第十六章 キオウコウジンとカルディアの禁忌
ヨモツヘグイ
キラゴ・カシナラ編
第十六章 キオウコウジンとカルディアの禁忌
龍の巣に現れた巨大な狼はキラゴの騎士とジウラ兵両陣営に恐怖を業火に炙られたが如く滾らせた。それは呪詛リアクの熟した蜜を凌駕する恐怖であり、その場にいる全ての者がその禍々しい神から目を離すことが出来ずにいた。
リュクノースの幻影は深く澱んだ目で周囲を睨みつけながら、血を吹き出しながら顎を動かした。骨が細枝を折る程度の間隔で何度も音を鳴らす。粉々に擦り潰された肉片と骨は薄れゆくリュクノースの喉元で宙を流れるように浮かんでいる。やがてリュクノースの幻影が完全に姿を消すとテレスの体は地面に落下した。
「…」
テレスはヒュエイの怒号を聞き、死の間際唯彼女を見つめ安堵していた。
***
テレスの死はヒュエイを憤怒させる。それは敵に対しての怒りだけでは無く肝心な時にその場に居れなかった自分への怒りが強かった。
「お前かああ!」
ヒュエイは拳で吹き飛ばしたアガス目掛けナイフを抜き飛び掛かった。その殺意を弾くが如くリュクノースの息吹きがヒュエイを直撃し、ヒュエイの体は酷い凍傷に覆われた。
「痛てーなこの野郎!」
ヒュエイは自身の体の危機的状況など何とも思わずに怒り散らかし続け、アガスに対し獣の咆哮のそれに近い怒号を放ち続けた。
「五月蠅い女だな、戦場で友が死ぬなど当たり前のことであろう。貴様それでもキラゴの騎士か?まるで童の喧嘩のようではないか」
アガスは顔面から湯気を立たせヒュエイに殴られた傷を癒し終えていた。
「ああ?」
「まあいい、それよりお前その体では動けまい。張り切るのはいいが唯恥ずかしいだけだ」
ヒュエイは体に染み渡る痛みを怒りで我を忘れて感じとることが出来ていなかった。彼女は指一本でも動かせば折れてしまうのではないかと思える程の凍傷を負っていた。
「恥ずかしい?こちとらお前の無知の方が恥ずかしいね。これが何だってんだい」
「なら死ねば良い」
アガスはロゴアを握りしめると体を慣らすようにヒュエイへと間合いを詰めた。その悠長な歩みを見たヒュエイは口角を少し上げ左手を額に当てた。
「阿呆」
ヒュエイは左手を顔面をなぞるように下ろすとヒュエイの顔面に奇妙な入れ墨を施したような化粧が現れた。
「…!?」
アガスはそれを目にしてキラゴの騎士のデビルフェイスの名を思い出し、同時に恐怖が全身を駆け巡るのを感じた。
「お前なのか?」
そう言い終えるとアガスの足は衝撃に耐える為仰け反る上半身を抑えていた。アガスの額に二本のナイフが突き刺さり肩にはヒュエイの全体重が圧し掛かっている。ヒュエイはアガスの顔面を捉え両足でそのままアガスを吹き飛ばした。それは一瞬であり、人間の俊敏性を凌駕していた。
衝撃音が遅れを取ると衝撃波が戦場を走り抜けた。リュクノースの幻影を間の当たりにした兵士達は意気消沈していた抜け殻のような体に息を吹き返すと目の前の敵に襲い掛かった。まるで時間が止まっていたかのように戦場は再び血の狂乱に包まれた。
「どうしたあ!お前も私と同じなのだろう!さっさと立ち上がって来いよ!」
ヒュエイがそう罵るとアガスは顔面から血で滲んだ煙を吹き出しながら大きく口を開いた。
「があああああ!」
アガスはロゴアを大きく薙ぎ払うと血走った目でヒュエイを睨む。その目には刻印が燃えるように映し出されていた。その瞬間、戦場に黒爪の刻印が無数に飛び散るそんな感覚を全ての兵士が感じ取った。危機感を感じたキラゴの騎士はアガスを横目に捉えて距離を取る者、身構える者、目の前の敵を盾にする者などが現れる。呪詛使いとの戦闘のノウハウはキラゴの騎士なら当然鍛錬を積む。しかし、実践経験を積む者は殆どいない。しかし、彼等は一度二度の経験で呪詛への対処を心得はじめていた。
脳を損傷したせいかアガスは獣のように涎を垂らし、ロゴアを狂ったように振り回す。そしてどす黒い爪跡が周囲に無数に放たれた。
「おおっと!怒ったのか?なら、頭でも冷やしやがれ」
ヒュエイは斬撃を全て反射神経のみで躱しアガスとの間合いを詰めた。アガスがその動きを目で追いロゴアをヒュエイに叩きつけると、ヒュエイはロゴアが振り下ろされる前にアガスを睨みつけた。
「じゃかあしいわ!」
身を回転したヒュエイは回し蹴りをアガスの腹目掛け喰らわす。アガスは吐しゃ物と吐血を同時に撒き散らすとその身を海岸を通り越し海上に投げ出した。その体は水切りのように三度海面に叩きつけるとアガスの体を海底へと沈めた。
周りのキラゴの騎士はリュクノースの黒爪をしのぎ切ると目の前にジウラ兵が殆ど肉片へと姿を変えているのを目にした。
「雑魚が、あんた達!キラゴの勝利だ!」
ヒュエイが勝鬨を上げると戦場のキラゴの騎士が雄たけびを上げた。しかし、一人のジウラ兵が深手を負いつつもその光景を正気を失った目で嘲笑った。
「殺す、一人残らず殺す」
ロイ・キウスは左手に施された呪詛の刻印を強く思念した。その瞬間ロイの体は凍てつき脳裏には先程見えた雪原の影リュクノースが映し出された。
「あははははは!」
ロイの狂った笑い声と共にロイの背後の海底からアガスを乗せたリュクノースの頭部が現れた。その後ロイの体は二倍、三倍に膨れ上がり体中から鋭い銀色の体毛が皮膚を突き破るように覆いつくし始めた。アガスが海岸に足を下ろすとリュクノースの幻影は巨大な爪をキラゴの騎士達目掛け振り下ろし、恐怖の象徴ともいえる口内からはこの世を終焉させるが如く凍てつく吹雪を撒き散らした。キラゴの騎士は成すすべなく気付く頃にはほぼ全滅に近い状態に陥っていた。しかし、それはヒュエイを除いてである。ヒュエイは震えながらもリュクノースの幻影が消えるのを睨みつけていた。
アガスは体中から煙を立たせつつ、以外なことに斑馬の剣ロゴアをロイに手渡した。
「吸え」
ロイはロゴアを受け取ると混沌の坩堝を這い上がる血の塊のような物が体に入り込む快感を覚えた。
「お前はリュクノースの眷属となった。命に渇きそれを求め続けるだろう」
ロイは鋭い爪が狂気をそそる獣の掌を唖然と見つめ、ふと目の前のキラゴの騎士ヒュエイに目を移した。そのヒュエイも目の前の巨体の獣人を睨みつけていた。そう、ロイ・キウスの体は人間のそれでは無く、闘争を体現したが如く獣の体に近いものになっていた。
***
呪詛カルディアの禁忌、それは雪原の覇者フォティノースが禁忌としリュクノースが盗み出した呪詛の一つである。この呪詛は他種族をカルディアの狂獣に変え強靭な身体と底なしの狂気を与えるものである。その術者は一生解呪叶わず元の体に戻ることは無く14日持たずで命を終える。