今日も今日とて、二度目の選択肢。
「私は天下のセレスティア・ヴァニラ……!絶対に泣いてはいけないのよ……!」
そう言い聞かせて自らの両頬を叩くと、乾いた痛みが広がった。
最初の選択をしてから二十分程だろうか。
私の不安を煽るかのような夜風の音に惑わされてたまるか、と両頬を叩き続けた。
お陰で何もしなくても空気に触れると痛む。
天下のセレスティア・ヴァニラが頬パンパンでもええんかい、というツッコミはどうか心の内に閉まっておいて欲しい。
段々と視界がモヤがかかったように白くなる。
私の目線の先には霧のようなものが漂っていた。
薄暗い夜の不安感よりも、キールはきちんと家路に着いたのか、それだけが重要だった。
何より、私が彼の元を去る瞬間の彼の表情。
それは今まで一度たりとも見たことがないものだった。
『運命がキミとオレとの間を割くなら、いっそ二人だけの世界に行こうよ。……セッちゃん』
それは何かを諦めたような、失望したような眼をしていた。
いつの日かレオにも、『二人ぼっちの世界』を提案されたことがあったわね。
なんて、明後日の方を見ながら考える。
その時のレオの瞳は、キールと似たような言葉なのに、何かが違った。
今思い返すとあれは、諦めとは違った感情のようだった気がする。
あれは、もっと悦びに溢れた━━━━━━。
ぐしゃり。考えに耽っていると、私の泥だらけの素足が何かを踏んだ感覚がした。
私の頭には『む』から始まって『し』で終わるあの生物が浮かんだ。
恐る恐る目線を下に向け片脚を上げる。
そこには……小さくて白い、霞草の花々が咲き乱れていた。
私が踏んだ辺りからずっと先まで、一面が白い絨毯のように染まっていた。
先程霧と勘違いしたのは、霞草だったのね。
とにかくアレじゃなくて良かったわ。アレだったら踏んでしまった絶望的で一層泣きたくなっていただろう。
いつの日かアレが服の中に入ってしまった時があったのだが、それはもう地獄だった。
できる限り平静を装うとしたが、やはり無理で。私は何とか出ていって貰おうと滑稽に身を捩っていたっけなあ。
それを見たメイドの一人が何を勘違いしたのか、『そろそろ病院に……』とメイド長に相談していたのをはっきりと覚えている。
アレは危害を加えない分には良いのだが、山道のアレともなると街のアレより生命力が高そうで恐い。
脳内でアレアレ呟いていると、『自分は今、夜の山道に独りきり』なのだと実感してまた怖くなる。
私はキールをその怖い山に私が来るまでずっと待たせてしまったのね。
私はしゃがみこんで、ついさっき自分が踏み潰してしまった今はもう萎んでしまった霞草を撫でた。
私は今世で上手く生きているのかな。
ひょっとしたらこの霞草のように、息絶える寸前で生きているのかもしれない。
前世では、自分の気持ちは後回しで生きていた。
傍から見れば霧のような霞草の中のひとつの花。けれど生きていたのだ、懸命に。
私はもう一度それの花弁を撫でる。そしてもう一度自分の頬を叩いた。
もう叩かれ慣れてしまったそれは、微かに熱を持って私に生きている実感を持たせた。
「ウジウジ悩んでいてはダメよ、私!次の目的地まであと少しなんだから!」
今度は爪先立ちをして歩みだす。脹脛の筋肉が引き攣るように痛いけれど、何となくそうしたかった。
もう一度地図を見ると、目視で予測する限りもう数十メートルもすれば辿り着きそうだ。
私がまた歩み出すと、一面の白の中に暗闇の中でも一際目立つ赤が目に飛び込んだ。
月夜に照らされ存在感を放つその赤。
ぼやけた眼を擦って凝視してみる。そのギラギラと輝く紅い二つの光は、私を捉えた。
瞬間、風が吹く。
それは夜風ではない。紅色の正体が私の方へ飛び込んだのだ。
驚いて声も出すことが出来ずに、私はそれに押し倒される━━━━━━が、霞草がクッション代わりとなって柔らかな感覚が私の身体を包んだ。衝撃で散らされた霞草の花々が空中に舞う。
夜闇の中じっくりと目を凝らしてその正体を突き止める前に、それは私の鼻腔をふわりと擽った。
「……っ!ティア!やっと、やっとお前に会えた……!」
低く伸びやかな声。けれどどこか子供のような荒い口調。鮮血のように紅い髪と瞳。
そして何より、幼い頃から嗅ぎ慣れた爽やかさの中にどこか色気を併せ持つ匂い。
私は脳みそより先に、耳で、鼻で、体温で。
正体があの幼馴染だと気付いた。
そう。数ヶ月前私と王宮から脱出したアレン・ルーデンスだ。
