あなたと
「隣、いいか?」
粉塵で薄汚れた革鞄を肩から下げ
もう片方の手には大皿を乗せた大男が歩み寄ってくるや否や、
少しだけ苛立った表情でそう尋ねてきた。
大男の頬には薄っすらと輝きを放つ汗が滴り、
それを汗だと証明するかのように、酸味のある香りが鼻先をくすぐる。
「すまない。先客がいるんだ」
「先客?」
男はわざとらしく首を傾げ、俺の座る席と、ぽっかりと空いた隣の席を交互に見る。
そして一瞬の間があってから、皮肉交じりに口を開いた。
「見てわかるだろ? 他に席が空いてねぇんだ。
連れが居るのかどうだか知らねぇが、俺には座る権利がある」
「あ、ああ、確かに」
「だが、どうしてもその席は空けておきたいんだ。
……連れはすごく疲れている。
部屋から出て、降りてきたときに席がないのは可哀想だろ?」
「知るか。その時はお前がその席を譲りゃいいだろ」
「…………たしかに」
俺の反応を伺い、俺が頷くより早く大男は隣に腰を下ろす。
持っていたカバンからは、拳のほどの大きさがある石炭が顔を覗かせていた。
その石炭と大きさも色も似ている、安物のパンを皿に積み上げ。
汚れたままの手でそれをちぎり、口へと運んでいく。
味は容易に想像できる。少し酸味があり、古いものほど弾力が増す。
製造費が安く、量産しやすく、なおかつ日持ちする。
そんな理由で、そのパンは庶民にとっての主食と呼べるものだった。
「おい、お前」
「なんだ?」
男が二つ目のパンを、手に取ると同時に、視線を向けないまま言葉を紡ぐ。
「さっきは悪かった。腹が減ってイライラしてたんだ」
「別にいいよ。気にしてない」
「あんたの言い分のほうが正しい。謝る必要はないよ」
「へへっ、そうかい」
「それに、こんな時にくだらない理由で喧嘩もないだろ?」
「……ははっ、だな。お前の言うとおりだ」
大男が笑みを誤魔化すようにパンを口に詰め込み、ゴクリと音を立てて飲み込む。
それから何かを探すよう、店内を見渡し、
探していたものを見つけたのか、あからさまに上機嫌な声色で話を続ける。
「お前、酒は飲めるか? 冷えたライ・ウイスキーを一杯奢らせてくれ」
壁の一角に書いてあった酒類のメニューを指差しながら、今度は笑みを誤魔化すことなく話す。
「なんだ? 気前がいいな?」
「へへっ、こんな時だからな」
「ははっ、確かに。でも酒は遠慮しとくよ。
これからもう少しやることがあるんだ。悪い」
「なぁーんだよ。釣れねぇな……」
「男は飲んでナンボ。飲まれてナンボだろがぁ?」
「あんたたち山の民と同じにするなよ。
人間は嗜むくらいがちょうどいいんだよ」
「そんなもんかねぇ……」
男は怪訝そうな面持ちで俺を見て、伸び放題な無精髭を一撫でする。
真っ赤な体毛に、色黒い地肌。筋肉質な体格に、黄金の瞳。
俺が山の民と呼んだこの男は、人間の姿をした非人間。
特徴はいくつかあれど、人間と違うところといえば、酒に強いことくらいか。
この世界では人間に近い存在でも、人間同士から生まれなければ人間として認められない。
しかし、そんな古い考えや習わしを重んじているのは、ごくごく一部の人間だけだ。
正直、俺だってどうでもいいと思っているし、人間かそうじゃないか、だなんて些細な問題だ。
文化の違い、考えの違い、様々な違いはぶつかり合い、今や丸みを帯びている。
人間、山の民、海の民、エルフに、フェアリー、その他もろもろ。違いはあるが、問題はない。
「つっても、こんな時間からまだやることがあるのか? 外はもう真っ暗だぜ?」
「んー、分からん。が、ありそうな気がする」
男は皿を持ち上げ、残りを口へとかき込み、満足げな表情で頷く。
「最初はただヒョロガキかと思ったが、そうじゃねぇみたいだな」
「生意気だし、妙に落ち着いてるし、何より肝が変に据わっている」
「その剣だって飾りじぇねぇんだろ?」
足元に立てかけていた剣を見ながら、そんな問いを投げかけてくる。
「バリバリ実用だ。これくらいしか能がないからな」
「ほー。そいつはこわいねぇー」
「ははっ、喧嘩しなくてよかったな」
お互い小馬鹿にした笑いを何度か交わした後、男は食べ終わったのか。
