今日も今日とて、最初の選択肢。
地図を片手に歩み出して早二十分程時間が経った。
田畑の多くある地域を抜けると、恐らく山の麓へと辿り着いた。
そのまま坂道を登っていく。幸い地面にはあまり石もなく、怪我の心配は無さそうだ。
しかしネグリジェは薄手のレース生地の為、夏の終わりといえど少し肌寒い。時刻は十一時頃であろうか。この山道には、虫の羽音と風の音しか響かない。
私はもう一度地図を見返した。
地図には赤色のペンで星マークが描かれた地点が三つある。そのうちの1つが、この辺りを指している筈なのだけれど……。
前世ではテーマパークへ遊びに行っても絶対に自分では地図を読まないような自堕落な女だったから、我ながら不安である。
夜風に触れた草道を裸足で踏むと、ひんやりとした冷たさが身体全体を凍らすような錯覚さえ覚えた。
しかし私は諦める訳にはいかないのだ。
せっかくの今世を、元婚約者に不敬罪で斬首なんて締めくくりで終えたくなんかない。
不意に、暗闇の奥から朧げに人影が揺れる。
その正体は夜闇に紛れ込み、一向に姿を表さない。
私は警戒して、一度その場で立ち止まった。
そして、目を細めて人物を特定しようと努めた。ゆらゆらと揺れるその影は、その場に立ち止まっている。
こんな山道に立ち止まるなんて明らかに、散歩中の人間などでは無さそうだ。
まず本当に人間なのだろうか。真っ暗な謎の姿は何だか人外を彷彿とさせる。
考えれば考える程、恐怖で足が竦む私は小さく己を鼓舞する言葉を呟き続ける。
「大丈夫、大丈夫、大丈夫……」
自分でも何が大丈夫なのかは分からないが、こういうのは気持ちが大事なのである。
段々と『大丈夫な気持ち』へと変わっていくのを感じると、つくづく自分が単純な神経をしていて良かっだと思う。
ほっと胸を撫で下ろしまた歩み進めようとした、その時。
影が、此方へ振り向いた。
「……っ!」
顔や表情は見えなくても、暗闇で光る鋭い眼光が私を捉えたのが直ぐに分かった。
私は反射的に自分の口を両手で抑えていた。
そうしていなければ、きっと今頃山中に聞こえる声で叫んでいたことだろう。
暗闇で光る二つの金色の瞳は、段々と私の方へ近づいているような気さえする。
もうこの際強盗でも暴漢でもいい。人間でないものじゃなければ何でもいい。
私は震える下唇を噛んで、両腕をいつでも戦闘出来るように構えた。
どんな技が飛んできても、私のチョップで跳ね返してやるわよ!
やれるものならやってみなさい!天下のセレスティア・ヴァニラが幽霊なんぞに負ける訳ないのよ!
「セ、……ん?」
「ひっ!……や、ややっぱり、幽霊と人間でも争うことは良くないと思うの。ほほほほら、へ、平和的に話し合いをしましょ!」
幽霊は小さく何かを呟いて、もう私の2メートル先まで迫っていた。
先程まで威勢の良かった私も、これにはもうお手上げだ。最終手段である土下座を使ってもいいから、早くこの場を抜け出したい。
神様、どうか私を助けてください。そう心中で祈るも、『神様』という言葉はより一層今の私の胸を暗くさせた。
そうしている間にも、幽霊は段々と近づいて━━━━━━━━━━━━。
「セッちゃん」
幽霊は私の目の前でそう、囁いた。
その声は親が子に向けるような、愛しさの籠ったもの。
暗闇に目が慣れ、ぼんやりとした輪郭が線になっていく。目を凝らすと蜂蜜色が視界いっぱいに広がった。
私は頭で考えるより先に、口からいつの間にか言葉が零れていた。
「キール、何で貴方がここにいるの?」
よく見知った金色のウルフカットに、長身のそれ。
その幽霊━━━━━キールは、酷く嬉しそうにくしゃりと顔を歪め笑った。
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「どうしてこんな所に……」
私はもう一度顔をまじまじと眺めた。
たったの二ヶ月振り。しかし目の下には濃いクマがあり、髪の毛も窶れている。
極めつけは、前から空いていたピアスが左右二つ三つ程、増えていたのだ。
ファッションでそうしているのかもしれないけれど、何だか纏う雰囲気が以前とは異なったように思う。
「ねえ、ちゃんと寝て『セッちゃん、どうしてオレを捨てたの?どうしてオレを選んでくれなかったの?』……え?」
私の疑問は、キールの疑問に掻き消された。
