今日も今日とて、『神様』。
裏口の戸を力任せに開ける。大きな音が鳴ったが、今は気にしていられない。
エミリーさんのネグリジェに裸足と言う淑女という言葉が聞いて呆れるような今の私は、馬小屋へと一目散に駆け出していた。
畑の作物を踏まないように最新の注意は払うが、脚は既に泥だらけだ。
やっとの思いで馬小屋へ辿り着くと、小屋の引き戸を今度は静かに開ける。
慣れない藁を素足で踏む感覚のせいか、千鳥足で鼻息のする方へ辿って行く。
ふと、私の頭の中に数ヶ月前の三人の言葉が響いた。
『怪我をした馬は暴れやすくて人に危害を加えやすいんです』
『ティアさんの事、怪我どころか間違って死に至らしめるかもしれませんよ』
『そうだよお、お嬢ちゃんはゆっくり過ごしていておくれ』
……絶対にしてはいけないこの家のルール。
それを今から破ってしまうことにドキリと胸が痛んだ。けれども、レオは私に対してつまらない嘘はつかないと確信している。
それが結果的に、彼女らを疑って約束を破る事と繋がるのだ。
ごめんなさい。と心の中で今は居ぬ三人の面影に謝罪する。
ヒヒンッと馬が私の声に気が付いたのか特有の高い声を発する。
それが共鳴するかのようにまた違う音程の鳴き声が狭い小屋に響いて行く。
疑問が、確信へと変わっていくのを肌身で感じる。
私が顔を上げると同時に、誰かが私の両目を塞いだ。
「きゃっ!『馬小屋には近づくな。そう言った筈です』……カ、カインくん?!」
力強く私の目を塞ぐ人物━━━━━━━後方から聞こえる低音。それは今ではすっかり聞き慣れたカインくんのものだった。
「あーあ、バレちゃった。カインがもっと上手く嘘をつかないからだよ」
ソプラノの可愛らしい声。姿は見えないが今度はアリアちゃんが発したものだろう。悪戯っ子の様な声色の中に『嘘』という単語があるのを私は聞き逃さなかった。
「っ、どうして!馬は確かに怪我をしているわ。私がエミリーさんを助けた日の馬はね!……けれど、けれど他に健康な馬が居るなんて……!」
間違いなく、前脚に怪我をした馬は居たのだ。
あの日馬車を走らせていた馬。しかしもう一頭、黒毛の馬はそんな同類を慰めるように身体を舐めていた。……健康体で。
『聞いていないわ』そう言おうと思ったけれど、久々に声を荒らげた所為か喉が掠れて上手く話せない。
私は心の底から疑問を投げ掛けた。
上擦って嗄れ声になる私の背中を細い指、━━━━━アリアさんが宥めるように撫でた。
「『神様』を逃がさないためだねえ」
新しい、声。それはエミリーさんのものだ。
声だけで、誰が誰だか分かるくらいこの人達と過ごした時間は多かった。
まるで本当の家族のように。はたまた友達のように。
それが心地好くてずっと気が付かないフリをしていたのだ。
彼女らが時々発する『神様』と言うことば。
「『神様』って誰のこと?……ずっと聞きたかったけれど切り出せなかったの」
「うふふ。何言っているんですか、ティアさんのことですよ」
アリアちゃんの優しげな声と共に、私の視界の景色は広がった。カインくんが両手を離したのだ。ゆっくり後ろを振り向くと、いつもと変わらない皆の笑顔がそこにはあった。
けれど私の心の揺れは治まらない。
なんだか、能面のようで。毎日見慣れたその暖かい笑顔の筈なのに。
「さあ、家に帰って暖かい野菜スープでも飲みましょう」
「皇室へ花を届ける仕事が急遽入るなんてねえ。いつもは決まった周期なのに」
「さあさ、ティアさん。行きましょ、ね?」
カインくんが私の右腕を掴んで家の方角へ向く。
エミリーさんがボヤきながらも有無を言わせない瞳で此方を見つめる。
アリアちゃんが私の両肩を押す。
どうして?どうして家へ帰らせてはくれないの?『馬の怪我が治るまで』の筈ではないの?
