今日も今日とて、逃亡する。
前世の私のお陰で今の私がやるべきことがしっかりと分かった。
それは人生に絶望することでも、はたまた命を投げ出すことでも無い。
ただ貪欲に、それこそゲームのセレスティア・ヴァニラのように、幸せを求めて生き続けるだけである。
レオが皇太子だとしても、私はレオが好きだ。
最初は平民と結婚する為、というだけで話しかけたレオにここまで心奪われるとは思っていなかった。
でも、私の選択によって私の周りの人全てが不幸になるとしたら。私が、レオと結婚してゲームのシナリオと逸れてしまったら。
周りの大切な人にまで不幸が降り掛かったら。
そんな未来を想像するとゾッとする。
「……よし。決めたわ」
深呼吸をして、ギュッと寝巻きの裾を握る。
私は決心をした。
明日、レオが迎えに来る前に逃げ隠れるのである。
私がレオを好きだからといって皆まで不幸にする訳にはいかない。
レオには悪いが自分と周りの命の為、私は身を引くしかない。
きっとレオは私じゃなくても大丈夫なのよ。
ヒロインが学園を卒業したら、二人は出会う筈よ。
魅力的で心優しいヒロインのことだ。
レオも私の事など直ぐに忘れて、ヒロインと恋に落ちるだろう。
それでストーリーがゲームのシナリオ通りに進めばみんな幸せになれるわ。
私も、他の誰かと結婚してひっそりと幸せに暮らせば良いのよ。
頭では納得しようとするが、レオとヒロインの二人の姿を思い浮かべるだけで胸がズキズキと痛む。
本当は分かっているのだ。
レオ以外の人を好きになる未来が想像出来ないことも。レオはきっとヒロインを好きになってしまうことも。
彼は、私のことが本当に好きなのだろうか。
ひょっとして、ヒロインに向ける筈の好意を私に間違えて向けているだけなのかも。
そう思うと胸からすとん、と引っかかりが取れた気がした。
なんだ、そういう事か。冷静に考えてあんなに優しくて、それも皇太子である男性がこんなコミュ障のぼっち好きになる訳ないじゃない。
あはは、と自嘲ぎみに笑う。
「おじゃま虫は私なのよね……」
そんな私のエゴで結婚して周囲の人たちが不幸になるくらいなら、私はここで消えてしまおう。
幸い、多趣味な私だ。ガーデニング、料理、掃除に洗濯。生きて行く上で必要な事は一通りできる。
それを何か職業にして生きて行こう。
お父様とお母様、心配するかな……。
ううん、弱気になっちゃダメよ。セレスティア・ヴァニラ。
そのお父様とお母様を守る為でもあるんだから。
頬を両手で引っぱたいた後、私はクローゼットから大きなリュックサックを取り出す。
そこに、必要最低限の荷物を詰める。
動きやすく地味な服に髪留め。お父様から貰って貯めておいた金貨十数枚。
皆から貰った手紙。
そして、引き出しの中からレターセットを取り出す。
宛先は、勿論彼だ。
お父様から誕生日プレゼントで貰った万年筆で一文字一文字、心を込めて書く。
書き上げた手紙を机の中に置く。読んでくれるかな。
「ふぅ、書けたわ。さてと……もうこの家には帰って来れないかもね」
屋敷の門には夜間も門番が居る。私は作戦を立てた。まず私はロープを窓に引っ掛ける。それを使って部屋から抜けた後、ナイフでロープを切り落とすのだ。これでどうやって抜け出したかは分からない。
部屋を出る前、最後に見慣れた自分の部屋を眺める。
前世を思い出して絶望したり、アレンと友達になったり、レオと出会ったり、沢山の思い出が詰まった16年間。
「……さよなら」
私はロープを伝って庭へ降りる。
ポケットナイフで切り落としそれを回収する。
其の儘塀をよじ登ると、外はもう明け方になっていた。
行く宛てももう決めてある。
しかし、滞在させて頂くのは最低でも数週間だけである。
長くご迷惑をかける訳にはいかないし、人との交流が少ない私の行く宛てなんてレオには直ぐに勘づかれてしまうだろうから。
まあ、レオは私のことなんて捜さないと思うけどね。
本当はヒロインに向けるはずの偽物の感情とは言え、私に一度でも好きと言ってくれた人だ。
それに、私が初めて恋をした人。
そんな人を裏切るのは心苦しいが、心と生命と将来の平穏の為である。
お父様とお母様に頼る訳にもいかないし、メイド達やロータスにまで迷惑をかけるなんて以ての外である。
人との関わりが少ないぼっちの私が頼れる人。
それは私の唯ひとりの友人である。
門番とメイドに見つからないように屋敷を抜け出し駆け出す。
幼い頃から何回も行き来している屋敷だ。
馬車でしか行ったことはないが、道なら完璧に脳に入っている。
普段の運動不足が祟って、喉がヒューヒューと鳴り横腹がキリキリと痛む。それでも私は走り続ける。
そうして私がルーデンス邸へと着いた頃、レオが私の屋敷に到着していたのだった。
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『親愛なるレオへ
この手紙を読んでいると言うことは私はもうその場に居ないことでしょう。
貴方を裏切ることになってしまってごめんなさい。どうか私の事は忘れて本当に好きな人と結ばれて下さい。
また、私を捜さないでください。これからは一人で生きて行きます。
ティアより 』
ぐしゃり。
全て読み終えた後、思わず手紙を握り潰していた。
普段、怒りという感情は湧かないのに今は例外のようだ。
「どんな俺でも愛してるって言ったのはだれだっけな?」
怒っている筈なのに、それが彼女のせいだと思うと胸が熱くなる。こんな状況なのに、彼女から手紙を貰ったという事実で脳が沸騰しそうになる。
それ程までに俺は彼女に毒されているのだ。
絶対、逃がしてやるものか。俺のティア。
ヴァニラ家のメイドは目の前の男に震える。
先程お嬢様を迎えに来た男は、先日結婚の挨拶に来た時とは印象はまるで違った。
この男は優しい好青年などではない。
どこにでも居そうな、前髪の長い青年。
しかし、今では長い前髪も目の上で切り揃え、何人もの家臣を引き連れていた。
婚約者の両親への挨拶の日に失踪したお嬢様に屋敷中がパニックになっている中、その男は静かに微笑んでいる。
その微笑みはゾッとする程美しいが、見つめる度に恐ろしさを感じてしまう。
紫の瞳は、ここには居ないこの屋敷のお嬢様を見ているようだ。消えた娘を想う青年はまるで絵画のように絵になっていた。
「俺のお姫様は鬼ごっこをご所望かな。ふふ、待っててねティア。直ぐに俺の檻の中に入れてあげるから。」
懐から婚約者の写真を取り出しキスをする男。
しかし、瞳は肉食獣のようにギラギラと闇の中で輝いていた。
お嬢様は、この男から逃げる為に失踪したのかもしれない。
私にはただ、もうここには居ないお嬢様のこれからの安息を願うことしか出来なかった。