捨てた?選んでくれなかった?なんの事かさっぱり分からない。
それでも私の返答を待たずに、キールは話を進める。
「オレ、出来損ないだけどさ。セッちゃんへの愛なら誰にも負けないよ。だってオレはキミの『家族』だもん」
今にも涙が溢れるのを堪えて、穴の増えた片耳を手持ち無沙汰に触りながら彼はそう言った。
それは親に愛情を強請る健気な子供さながらだ。
私は、彼の言葉が指す意味をようやく理解することが出来た。
「御免なさい。私あの時貴方と新築の見学に行くと約束したのに」
「……!ほら、セッちゃんが俺を裏切る訳ないっすもんね。大丈夫、最初から分かってたっすよ」
キールは私のその言葉に、顔を綻ばせた。恐らく誤解が解けたのだろう。安心したのか、いつもの口調に戻っている。
新築見学へ行かなかったことがそんなにショックだったのだろうか。
我ながら良心がとても痛んだ。レオとのゲームが終わった後、私がまだ生きていたら是非お邪魔させて頂こうではないか。
「また日を改めてお邪魔させて頂くわね」
「……え。今日は一緒に帰らないんすか」
「今日!?……流石に無理ではないかしら。突然だとおば様にも失礼だろうし」
なんと、今日来てもらう為に私を待っていたのか。それ程まで熱烈な歓迎をされて悪い気はしないが、キールと同棲中のおば様も突然お客が来たらきっと困るだろう。
それに今は人生を賭けている大勝負だ。
私は自身の言葉にはっとして、直ぐに気を持ち直しまた歩み出そうとした。
すると、キールが能面のような感情のない表情でこう言った。
「『おば様』って誰のことっすか?」
「え、あっ!失礼よね、おば様なんて。貴方の同棲中の彼女よ。将来の子供も夢見ているあの彼女のこと」
「……え」
し、しまったー!!!仮にも人の恋い慕う人を『おば様』と表現してしまうなんて淑女失格にも程がある。弁明するように言葉を重ねるが恥の上塗りに他ならない。
キールも怒りを通り越してもはや仏像のように固まってしまっているわ!!
「オレの家族はセッちゃんだけなのに、どうしてそんな事言うんすか」
「家族は、私だけ?……きゃっ!」
震える声で私を睨むキール。『家族は私だけ』と言う。
以前は、彼の同棲中の彼女を以前家族だと表現していたのに。
目を見張っていると、キールが私を抱き締めた。突然のことに抵抗する間もなく、されるがままに腕の中に閉じ込められる。
彼特有の甘い香りが、ふわりと鼻腔を擽った。
そして、キールは間髪入れずにまた話し始める。
「……オレの妹であるキミだけがオレの家族で、オレの唯一でオレの全てなのに!!」
「だからオレは皇太子の馬鹿げた『ゲーム』にまで参加してキミを取り戻そうとしてるのに!!」
「それなのに、なんでセッちゃんはオレを愛してはくれないんすか!!」
彼は余裕が無いのか、私の返答を待たず叫び続ける。その声は悲痛に塗れており、聞いているこちらの胸まで痛むようだった。
しかし私の胸に引っかかったのはひとつの言葉だった。
━━━━『皇太子の馬鹿げたゲーム』。
どうして、キールがそれを知っているのか。
頭を鈍器で殴られたような衝撃を覚える。
そう言えば、地図に描かれていたこの辺りの赤い星マーク。
丁度、キールが立ち止まっていた位置と重なっていた。
私の中で点と点が繋がり、線となる。そして、ある事に気が付いた。
キールこそ、地図で示された星マークの正体。
ゲームの『お題』である事に。
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取り敢えず、今は錯乱した様子の彼を落ち着けることが最優先だ。
今日の彼は普段と比べて、声は震えているし今にも泣きそうである。
私は彼の背中を優しく撫でた。するとより一層私を締め付ける腕の強さが強くなる。
まるでこちらを逃がすまいとする圧迫が、私の背中を軋ませた。
私は空いている片手でこっそり自身のポケットから、レオから受け取った『お題が書かれている封筒』を取り出す。
そしてキールに気付かれないように、彼の死角である彼の背中の後ろでそれを開いた。
封筒を開ける。中には数枚の紙が入っており、私は封筒の表側にあった一枚の紙だけをそっと引き抜いてみた。
夜闇の中目を凝らしてそこに書かれた文字を覗き込む。
『キール・クラウドと共に生きる 又は次の選択肢へと向かう』。
