明け方の夢 8
「クソッ!!」
カミーリアはジェスタフを恨みがましく睨むが、彼を襲うのでなくカウンター上から跳躍すると、両手から空気を噴射し矢の如き速さで千明が落ちた穴に突っ込み、自らもまた寒空へ飛び出した。
「お前ェェッ!! よくも!!」
「そう焦るな若造」
ジェスタフは青筋立て怒る流琴の力任せな一撃を肘先で軽く軌道をずらすと、彼のがら空きの胸倉を鷲掴んで顔を窓と接吻させた。
「いい機会だお前も見ておけ。我が国が湯水のように金を使って開発した生体兵器ナルシェーニエの力がどんなものか。まぁ言うて俺も久々に見るがね」
***
「う……え……?」
まるで自分が高い場所から真っ逆さまに落ちていくような感覚で千明は目覚めた。冷気と風の音に身を震わせ、目を開けると豆粒ほどの車がどんどん大きくなっているのがよく見える。
真下には帝都ホテルご自慢の温室植物園の円形のドームが、まるで大口を開けた鯉のように落下する千明を待ち構えている。
「はー……すっげーリアルな夢。今なら空飛べそう」
今のこの状況が現実だとは夢にも思わず、呑気に空中でクロールの動きをしていると、頭上からカミーリアの叫び声が聞こえてきた。
「チアキ!!」
「あ、カミーリアまで出てきた。寒くないの? 半袖短パンじゃん」
後から落ちてきたのにも関わらずすぐに彼女の追いつくと、離れないように千明のダッフルコートのフードを掴んで背中に張り付いた。
「おい! 絶対暴れるなよ! 地上に叩きつけられる前に何とかする!!」
「ほーいがんばってね」
「お前随分余裕だな!!」
「は? 余裕……?」
あくまで今自分は微睡む夢の中にいると疑わない千明だったが、次第に耳鳴りや凄まじい頭痛を覚え始め、おかしいな。夢の中に痛覚はないんじゃないのと不思議がった。
「ねぇもしかしてこれ、ガチのマジで私今絶賛落下中?」
「……そうだ」
「へー……」
「……」
落ちていくまでのほんの1秒にも満たない時間が、今はカップ麺の3分間のように異様に長く感じられた。
「ギャァァァアァァァァア!! やだやだやだ何で何で!? 私こんなところで死んでいい人材じゃないのにぃぃぃぃうわぁぁぁーっ!! いやだああああああぁぁぁ!!」
そうして千明は現実を直視した瞬間に目を背け出し、半狂乱に泣き叫びながら暴れて空中でカミーリアを振り回した。
「だっから暴れるな! 俺まで死ぬだろうが!! もがっ」
どうせ死ぬならと言わんばかりに千明はカミーリアの唇を強引に奪って舌をねじ込んだが、当然抵抗されてすぐさまカミーリアの頭突きを食らう。
そうこうしてる間に5階を2人は通り過ぎ、僅か数秒でトマトの水煮のようになるのは必至だった。
「離せ! いや……これでいい。俺をこのまま下にしたままにしろ。そうすれば助かるから。な? ね?」
カミーリアが千明の鼻水塗れに顔を両手で挟んで穏やかに語りかけると、千明はうんうんと泣きながら何度も頷いた。これではどちらが子どもか分からない。
3階通過。
もう地面の石畳の色合いがくっきりと見えるし、鉄骨剥き出しのガラス屋根に刻まれたBOTANICAL GARDENの塗装の剥げ具合まで分かる。
できるのか? 俺とチアキの落下の衝撃を相殺できるほどの空気圧となると下の建物はいわずもがなここら近辺もただでは済まない。何よりこの俺自身も。
そんな大規模な空気噴射は、薬物投与を経ていたとしてもほとんど経験がない。ましてやかなり弱体化している今のコンディションでやったら臓器が摩擦熱で出血、最悪破裂しかねない。 そうなったら俺の回復力でも死ぬかもしれない。
「ま、そこまで悪い死に方じゃないか」
「え?」
千明はその時、自嘲気味ではあるものの初めてカミーリアの笑顔を見た。彼女が何かを語りかけようとした時。
突然風の音も自分の声も何も聞こえなくなった。鼓膜が破れたのかなと思っていると、いよいよ自分の身体が植物園に突っ込む瞬間が来た。恐怖の中、彼女はぐっと目を閉じると、せめて一瞬の苦しみもなく死ねることを願った。
聞こえていないがぱりんと軽い音がしてガラスが砕け、2人の身体はするりと園内へ入っていく。
きっと今ので死ぬかと思ったのにと千明が安堵と落胆の両方を抱いていると、周りの熱帯植物が波打つように千切れていき、次は建物が粉々に弾け飛んだ。
「おお……すごい」
上層からそれを見ていたジェスタフが思わず感嘆の声を漏らす。
弾丸の中には着弾すると、弾頭がマッシュルーム状に膨れ上がって人体に裂傷を負わせるものがある。今の植物園が破裂する過程はそれと酷似していた。違うのは火花がほとんど立たないことだ。
渦を描いて2人を包む植物片や建物の残骸の塵が視界を暗く埋め尽くし、おまけに何も聞こえないので今自分が宇宙にいると思っていた。
外に飛び出した瓦礫の数々は竜巻となって四方の看板や塀にぶつかり、それが瓦礫が瓦礫を産み出していき、報復の連鎖のように繰り返されては辺りを飲み込んで破壊していく。
空気圧も以前藤岡を追い出した時よりも遥かに威力を増しており、土煙ではっきりとそれらの動きが分かると同時に過ぎた箇所、例えばアスファルトの道路を舐めるように抉って地表を露にしていく。
無論、そのアスファルトも砕けて吹き飛び、近くの自動車を手当たり次第に潰して車は自販機を次々倒していき、中身のアルミ缶が飛び出してジュースは空中を舞うと、それすらも高圧洗浄よろしくガードレールに穴を穿つ。
どんなに価値があるものだろうと、どんなに雑多なものだろうと見境なく壊せるもの全てを壊しては引っ搔き回して荒らしていく様は、究極の平等とすら思えた。
やがて範囲はホテル周辺に留まらず、近くの銀行やらマンションやら無関係の建物も倒壊させていく。帝都ホテルも少しずつ傾いていくのが感じられた。何もしていないのに2人が観覧する窓ガラスの亀裂も広がっていく。
「おい止めさせろ! ここが倒れたらお前だって死ぬぞ!」
流琴が慌ててジェスタフに静止を求めるが、彼は首をふるふる振った。
「正論だが、それができたら苦労しない。このホテルの耐震構造に期待するしかないな。だが、しかしすごい光景だ。これぞ正しく鉄の暴風だな」
そう言って、興味より畏怖の方が自分の中で勝っていくのを確かめながら下の狂乱が収まるのを見守った。まさかこれマチリークまで届くとかないよな?
