時田の事件①
時田正夫は、痴漢常習犯である。卑怯で臆病者であるが、悪知恵が働き、勘は鋭い方である。
そのせいか、未だ一度も捕まったことはない。
…もっとも、一度だけ取り調べを受けたことはある。
それは、自分以外の痴漢が、たまたまタイミング悪く、同じような場所で同じような犯行に及んだ事で、その付近にいた自分にも容疑がかかってしまったのだ。
だが目撃者が現れ、お蔭で難を逃れることができたのだ。
時田には、自分だけのルールがあった。
すなわち、一度犯行に及んだターゲットにはなるべく近づかない。
犯行は必ず、週に三回以下とする。
同じ日に二度は行わない。
少しでも危険を感じたら、実行しない。
などである。
こうした用心深さが、時田がこれまで無事に社会生活を送られてきた理由であった。
五月中旬の静かな夜の事である。
新月で、生暖かい夜であった。
痴漢をはたらくには絶好の夜だった。
かねてから狙っていたターゲットに犯行に及ぶには、今日をおいてほかにない。
ターゲットは、夜九時四十三分着のバスを降りて、角を曲がり、この人気の無い薄暗い通りに入ってくるだろう。
時田は電信柱の影に隠れて待っていた。
待ち人は九時四十六分頃、通りの向こうから疲れた顔でうつむき加減にやってきた。
ところが犯行に及ぶほんの一、二秒前、ふいに背後から、何者かにスタンガンを突きつけられて、時田は身動きできなくなった。
そして即座に、手錠、目隠しをされ、猿ぐつわを嚙まされたうえ、車に乗せられて何処かへ運ばれた。
車内で麻酔薬を注射され、眠りに落ちた。
目が覚めると、見知らぬ部屋にいた。
背もたれが頭の位置まである背の高い椅子に、身動きできないようにぴったり縛りつけられていた。
首を曲げる事も、振り返る事も出来なかった。
見える範囲で目を動かしてみると、白いタイル張りの無機質な狭い部屋である。
目の前の壁に大きな模造紙が貼ってある。なにやらゴシック体の印字で長々と文章が記されている。
「お目覚めですか。時田さん」
背後から、変声機で声を変えた何者かが話しかけた。
「ここは何処だ。誰だ。何故こんな事をする」
「それを知りたければ、前に貼ってある紙の文章を読んで下さい」
「なに?」
「読まないと、いつまでもそのままだよ」
混乱しながら、時田は前に貼ってある文章を見た。
のろのろと、文章を読み始めた。
「痴漢の種類と、罰則…
1、痴漢行為、複数回。
罰則、『恥』の文字を臀部に焼き印。
2、痴漢行為、数えきれないくらい、ストーカー、レイプ。
罰則、去勢。
なお、自身の罪を認め、
一、直ちに警察に自首し、包み隠さず犯行を自白し、その後二度と犯行に及ぶ事無く真正直に生き、社会貢献すること、
二、被害者への慰謝料(賠償金)相当額(当方が知り得る範囲で計算)
痴漢 一回 十万円
数えきれない場合は、当方の多少緩やかな暫定に基づいた額とする、
ストーカー 一回 百万円、
レイプ 一回 一千万円
を支払うこと(支払方法は別途知らせる)。
三、その後二度と被害者の前に姿を現さないこと
の三点を実行するならば、焼き印、去勢の罰則は一回限り免除とする…」
「さあ、時田さん、どうしますか? あなたの場合、2の『痴漢行為数えきれないくらい』に該当すると思うのですが」
「馬鹿を言うな。何の証拠があってそんな。誰か、誰か助けてくれ!」
「叫んでも無駄ですよ。ここは、防音が施された密室ですから。それに、卑劣な犯行を重ねてきたあなたを、一体誰が助けてくれるっていうんです? 証拠? そんなものは必要ありません。当方は警察でも裁判所でもありませんから。あくまでも善意の仕置き人に過ぎないんですから」
「なら、警察に被害届を出してやる」
「それもいいですね。それであなたは、いろいろ尋問されて、自分の罪も自白せざるを得なくなるし、結構大きなニュースにもなる。あなたは猟奇的犯罪の被害者であると同時に、痴漢犯罪者としても有名になる。あなたは世間の好奇の目にさらされることになるんですよ。今後の人生、大変ですね。それに、当方は絶対に捕まらない自信がある。愉快じゃないですか。でも、時田さん。そんな先のことよりも、まずは今のあなたの立場を考えて下さい。このままだと、あなたはこれからすぐに『去勢の刑』に処せられるんですよ」
「嫌だ~! 助けてくれ!」
「時田さん。あなた、意外と物分かり悪いですね。紙の末尾に記されているではありませんか。どうすれば助かるのか」
「わかった。わかった。警察に自首する。金も払う。だから助けてくれ」
「わかりました。ですが、このチャンスは一回きりですよ。約束が実行されなかったり、再度の犯行が見つかった場合には、釈明の余地はありませんからね。直ちに刑が執行されますから」
時田は背後から目隠しをされ、再び麻酔薬を注射され意識を失った。
深夜の冷気の中、気が付けば連れ去られた現場近くの公園のベンチに横たわっていた。
ズボンの前の右ポケットに小さなメモが入っていて、活字で罰金の額(現金払い)と受け渡し手段として、スタンガンで襲われた場所に、現金を入れ「慰謝料」と表に書いた茶封筒を用意して、一週間後の同じ時間に待っているように、と記されていた。
そこには、被害者達への慰謝料(賠償金)として、暫定金額千五百万円(三年前から、週一回の犯行として計算)と記されていた。
時田は到底支払えないほどの巨額の罰金のメモを見て、信じられずキツネにつままれたように感じ、ぼんやりと宙を見つめた。