恐らくレオの手書きだろう。達筆で美しい文字で、そう書かれていた。
「なに、これ……」
この紙には、『勝ち負けの決め方』も『ルール』も書いていない。
あるのは、キールを選ぶか次に進むかだけだ。
どちらを選ぶのが正解かさえも書いてはいなかった。あまりにも端的すぎる指示に、私は絶句した。
まるで乙女ゲームの選択肢のようだ。
本来私は悪役だから、選択肢なんてものは存在しないけれど。
「キール、レオになんと言われたの?その『ゲーム』について」
「……皇太子から渡された招待状には、『ここでセレスティア・ヴァニラを待つように』って書かれてたんすよ」
キールには私がゲームに参加していることと、私のお題内容は知られていないようだ。
どちらを選ぶのが私にとっての『正解』なのかしっかり見極めなければいけない。
他でもない私の第二の人生が懸かっているのだから。
キールは腕の中に居る私の左耳に唇を寄せて呟く。
「オレさ、キミの本当の名前を今日初めて知ったんすよ。出身地も、家柄も学園名も」
「ずっと貴方には『セッちゃん』という渾名しか教えてなかったものね」
「それで良かったんすよ。キミを知れば知る程、オレの知らないキミが増えていくのが嫌なんだ」
「だってキールと私が知り合ったのは数ヶ月前だもの。当然よ」
キールの前ではずっと、ただの『セッちゃん』でいた。だから『セレスティア・ヴァニラ』として話すのはきっと、これが初めてだ。
キールはその美しい琥珀色の双眸を震わせて、私を愛おしむような、憎むような目線で眺めていた。
時折片腕を持ち上げ私の頬を撫でては、また辛そうに笑った。
それは兄が妹に見せるような表情では無かった。
「ねえセッちゃん。オレ、キミのためなら全て捨てられるよ。騎士団という職も、他の人間も。キミから愛が貰えるのなら」
「私は貴方にとっての『妹』なんでしょう?だったらそんな事を言ってはいけないわ。それは愛する人に伝えるべきよ」
キールの言葉は『妹』に向けるものにしては、愛が偏っていると思った。
それは貴方の恋人に伝えるべきだわ。
そう強く願って彼を見つめると、彼はまた酷く恨めしそうに私を睨んだ。
「オレが愛しているのはキミだけ。セッちゃんだけだよ」
「それは家族愛でしょう。本来なら兄が妹に言うべき言葉では無いわ」
「オレが建てた家も、オレが騎士団を辞めたのも、全部キミの為なんすよ」
「どういうこと?キールと貴方の恋人の為のお家では……っ!」
するとキールは強引に私の下顎を掴んで、唇を私のそれと重ねた。
蕩けてしまいそうになるほど、優しくて甘い。
キールが何を考えているのかが分からなかった。私のことを『妹』だと『家族』だと言うのに、私の為に家を建てたと言う彼が。
まるで恋人のように私にキスをする彼が。
ふわふわと意識が飛びそうになる口付けに身を任せていると、すべてどうでもよくなってくる。
━━━━━キールのこれは本当に『家族愛』?
ふと、そんな疑念が頭に過ぎった。
私はぼんやりと意識を手放しそうになったが、すんでのところで我に返る。
そして腕に力を込めて彼の胸板を強く押し返す。彼はひどく傷ついたように目を見開く。
「兄なら妹にこんなことはしない。これは家族愛などではないわよ。こんなの……男が女に向けるただの情愛だわ!『違う、違う、違う!』」
「オレの愛はそんなに薄汚いものじゃない!オレの愛はキミとの家族愛だけ。純粋で無垢な無償の愛だけだ!」
キールは繰り返して『家族』と表現し続ける。
その琥珀色の瞳は酷く澱んでおり、私は言葉を失った。
なんと言い返せば良いのかが分からなかった。
ただ一つ言えるのは、これは家族愛なんかじゃないということだけ。
「ねえ、お願いっすよ。セッちゃん、オレの為にキミの全部を捨てて欲しい」
「捨てる?」
「キミの本当の名前。出身地も、本当の家族との思い出も。全部捨ててやり直そう……ね?」
私はその言葉に頭が真っ白になった。
そしてそれと同時に『キール・クラウドと共に生きる 又は次の選択肢へと向かう』というお題が頭の中で廻り続ける。
そんな私を前に、琥珀色の瞳の美しいひとは、蕩けた笑みで頭を撫でた。
「オレの『家族』としてのキミだけで生きて。他の人間を『家族』なんて呼ばないで。オレと、オレとの愛の結晶だけをキミの『家族』にして」
━━━━━━━━━私は、どうする?




