いが悪く部屋に引きこもりがちな芳田では、役に立たないらしい。

「それがね、最近さっぱり聞かないのよ。それどころか、最近怪しい男も減って、なんだかこの町も平和になってきたみたい」

「ふ~ん。なるほど」

神原の「なるほど」は、納得したというより、探偵としての推理や勘、ヒントをつかんだ時の口癖である。

それにしても、最近町が平和になってきたというなら結構な話だが、この場合の「なるほど」とはどういう意味だろう。

芳田は興味津々だった。

…どうせ聞いても教えてくれないだろうけど…。

前回の油っこいニンニクトマトパスタとは打って変わって、プロ級の出来栄えのペスカトーレをフォークに巻き付けながら、芳田はため息をついた。


それから数日が経った。

昼休憩にはまだ少し早い時間、トイレから出た芳田は冷蔵庫の炭酸飲料を飲もうとキッチンに入って行った。

勝手口のドアが開いている。なにやら外が騒々しい。

表に出てみると多嘉恵さんがお隣さんと話していた。

「多嘉恵さん、何かあった?」

「あ、芳田さん、大変よ。裏のアパートの人が自殺したらしいのよ」

「え! 本当?」

「前に痴漢の疑いで警察で取り調べを受けた時田っていう人よ」

一緒にいたお隣の佐田さんが言った。

「え? でもその人は誤認逮捕か何かで釈放された人だよね」

「そうそう」

「けどやっぱり、その事が原因なんじゃないの?」

井戸端会議は、なかなか終わりそうになかった。

仕事中の芳田は部屋に戻った。


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