そんな私の疑問を吸い込んでしまうような飛び切りの笑顔を浮かべる三人。
頑なにその場を動かない私に痺れを切らしたのか、無理やり引き摺られそうになったその時。
「……わ、私は『神様』なんかじゃないわ」
「「「━━━━━━━え?」」」
私の口から、本音がポロリと溢れ出た。
その言葉を理解した瞬間、彼女らはみるみると笑顔を崩し真顔へと変わっていく。
それがとても怖くて、恐ろしくて。けれど私は胸を張って、上擦った声で叫んだ。
「私、セレスティア・ヴァニラは『神様』なんかじゃないわ!全知全能でも、奉られるのに相応しい人間でもない!だから、だから……いっ!」
『バチン!』という乾いた音、頬がびりびりと痺れる感覚。
━━━━━━━━━エミリーさんに頬を叩かれたのだと理解した瞬間、右頬から熱い痛みを感じた。
そう言えば、今世では誰かに叩かれたこと等無かったなあ。前世では慣れっこだったけれど、こんなに痛かったんだ。
どこか遠い目で事実を確認している私に、エミリーさんは強い口調で責め立てた。
「アンタ、誰だい!私の……私達の『神様』じゃ無いね。あの娘を何処に隠したんだい!言うんだよ、ほら早く!」
「……え」
「そうよ!こんな事、私達のティアさんは言わない。早くティアさんの身体から出て行ってよっ!」
エミリーさんに身体を大きく揺さぶられ、脳がクラクラと廻る。
アリアちゃんが、恨めしそうな瞳で私を見つめている。
残ったカインくんは唯、それを傍観していた。
数秒後、彼の低い低音が辺りに響く。
「神様じゃないアンタは、要らない」
「要ら、ない?」
前世で言われ慣れているその台詞。優しいこの世界では初めてだ。
その言葉がすとん、と胸の奥に堕ちて種を落とし、根を張っていく。
「……そうよ。『神様』じゃないティアさんなんて、要らないわ」
「あの日私を救ってくれた美しいあの御方は、アンタの様な酷い言葉は言わないんだよお」
「おい、偽物め。あの人は僕達が欲しい言葉しかくれないんですよ」
何となく、腑に落ちた。彼女らが私に何も仕事をさせないことも。
まるで天啓でも聴くかのように私の言葉に耳を傾ける姿も。
全部全部、『私』に対してでは無かった。
私を偶像崇拝の対象としていただけ。
誰も私を『私』だと認識していない。
『神様』ってだれ?私は違う、神様なんかじゃない。ただの非力な人間なのよ。
そう訴えたところで、彼女らはきっと聞き入れてはくれない。
そう悟ると、私は腕を強引に振り上げ玄関へと走り出していた。
……もう、誰も追いかけては来なかった。
背中へと突き刺さる憎しみの視線が、私の心に重い石を乗せた。
きっと彼女らは、彼女らが言う『神様』が帰って来るのを待つことにしたのだろう。
私はお呼びではないようだ。
「もう、帰る家も無いわ」
そう呟く私の声は、小さく震えていた。
彼女らの家から数百メートルの所で蹲る。と、ネグリジェのポケットから小さく折り畳まれたメモのようなものが零れ落ちた。
「これ、レオとの『ゲーム』の……」
私は其れを拾い上げると、膝にこびりついた土を払った。そして、真っ直ぐに前を向く。
手紙の地図はエミリーさんの家からがスタートになっていた。
まるで最初からこうなる事が分かっていたみたいね。なんて苦笑してみても、私の心は暗いままだった。
「……今の私に出来ることはこれだけ。ならやるしかないじゃない、セレスティア・ヴァニラ」
両頬をパチンと叩いて自分を鼓舞する。先程叩かれた右頬には左より鋭い痛みが走ったけれど、なんだか痛みが上書きされたような感覚になる。
涙で薄らと膜を貼る両眼をネグリジェの袖で強引に拭うと、私は地図に従って闇が覆う暗い道のりを歩き出したのだった━━━━━━。
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ある小さな家……青い屋根に小さな庭園のある素朴な家。そこには美しい男がふたり居た。椅子へ座り向かい合って話す姿は、うら若き乙女が頬を染めるであろう光景だ。
片方は薄らと笑みを浮かべ、もう一方は窶れた顔色を隠そうともせずにそれを見つめていた。
「君は彼女をあの宮殿から逃がした。紛うことなき大罪人だ」
「けれど俺は優しいから、君に情けを掛けてやる」
「……彼女にもう一度会いたくはないか?」
ずっと独りで話し続ける黒髪の男を無視し続ける金色の髪を持つ男は、その言葉を聞いた瞬間、やっと小さく顔を上げた。
それに対し満足そうに笑みを深める紫の瞳の美丈夫は、ある手紙を差し出す。
「この場所に行くといい。……君にとってのハッピーエンドになるよう、祈っているよ」
それを相手が受け取ったことを確認すると、差し出した男は早々と席を立つ。返答は無くとも、それが肯定であることは表情から読み取れたのだ。
……別に否定なら否定でも良いのだが。なんて水を差す言葉を呑み込み、玄関の戸をゆっくりと開けて出て行く。
一人残された男の方は、その手紙を恐る恐る開けると目を見張った。そして、哀しそうに眉尻を下げる。
「セッちゃん……セッちゃん。どうしてオレを捨てたの?」
美しい声も、今ではすっかり気力が無い。
しかし彼もまた、その手紙を握りしめ自身が彼女の為に選んだ木製の戸を開けたのだった。
 