様々な疑問が心中では暴れているが、先ずは淑女として押し倒されているこの状況をどうにかする方が先だと、どこか冷静な頭で考えた。
「アレン、一旦引いて貰えるかしら?話はそれからにしましょう」
私はへらりと笑って、がっちりと身体中を締め付けるように覆いかぶさった幼馴染を窘めた。
体格の良い男に全体重を掛けられても平気な程、私の筋肉は未だ発達していない。
まあ、いつかはその辺りの境地に行きたいとは考えているけれど。
なんて考えながら彼の両肩を揺する。
すると漸く彼は私の存在を確かめるようにもう一度強く抱き締め、ゆっくりと此方に顔を向けた。
「━━━━━━誰に泣かされた?」
「……え?」
アレンの指が私の輪郭を撫でる。その手つきとは裏腹に、その声は怒り心頭に満ちていた。
そこで漸く、私は自分の目から涙が一筋零れていることに気が付いた。
慌てて自身の指で拭ってみると、それに生暖かい水が染み込む。
アレンは眉を釣り上げて眉間に皺を寄せてそれを見つめている。
「アイツか?」
アレンはそう、小さく呟いた。
いつの日かは、アレンの『アイツ』という言葉が誰を指しているのか分からなかった。
けれど今は分かる。きっと、レオのことだろうと。
「……違うわ。ただアレンの顔を見たら気張っていた身体が緩んじゃったみたい」
わざと話題を逸らしたが、それは本当のことだ。私は無理に笑顔を作って、幼馴染と目を合わせた。
けれどアレンの瞳は未だ怒りに染まっている。
「ティア、恐がりだろ。アイツは……そんなお前をこんな暗闇の山に放置してんだ」
「大丈夫よ。私は自分の意思でここにいるの」
私は自身がそうされているように、彼の右頬を軽く撫でた。
いつもならこれで大抵のことは水に流せるというのに、どうも今日の彼は一筋縄ではいかないらしい。
けれど彼のこの難解さは、全て友達である私の為だと知っている。
私はわしゃわしゃと大袈裟に彼の髪を撫で回した。
「ほらほら、退いて頂戴」
「……それ、ズルいだろ」
アレンはそう言って、目線を違う方向へ向ける。そして渋々と立ち上がった。
私も腰を摩りながら立ち上がると、アレンは何かを思い出したようにポケットの中をまさぐった。
「ティアが腹を空かせてんじゃねえかと思って……ほらよ」
「ストロベリーチョコ?昔はいつもメイド達の目を盗んで、こっそり食べていたわよね」
アレンが私の手に置いたチョコは、幼少期に私たちがよく食べていたものだった。
食べすぎて虫歯になるのでは、と心配した両家のメイドにチョコ禁止令を出されたっけ。
まあ、私とアレンがそれで諦める訳もないのだが。
二人だけの秘密のアレンの部屋への通路の中で泥棒のようにコソコソ食べていた。
「結局、二人とも虫歯になってメイド達に気付かれて……。本格的に隠されたのよね」
「ティアが食べたい食べたいって煩いから、仕方なく付き合ってやってたんだよな」
「……アレンの方が必死になって食べていた癖に」
「はあ?!何言ってんだよ」
そんな風に笑いあって、私達腰を下ろしチョコを食べた。チョコの中からストロベリーソースがとろりと出てきて、悴んだ身体に幸福をもたらす。
アレンの不器用な優しさが伝わって、何だか擽ったい。
……学園に入学してからは、アレンと以前のようにこうやってお菓子を食べることなんてなかった。
久しぶりにこんなにたわいも無い話をした気がする。最近はそんな暇もなかった。
「ねえ、アレン」
「何だよ、要らねえなら俺が食べるけど」
「……私の所為で監獄で辛い目に合わせてしまって、本当に御免なさい」
そう謝ると、何だか辛かった記憶が呼び起こされたようにまた視界が涙で滲んだ。
アレンの表情は涙でぼやけて分からない。
「ばーか。そんな事気にする程ヤワな男じゃねえよ」
「……ありがとう」
「気付いたら実家のベッドで寝ちまっててよ。ティアは血眼になって探したのにいねえし。心配なんてものじゃ足りねえくらい心配してたんだぜ」
「こんな事にも巻き込んじゃって……御免なさい」
アレンは溜息を吐いて、私の鼻をむぎゅっと摘んだ。
そして悪戯げに笑う。
「『御免なさい』は禁止な。トモダチを守って助けるのな当たり前だろ?」
「アレン……!」
今、ヒロインがアレンに惚れる理由も初めて分かった気がする。
私は思春期の息子から、今までの感謝の手紙を読まれたくらいには感動してしまった。