大きなため息と同時に、皿を持って席を立ち上がった。
「じゃあな。糞ガキ」
「ああ、じゃあな。最後まで達者で」
「ふはは、言ってくれるねぇ…」
男はでかい図体を揺らしながら、手を振って店を出て行く。
会計を済ませているときに、なぜだか少し驚いた様子だったか、理由は分からない。
入ってきたときには満員だったこの店も、時間帯からか、少しずつ人が少なくなっていた。
「む」
目の前にあった自分のコップを手に取ると、やけに軽い気がして声が漏れた。
並々に注がれていたグランベリージュースも、今やコップの底が見える程度だ。
「追加で頼むか……。他には何があったか」
店内に掲げられているメニューに目を通しながら、追加の注文を頼もうと手を挙げようとした時。
ふいに白い別人の手が視界に現れ、しっかりと俺の手首が掴まれる。
視界の端に揺れていたのは、長く輝かしい金髪の髪。
「あれ?」
肩の位置まで挙げた手をそのまま机へと戻され。
俺が背後に立っている人物の正体を確かめるよりも早く、隣の席に勢い良く腰をおろした。
「すみませーん!」
人の手を下げておきながら、自分は注文をするために伸び伸びと手を挙げる。
「えーっと、ライ麦パンを二つ! それから豚肉のグリル、オニオンソースで!」
「あとグランベリージュースも! あと……君は?」
「あー、じゃあ俺も全く同じメニューを」
それだけを店の主人に伝えると、忙しそうに厨房に戻っていく。
「もしかしてまだ何も食べてないの? わたしが降りてくるの待ってたの?」
隣に座った彼女は不思議そうな眼差しを俺に向け、立て続けに疑問を投げかける。
「まぁな。あれだ。俺の居た国ではそういうもんだったんだ」
「へぇ~。そうなんだ。どこの国だろ。確かにちょっとだけ訛ってるよね」
疑問を口にするものの、それを俺に投げかけることはせず。
考え込むような素振りで、顎の下に手をあてがい、ふんふんと鼻を鳴らして見せる。
「そんなことより、大丈夫なのか?」
「うん。もう大丈夫」
「ほら、わたしエルフだから、あなたよりも傷の治りが早いんだ」
そう言いながら、金色の髪で隠れた長く尖った耳を俺に見せつけてくる。
エルフだから、その言葉の意味はとても簡単で、傷の治りが早いこと以外にも。
人間より知識の吸収が早かったり、魔法に対する応用力が高かったり、この国ではそんな意味がある。
「あなたこそ大丈夫?」
「ああ、問題ない」
「……そっか」
さっきの男とは種族も性別も違う。
当たり前のことだが、彼女は女性……というよりも女の子で。
金髪と尖った耳、澄み切った碧眼を持ち合わせている。
確かに言うとおり、昨日できたばかりだった顔の傷も消えかかっていた。
まだ表情には幼気を抱えており、大人の女性には程遠い。
「この服、君が用意してくれたの?」
「お気に召さなかったか? 女物の服なんて初めて選んだから、自信は正直なかったんだ」
「ううん。なんというか、とっても可愛らしくていい感じだと思う。このフリフリの部分とか」
「もしかしてそういう服着てる女の子が趣味なの?」
彼女は着ていた服の細部を舐め回すように見つめ、スカートの部分のレースを指で掴んで見せる。
「まあ否定はしない。フリフリは女の子の特権だからな」
「なにそれ?」
腹部は清潔感のある白い布地で、コルセットが入っており、ウエストが引き締まっている。
その上には幼気な面持ちからは想像できない。やや豊満な胸が大きな声で主張をしていた。
スカートも動きやすいように膝丈のもので、緑と白を貴重にした我ながらいいセンスだと思う。
「ジロジロ見て、どうしたの?」
「なんでもない」
「なんでもあるでしょ」
ジトっとした彼女の視線を遮るように、注文していた料理が目の前に置かれる。
さっきの男が食べていたパン。それに豚肉のステーキ。あと飲み物。
まだ最後の晩餐とまでは言えないが、それでも十二分に豪華な食事だ。
「うわ~~っ! すごいね! こんな料理久しぶり!」
半開きになった口元を隠すこともせず、目の前の料理に眼を光らせる。
「ほら、冷めないうちに食おう。こういうのは熱いうちがいいんだぜ」
「うん。そうだね!」
「……でも、その前に一つだけ」