しかし、すでに大惨事ではあるがそこまでにはならず、東京全てを飲み込まんばかりだった渦は少しずつ小さくなっていった。
というより、空気が全てを放置してカミーリアのいた位置に引き返していくように見える。これがカミーリアが疲弊したからなのか、または意思なのかは定かではない。
しかし、肝心の2人がどうなったかは埃がひどくて全く見えない。
見渡す限りというほどではなかったが、下の景色は数分前とはすっかり変わり果てている。
道路はその面影を僅かに残すばかりで車の走行など望むべくもないし、街灯で真昼のように明るかったのに、今は夜本来の姿を取り戻している。何より空爆でもあったかのような瓦礫の数々には目も当てられない。
「さて、こっちはどうする?」
ジェスタフは押さえつけていた流琴を投げ飛ばす。傾いているせいで棚の酒が何本か落ちて割れた。
「決まってんだろ。お前は娘を殺そうとした。その返しをする」
「なるほど。お前は生きてると思うのか? 俺は死んでるに5000円賭ける」
「俺はカミーリアを信じることにした」
流琴は唇を舐めて濡らすと、目を閉じて今の怒りや当惑を心の隅へと追いやった。不思議なことに、ジェスタフも似たようなことをやった。
「そうか。それはそうとお前名前は? 俺の名前はアンドレイ・ジェスタフ。知ってるだろうがな。そのルキンってのは偽名だろ」
ジェスタタフはそう言って足元に散乱するガラスの破片を拾うと、それで柳葉刀の試し切りをした。流琴は黙っていようかと思ったが、ある意味でこの男になら打ち明けてもいいと感じた。
「アレクセイだ」
それを聞いてジェスタフはどこか嬉しそうに微かに口角を上げると、走り柳葉刀を振り上げて流琴へと挑みかかった。
***
いわゆるクレーターの中心で折り重なって倒れていたカミーリアと千明は覆い被さる彼女の下で意識を取り戻した。
「う……何とか命は助かったか」
カミーリアは残していた僅かな力で周りの土砂や塵を跳ね除けると、千明の下から這いずり出た。
多分あれが制御できる限界だった。あれ以上やったら俺は死んで力だけが独り歩きしていた。でも、12階からの落下の衝撃を緩和するにはここまでやらなきゃダメだった。
「チアキ……?」
彼は千明を仰向けに起こすと、微動だにしない頭を揺さぶった。体中ひどく汚れていたが、咳き込んで口から泥と葉っぱを吐いたので胸を撫で下ろした。
「あう……なんで、わた……し生きて、だ……?」
「俺が助けた」
するといきなり首筋を何か冷たいものが撫で、反射的にカミーリアは振り返った。釣られて手の甲で顔を拭う千明も同じ方向を見る。
「やっべ……」
水道管が破裂して数か所から水が噴き出ている。今首を撫でたのはその水煙だった。
土を水を吸うがそれにも限界がある。すでに地面が少しぬかるんでいるし、このままでは出られないどころか2人仲良く生き埋めになってしまう。
「すぐ出よう……」
カミーリアが千明の腕を掴んで立ち上がったその時、彼は激しく吐血した。
「カミーリア……!?」
どす黒く粘液質な自分の血を両手の杯に溜め、それをカミーリアはぼぅっと虚ろに見つめていたかと思うと、足腰の力が抜けてその場にへたり込んだ。
「やっぱり……む、ちゃしすぎたか……」
よく分からないが、一番多く空気を貯められる肺が破裂して横隔膜も損傷したらしく、うまく息が吸えない。それなのに血を吐くので余計に苦しい。
その気になれば海中でも5時間は活動できる俺の死因が窒息か……。だが、戦場でこき使われて死ぬより、誰かを守って死ぬ方が100倍いい。
千明は何かを叫んでいたが、それはカミーリアの耳には届かず、彼は心身ともに泥の中に沈んでいった。




