今日も今日とて、ゲーム。
━━━━━━━逃げなきゃ。
咄嗟に脳に過ぎったその言葉の通り、私は玄関へと駆け出そうとする。
けれど、時すでに遅し。
レオに右手首をがっちりと捕まれ逃げることが出来なかった。
「危ないよ、ガラスの破片で怪我をしたら大変だ」
「……っ!」
私を気遣う優しい声。表情を隠す重い前髪。
それは全部、出会ったばかりのレオのもの。
以前までは安心していたそれに、私の心は酷くざわついた。
私を賞金首にしたのはプライドを傷付けられたから?
これから私も牢獄へ閉じ込めるの?
疑問は沢山あるのに、言葉にしようとすると喉がつっかえる。
目の前の彼は子供をあやすような声色で言葉を続けた。
「簡素な家だけれど、素敵な所だね。俺とティアが初めて出会ったあの庭園みたいだ」
「つ、連れ戻しに来たの?あと、その髪は……」
思い出を懐かしむようにエミリーさんの家を褒めるレオ。
私は呼吸が大分落ち着いて、やっと疑問を口から吐き出すことが出来た。
レオは自身の漆黒の髪を弄ぶかのようにくるりと指に巻き付けながら言う。
「この髪は鬘だよ、特注で作らせたんだ。いくら皇太子でも、髪を自由に伸ばすことなんて出来ないからね」
「……ど、どうして?」
心の底からの疑問だった。私を連れ戻すだけなら、わざわざ鬘を作ってまで皇太子自ら出向かう必要など無いのに。
彼は私を見て不思議そうに笑う。
「だってティアの好みはこの時の俺でしょ?」
「え?」
「あれから考えたんだ。……どうやったらティア好みの俺になれるか」
「……私好み?」
私の訝しむような目線に彼はがっくりと方を落とし、鬘を手で取った。
美しい烏の濡れ羽色が外気に触れ、隠されたアメジストを曝け出す。
その美しい紫の瞳は悲しげに揺らいでいた。
好みは何かと聞かれると答え難い。
強いて言うなら筋肉ムキムキな……ってこれは自分の理想だった。
「あれ、これも違ったかな?じゃあ教えてよ、どうしたら君の好みになれるのか」
「わ、私の好みは━━━━『アレン・ルーデンス?それとも君を連れ出したキール・クラウド?嗚呼、ひょっとしてカイン・フィーネストかな。ティアはあんな地味な男が好みなの?』」
好みは無いわよと言おうとした瞬間、レオは淀んだ目で質問を繰り返す。
と、同時に私は冷や汗をかいた。なぜならキールの事も、カインくんの名前も知られている事に気付いたからだ。
皇太子の権力、恐るべし……。
「……カインくんを何で知っているの?」
「カイン『くん』だなんて、俺の知らない呼び方をされると妬けてしまうな」
「はぐらかさないで頂戴」
「……君の居場所を知って飛んで来たのに、いざ来てみたら石ころ達しか居ないときた。思わず笑ってしまったよ」
『笑ってしまった』なんて口では言っているけれど、その目は冷ややかだ。
石ころ?何を指して言っているのかが理解出来ない。
私が核心に迫る質問を投げ掛けると、レオの答えは予想外なものであった。
「ううん。連れ戻さないよ」
「……へ?」
私は自身の肩の力が脱力するのを感じた。
てっきり「連れ戻した後、不敬罪として一生牢獄に入れるよ」なんて言われると思っていたから、喜びの気持ちでいっぱいである。
私は思わず掴まれていたレオの左腕を取り握手をして上下に振った。
「そうなの……!?御免なさい、私てっきりレオが怒っているのかと思っていたわ」
「うん。怒ってる」
また私は脱力した筈の肩が緊張で固まるのを感じる。やはり怒っているわ……。
私の緊張が腕越しに伝わったのか、彼は一層眉尻を下げ笑う。
私の右耳を優しく右腕で撫でた彼はいつもの優しい笑みを浮かべ囁いた。
「だから、条件があるんだ。」
━━━━俺とゲームをしよう、ティア。
脳に甘く蕩けるような声が流れ込んでくる。
その穏やかな声が、何故だか幼い頃読んだ物語のお姫様を惑わす悪魔の囁きを彷彿させた。
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「ゲーム?」
「うん。ティアがこの場所に行ってお題をクリアしたら勝ち、出来なかったら俺の勝ち。……簡単なことだよ」
レオの出した条件は言葉通りとても簡単なものだった。思わず拍子抜けしてしまう。
レオは懐から折り畳まれた紙と1枚の封筒を取り出し、私に手渡した。
レオから手渡された紙切れにはご丁寧に道中のルートが書かれた地図が描かれていた。
そしてもう一つ……手紙には『司令』が書いてあるのだと言う。封筒を開けようとした私をレオが優しく制止する。
「……まだ駄目だよ。ゲームは事前に知っていない方が楽しめるんだから」
「そう言うものなのかしら。……分かったわ」
『ゲーム』。突然何を言い出すかと思えば、子供の絵空事のようで驚いてしまった。
私との別れは『ゲーム』の範疇に収まるものなのか。
『ゲーム』世界に入り込んでしまった私が『ゲーム』で失恋だなんて神様は皮肉なものね。
しかし突然の提案とは言え、聡明なレオのことだ。何か裏の事情があるに違いない。