滴る涎を買ってやったばかりの服の袖で拭い、一呼吸をおいてから俺を見る。
それから口を勢い良く開いたかと思うと、ゆっくりと閉じ、それを何度か繰り返す。
天井に登っていくステーキの湯気を目で追いながら、待っていると何度目かに意を決したのか。
舌唇を噛み締め、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
俺はそれだけを返すと、フォークとナイフに手を取る。
「それだけ?」
そんな俺の様子を見ていた彼女は、首をかしげた。
「ああ、それだけ」
「そっか。ありがとうね」
「二回目はいらない。返しておくぞ。ありがとう」
「へへへっ、君って変な人だね」
「よく言われる」
「あ、そうだ、ならお礼代わりにここの代金を出してくれ」
「お前が着ている服代で、俺の財布は空っぽだ」
「え?」
「え?」
「わたし、おかね、ない」
「じゃあ皿洗いだな。頑張れ」
「いや、せめて手伝ってよ」
驚きと怒りを抱えた表情で俺を見つめ、しばらくはそうしていた彼女も。
しばらくしてどうでも良くなったのか、やっとのことで出てきた料理に手をつける。
「あの、あのさ、こういうときにどこから始めればいいか分かんないんだけど」
「まずはフォークを左にナイフを右手に」
「いや、そうじゃなくて! 食べ方じゃなくて!」
「だったら何だ?」
「関わり方? というか接し方というか? 最初は? と言うか?」
頭の上にいくつも疑問符を浮かべては消していく彼女。
その光景がなんだか微笑ましく、思わず笑ってしまう。
「笑い話じゃなくて!」
「えーっと、たぶん、多分だけどまずは自己紹介? からかな?」
「そうかもな」
「えーっと、じゃあ、わたしから」
「わたしは――ミネルア=ユーリ=ソルトバレー」
「ユーリって呼んでくれると嬉しい」
「わかった。よろしくな。ユーリ」
「うん」
自己紹介というコミュニケーションの基礎中の基礎を終えたユーリは満足げに笑う。
少しだけ主張の激しい八重歯が、ガス灯の下で鈍く光っていた。
今更、名前を知っていたなんて言えない。きっとあの時のことを忘れているのだろう。
「俺の名前はヒロト。呼び方は好きにどうぞ」
「ひろと……何ていうの? それだけじゃないよね?」
「あ、ああ――」
何故か期待げな眼差しを向けるユーリの視線を掻い潜り、名前を続けようとした時だった。
「だから出ていってくれと言ってるだろ! どうしてわからないんだっ!?」
ただですら控えめな俺の声が、突然の怒号にかき消される。
店内に響き渡ったその声の主は、何を隠そう、俺達に料理を運んできてくれた店の主人だ。
年相応に老け込んだ顔つきに、やや癖を帯びた髭を蓄えており。
店内の熱気で、うっすらと曇りを帯びたメガネ越しに開ききった眼が見えた。
「………………」
沈黙。
お祭り騒ぎだった店内も、突然の出来事に静まりかえる。
この場合は沈黙こそが正解で、誰しもがそれを理解しており、行動に移していた。
一人を除いては。
「なんだろう? 何かあったのかな?」
食べやすいようカットされたステーキに、フォークを突き立てたまま、ユーリーがこちらを見る。
さあ? と首を傾げるジェスチャーを取ると、同じように彼女も首を傾けた。
「何度も何度も言わせないでくれ! もうどうだっていいんだ! その話は!」
その言葉は、主人がカウンター越しに向き合っていたフードの人物に放たれる。
鼻の一部と口が見えるだけで、深く下げられたフード姿だけでは性別すらも分からない。
「で、ですが、来たるべき日に備え、正しい知識を備えておくことは……!」
主人の言葉に一瞬怯む素振りを見せたフードの人物。
落ち着きのあるその声色から考えるに、女性で俺よりは年上だろう。
「分からないのか!! もういいんだよ! そのことは!」
「誰もそんな話を聞くことを望んでないんだ! 誰も聞きたくないんだ!」
主人が怒りに任せ言葉を繋げる。俺達はただ耳を傾けるだけ。
ほんの前までお祭り騒ぎだった店内も、今やその流れをただ眺めるのみだ。
「お、落ち着いてください。そもそも、取り乱すことは何もありません!」
「教えによると、魂は消滅することなく循環し!