いつの間にか溢れそうだった涙も引っ込み、私は今の状況を今一度思い直した。
「そうだった……どうしてここにアレンがいるの?!」
「……あのクソ野郎から『招待状』を受け取ったんだよ。アイツから施しを受けるなんて真っ平御免だったけど、ティアの為だからな」
頭に手を置いて叫ぶ私に、アレンは順を追って説明してくれた。大体の流れはキールと同じね。
どうやらこの『ゲーム』に出てくる『お題』のようなものは全て私に関係している人らしい。
未だに全くレオの意図が読めない。するとアレンが私の目の前に自身の顔を突き出した。
「なあ、俺の顔ってどうだ?」
「……顔?」
唐突にアレンがそんなことを言うものだから、私はついオウム返ししてしまった。
顔?私の上に乗っかっていたから霞草も泥も着いていないし、別に肌も荒れていないし窶れてもいない。何時ものアレンだ。
「大丈夫、いつも通りよ」
「違う、なんかこう……顔の格好良さだよ」
アレン、遂に頭を打ってしまったのか。
私の訝しげな目線に耐えきれなくなったのか、アレンは「いいから答えろ!」と返答を急かした。私は必死に回答を絞り出す。
「顔は……良いと思うわ。学園の女子生徒から数多くの人気を得ていたし」
「そ、そうかよ。じゃあ家柄はどうだ?」
「質問するまでもないわね。ルーデンス家を知らない人なんて居ないわよ」
「だよな。知ってる」
顔や家柄を尋ねられても、私はあくまで一般論しか答えることが出来ない。
初めて会ったときは幼いながらイケメンだと感じたが、この子供のような性格のお陰で今では大型犬のようにしか見えない。
女生徒人気はゲーム本編とは打って変わって、大々的なものではなくひっそりと人気を博していた(らしい)。
「じゃあ次、性格はどうだ?」
「えっと……悪くはないんじゃないかしら。良い意味でも悪い意味でも幼いし。けれどやる時はやるしね」
「まあ、トーゼンだよな」
自分から尋ねておいて、何だか上から目線な姿勢にイラッとしなくもない。けれど私はアレンより精神面が大人なので何も言わないでおこう。
するとアレンは突然得意げになって、私の髪をひと房手に取った。
そしてそれを自身の口元に持って行き、優しく口付ける。
私はギョッとして自身の髪とアレンを何度も見直した。まさかアレンがナルシストまがいのようになるなんて……。監獄での怪我の打ちどころが悪かったのかしら。
「……え。本当にどうしちゃったの?」
「そんな俺が一生一緒に居て、喜ばない人間なんていないよな」
「さ、さあ。分からないわ」
はぐらかして答える私に苛立ったのか、アレンは突然に空いた片手で私の腰を引き寄せた。
まるで悪戯が成功したように得意げに笑う。
「お前のたった一人のトモダチが俺なら、俺の唯一もティアにやるよ。あのクソ野郎にも他の人間にも奪われないように、一生守ってやっからさ」
そう言って微笑み、彼はほんのりと頬を染めた。私は目を丸くしてアレンを見つめた。
何だか、プロポーズのような言葉だと思った。
『トモダチ』なんて彼から言われ慣れてしまった。けれどこれは━━━━━━━━。
「なあ。俺が言ってる意味、分かんだろ?」
「……意味?」
二度目の私のオウム返しに、彼はいつもの子供のような笑顔ではない、妖しげな笑みで返答を返す。
「俺を選べよ。……ティア」
「……っ!」
『選ぶ』。この言葉が指す意味に、私は何となく勘づいた。
嫌な予感と共に、私は咄嗟に手紙をポケットから取り出す。
恐る恐る目を通すと、『アレン・ルーデンスと共に生きる 又は最後の選択肢へと向かう』と書いてあった。
キールの時と違うのは、対象者の名前と次ではなく最後だということだけ。
内容は全く変わっていなかった。
「ティア、そろそろ眠たくなってきただろ?早く家に帰って寝ようぜ。そんで明日はボードゲームと茶会だな!」
カードゲームも捨て難いな、と嬉々として語るアレンはもう私が自身を選ぶという選択をとることを確信しているようだった。
どうして選択肢の事を知っているの?
キールは知らなかった筈なのに。何だか得体の知れない恐ろしさが身から這い上がった。
それから十数秒後、私が黙りこくっているのに気が付いた彼はこちらに笑いかけた。
「だから、早く俺を選べよ」
そう言って笑うアレンの瞳には、有無を言わせない圧のようなものがあった。
いつもと同じ子供のような笑顔が、今は酷く不安を煽る。
━━━━━━━━━━私は、どうする?