「この『ゲーム』に勝ったらどうなるの?」
私の素朴な疑問を前に彼はうーん、と手を顎に添え悩むような素振りを見せた。
……一ヶ月振りに会うだけで、ここまで見慣れなくなるものなのか。あと数秒目を離すのが遅かったら、美しさに圧倒されてしまう所だった。
「俺としては何方が勝ってもハッピーエンドだから、答えに困ってしまうな」
「……レオとして?私基準だと何か変わるの?」
「ティアの視点で考えれば、ゲームに勝たないと辛いと思うよ。俺はやっぱりお姫様が勝って欲しいなあ」
『何方に転んでもハッピーエンド』?私は混乱する頭で必死に考える。
こうして考え出した結論が以下の通りである。
私が勝ってもレオが勝っても嬉しいってことよね。それはきっと何方にしても私とはお別れをするってことかしら。
でも優しいレオのことだ。私が勝てば不敬罪にはしないのであろう。
反対に考えると、私が負けた場合は━━━━。
絶対勝たないと。震える手を誤魔化す様に強く握り締める。冷たい手汗が不快だ。
何方に転んでも訪れるのはきっと別れだけ。
それなら私が今するべき事は一つである。ゆっくりと前を見て彼の目を見据える。今度はもう、自分から逸らさないから。
「━━━乗ったわ。そのゲーム」
「ふふ、そうすると思ったよ。……君ならきっと幸せな結末に辿り着ける筈だ」
幸せな結末、それが指すのは私たちの別れ。
それがお互いにとって一番の幸せだと最初から分かっていたつもりだったけれど、いざ実感してしまうとなけなしの恋心が痛む。
……抜け出した日に諦めると決心したのは誰だったかしら。
そんな自分に嫌気が指すのを誤魔化して、私はレオに向かって笑みを浮かべた。
「……ええ、頑張るわ。今迄ありがとう。お世話になりました」
「ふふ、今世のお別れみたいに言われると寂しいなあ。大丈夫、明日の今頃にはきっと幸せな結末が出来上がっているから」
『幸せな結末』何度もそう呟くレオにまた胸が苦しくなる。やっぱり私と関わらない事が一番のハッピーエンドなのだ。
可愛く心優しいヒロインと美しく聡明な皇太子が結ばれる。
そんな物語、誰が聞いても幸せな結末だ。ヒロインが悪役令嬢へ切り替わる物語なんて、万人はきっと嫌うだろう。
そんな事を考えていると、不意にレオが思い出したように話し出した。
「そう言えばこの家の馬は元気だね。先程撫でてみたのだけれど、今すぐ駆け出しそうなくらい興奮していたよ」
「……え?」
「嗚呼、そろそろ夜も遅いし俺は帰宅させて貰うね。お休み、愛しのティア」
そう呟いて私の額にキスを落とすレオ。
彼が玄関へ歩み出し、その姿が見えなくなっても私はその場に立ち尽くしていた。
『この家の馬は元気だね』?
私はその言葉の意味を理解した瞬間、家の裏口から一目散に馬小屋へと駆けて行く。
……一つの疑念と、嫌な予感と共に。
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田舎の畦道の暗闇。その場に不釣り合いな程に美しい男はただ馬車に揺られる。
暗闇の景色の中、紫が存在感を持ってギラギラと輝く。その瞳は哀しそうに、はたまた愛しそうに長い黒色の睫毛に縁取られている。
ただ一人しかいない筈のその場所で彼はまるで何かに話し掛けるように言葉を口から零す。
「久々に会ったのに再開のキスも無いなんて、ティアも随分焦らし上手だ」
━━━━それはまるで恋する乙女のように。
「王子様とお姫様。それだけじゃ唯のつまらない御伽噺しか出来ない。……おぞましい魔物や化け物達が登場してやっと、俺たちだけの物語が出来る」
━━━━それはまるで嫉妬に狂った怪物のように。
反する二つの顔を持った男はニヤリとほくそ笑む。先程の慈愛に満ちた表情からは想像もつかない程に目は暗く淀んでいた。
その骨ばった手には二つの招待状。向かう先は他の参加者達の元だ。
彼奴らがそれに参加しない訳が無いことなど、手に取るように分かる。
まあそんな事はどうでもいい。彼女以外どうでもいいのだ、自分でも驚く程に。
一ヶ月振りに会う彼女の所為で心臓がとても熱い。彼女の前では努めて平静な素振りをしていたが、やはりこの衝動は抑えられないようだ。
自分の左胸が脈打つ感覚に身を任していると、段々とそれの理由が『怒り』でもある事に気が付いていく。
その矛先は魔物か彼女か、俺か。
思わず手の中の手紙を握り潰してしまいそうになるが、気持ちをギリギリで抑える。
明日のゲーム、彼女が勝つか負けるかで俺の人生の基盤もひっくり返る。
常人なら嫌がるだろうけれど、自分の人生が彼女の掌の中だなんて幸福この上ない。明日が楽しみで眠れないだなんて、何だか子供みたいだな。と、自嘲する。
「ふふ、今頃あの小汚い馬小屋に向かって駆けているのかな。可愛い、本当に可愛い。素直で純真で……」
こんな人間に捕まるなんて可哀想だと、心の底から同情してしまう。
嗚呼。可哀想で愛らしい!俺の、俺だけのお姫様。
でも俺たちは運命だから。『ごめんね』なんて言ってはあげない。