この国、いえ、この世界以外の違う場所……いくつも存在している――」
「出ていってくれ。ここに居るみんな、その話は聞きたくないんだ」
年季からか、若干フレームの曲がったメガネを外し、カウンターに置く主人。
フレームに小さく入った彫り細工は、この国の国章でもある。白百合の花だった。
「…………しかし!」
それでも食い下がらずに女性は、カウンターに詰め寄る。
傍観を続けていた他の客も、苛立ちが募り、些細な挙動が増えてきた。
「ちょっと行ってくる。お前は待ってろ」
壁に立てかけていた剣を傍に寄せ、タイミングを図るように何度か柄を握り直す。
「それはいらないでしょ?」
剣を持っていた方の手首を、ユーリが握ってくる。
「わからないだろ?」
「わたしには分かるの」
手首を掴んだまま真っ直ぐと放たれた言葉。
吸い込まれそうな目から、視線を逸して剣を元に戻す。
それから一呼吸をおいてから、席を立ち上がった。
立ち上がった瞬間に、他の客からの視線も浴びたが、その中には期待も混じっているのが分かった。
「何か問題か?」
カウンターに近づき、主人ともフードの女性とも言えない空いてる空間に言葉を投げかける。
「あ、ああ、君か……」
「さっきは色々と助かった」
俺に視線を向けて、呆れを含んだ表情でため息を吐ききる主人。
「君もまだ無理をしちゃいけない時だろう? 大丈夫だから、食事に戻りなさい」
「そう言われてもな。せっかく商売をするいい機会なんだ。見過ごせないな」
「あなたは?」
主人が二度目のため息を吐ききるよりも前に、女性が俺の方を向き、口元を歪める。
「畑仕事に、倉庫整理、化け物退治に迷子探し。やれることならなんでもやる男だ」
「もちろん。酒場での小競り合いも例外じゃない」
主人と女性を交互に見つめ、反応を伺いつつ距離を詰めてみる。
「あなた……この国の人間じゃありませんね?」
返ってきた言葉は予定外だったが、理解できる範疇のものだった。
「これはこの国の問題です。国外の人間であるあなたが、介入していいものではありません」
「そんなに悲しいこと言うなよ。今や世界に種別も、国境も、宗教もない。そうだろ?」
最後の部分を、傍観していた客に投げかけると、勢いのある反応が返ってきた。
「話は簡単なんだ。ここの主人の店で、あんたは部外者。それだけなんだ」
「で、ですが……いつまでもそうやって……」
「そうやって?」
苦し紛れにひねり出した言葉を追いかけると、女性の下唇は隠れてしまった。
「ほら、ここは酒場で、酒場といえば酒で、ここ居るやつらはただ楽しく飲みたいだけ」
「あんたにそれを邪魔する権利はないし、ありがたいお言葉を聞きたくなったときは寺院に顔を出す」
「だから帰れ。ここ居る全員には好きに生きる権利がある」
俺が出口を指差すと女性を黙って、こちらに背を向け歩き出した。
「あんたも好きに生きた方が良いぞ」
「……余計なお世話です」
それだけを言い残すと、フードから香っていた華の香りを残して出ていく。
ほんの一瞬だけ、店内を静寂が包み込んだが、それもすぐに元通り。
酔っ払った男たちが陽気に歌を唄い。端の方に座っていた男女は、また恋の色を取り戻した。
「これで仕事完了だな」
俺がわざとらしく言葉にすると、一部始終を黙ってみていた主人が三度目のため息を吐いた。
「はぁ~~。まあ、穏便に済ませてくれただけ良しとしようか」
「仕事が終わったんだ。俺には報酬を貰う権利があるな」
「頼んでもいないことを”勝手に”終わらせたんだけどね」
「まあそう言わないでくれ。勝手にやってくれるほど良いことはないだろ?」
「むむ…」
カウンター越しに主人と、言葉のいらない取引を交わしていると横から小さな影が乱入してきた。
「どうなったの?」
ソースで口元を汚したユーリが、現れるや否や、興味が隠せない表情で俺を見る。
「問題なしだ。それにここの食事代も主人が持ってくれるらしい」
「へっ!? そ、そうなの!? やったぜ~~っ!」
「はぁ……。まあ、そろそろ潮時だと思っていたし、それくらいなら」
「……助かる。ありがとう」
「あ、ありがとうございます」
主人に頭を下げると、それを見ていたユーリも同じように頭を下げる。
「じゃあ部屋に戻ろうか?」
「いや待ってくれ。まだ俺は食い終わってない」
「だいじょうぶ」
「……だいじょうぶ? ってお前まさか」
「そのまさかだよ!」
俺達が座っていたテーブルを見ると、上に置かれたお皿は綺麗さっぱり。
遠目で見る限りは、添えられていた野草すらも残っていない。
「まあ、食う子は育つって言うしな。勘弁してやる」
主人にもう一度頭を下げ、客たちの座るテーブル横を通り抜ける。
まだまだ飲み足りない連中は、酒ダルを空にするまで飲むつもりなのだろう。
そんな喧騒を聞きながら、二階へと上る階段を歩く。
ここは一階が酒場。二階が宿になっていて、酔いつぶれたまま寝れる最高の場所だ。
二階にはいくつかの部屋があるが、俺たちの部屋は通路の突き当り、一番奥。
歩くたびに軋む木製の廊下を、進んでいるとユーリが少しだけ不満げな声色で話しかけてきた。、
「あのさ、あのさ、聞きたいことがあるんだけど」
「ん?」
「わたしのこと何歳だと思ってる?」
「十二か三くらいか? エルフは少し分かりづらいがそれくらいだろ?」
「むっ」
「その顔は正解だな」
顔の小さなパーツを使って、あからまさに不機嫌な顔を作ってみせるユーリ。
八の字に曲がった眉は、ピクピクと痙攣している。
「十七なんですけど?」
「ははっ、面白いな。女子は十七に憧れるって言うもんな。……ぐぅっ」
「マジだよ」
「え? まじかよ」
はははと声に出して笑う俺の横腹に無言の、正拳突きをかましてから、真剣な面持ちでそう話す。
力こそはないものの、当たりどころが悪かった。
「まあ、そう言われると納得できる部分もあるというか……んー、そうだなぁ」
「どこみてんの?」
「この国の未来、かな?」
「未来なんてないでしょ」
「たしかにな」
扉の前で立ち止まり、持っていた鍵で扉を開ける。
「お先に!」
「おいおい」
扉を開けた横から、ユーリが我先にへと部屋へと入っていく。
部屋は質素なもので、大きなベッドが一つに丸いテーブルが一つ。
それに合わせて二人用の椅子が用意されているだけの、無駄のない作り。
部屋はほんの少し埃っぽい気もするが、屋根と壁があるだけで万々歳だ。
「あっ!! 脱いだ服そのままだった~~!」
ベッドの上に散乱していたボロボロの服をかき集め抱え込み、照れ隠しの笑みを見せる。
「もういらないだろ? 捨てて良いんじゃないか?」
「んー、そうだね」
そう言いながらも綺麗にたたみ直し、ベッドの隅へゆっくりと置く。
「あははっ……」
服についていた汚れが、ユーリの白い肌に付着し、それに気づいた当人が指でこする。
「それで?」
「うん」
扉を背中越しに閉め、ランプに火を灯す。
「どうする?」
「どうしよ」
俺の言葉に反応する人形のように、ただただ頷き、濁りげのない表情でこちらを見るユーリ。
「ヒロトはどうするの?」
「まだ考えてない。考えなくていいのかもしれんが」
部屋においてあった鞄から地図を取り出し、テーブルに広げる。
今までに何度もお世話になったものだ。至る所が傷つき、小さな破れも見えた。
「じゃあ一緒に考えてみるか」
「うん!」
椅子に深く腰を下ろし、食い入るように地図を見つめるユーリ。
俺も椅子を引き寄せ、地図を挟んで対面に腰を下ろす。
「この丸がついてるのは何なの?」
ユーリが指差したいくつかの丸印。炭で書かれたものだったり、赤い絵の具で書かれたものだったり。
「ああ、それは今までに通ってきた町や村に印をつけている」
「じゃあこのバツは?」
地図に転々とあるバツ印。それはどれも黒く滲んだ赤で書かれたもの。
「それは仕事を終えた場所につけてある。忘れないように」
鞄から小さな炭を取り出し、新しいバツをつける。
「今いるのはこの村だ」
そしてそのバツからそう遠くない村に新しい丸をつけた。
「あははっ、走るには結構な距離だね」
「荷物を持っては尚更な」
俺の言葉に小さく頬を膨らませてから、えへへと笑ってみせるユーリ。
「ユーリはどこか行きたいところとかないのか?」
「んー、そうだなぁ……。いきたいトコ、いきたいトコ」
顎に手をやり、うんうんと唸りながら地図の隅々まで見渡していく。
ひとしきり見終わってから、ゆっくりとその指をとある場所においた。
「ここかな?」
ユーリが指差したのは地図の端。ぽつんと書かれた森奥の村。
地図に名前も書かれていないことから察するに、それほど大きな規模ではないのだろう。
「そこは?」
「わたしが生まれた村」
「なるほど」
生まれた村。そこに行きたいというのはごくごく自然なことだ。
理由も必要ないし、今となっては一番の正解に思える。
「ヒロトも帰るの? 自分の村に、あ、でもこの国の人じゃないんだっけ?」
「あれ? でもでも、ここからだと国境までは三週間くらい掛かっちゃうね……」
「最初から帰るつもりはないから、心配無用だ」
様子を伺うように俺の顔を見据え、安心した様子で息を吐ききる。
「じゃあどうするの? ずーっとこの村に居ておしまい?」
「それも悪くないとは思う。ここはもう平穏そのものだしな」
「…………ふーん。そうなんだ」
小さく何度か頷いて、地図と俺の顔を行ったり来たりする視線。
「あのね、あのねヒロト」
「ん?」
「一緒に来ない? わたしの村まで」
「どうして?」
「さあ?」
ユーリの口から飛び出した提案。
そして思わず飛び出た疑問の声。
返ってきた言葉は更に疑問。
疑問が積み重なり、その先に残っていたのはただただ笑うユーリの顔。
「まあ、仕事の依頼なら喜んで。それで報酬の方は金か、金目のものなら助かる」
「えと、えとね、お仕事じゃないんだけど。そもそも、お金持ってないし」
「何も渡さず、何もよこさずこんな辺境の村までお供しろってことか?」
「む、むむーっ、なんだか失礼な物言いだなぁ~!」
この村からだと歩いて二週間。
海側のルートで船を使えばもっと早いかもしれないが、定期船はもう動いていないだろう。
さすがに今からの二週間をユーリの為に使えるのか? 何の理由もなしに?
「あ、そうだ! じゃあ報酬はすっごく綺麗な景色でどう!?」
「景色?」
「うんうんっ! 村からほんのちょっと歩いたところにね、森に囲まれた泉があるの!」
「深さはそんなにないんだけど、水がすごく澄んでて冷たくて! なんだかいい匂いもするんだ」
「泉の周りには、なんだろう、えーっと甘くて小さな木の実がなってて! そのね! あのね!」
「あっ、あっ、絵を描いたら伝わるかな? 絵の具……とかは持ってないよね」
「いや、もういい」
「え? いやいや、最後まで聞いてってば! 絶対に行きたくなるからっ!」
手のひらをこちらに突き出し、焦ったような表情で俺を引き留めようとするユーリ。
そんな彼女の小さな手をゆっくりと握り、俺は最後を決めた。
「分かった。ユーリが言う、その場所に行ってみよう」
「本当に?」
「本当に。特にやるべきこともないし、目的がないままなのも性に合わないしな」
「良かった。でもそれって――」
無邪気な子供のような笑顔を一瞬こわばらせ、出かけていた言葉をぐっと飲み込むユーリ。
「ああ、これまで色んな仕事を、色んな人からの頼みでやってきたが」
「最後くらいは自分で」
途切れ途切れの言葉を吐き出すと、ユーリは初めて会ったときのような笑顔を見せてくれた。