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蟲の声

作者: ムーン

タイトルは蟲ですが、そこまで細かい虫描写はしていないので、虫嫌いの方はご安心を。






うだるような夏の暑さに負け、俺は長屋で一人天井を眺めていた。

眺めていても特に面白いことは起きない、せいぜい虫が落ちてくるとか、雨漏りのシミが顔に見えるだとか、その程度。


ふと起きて、自分の汗で湿った浴衣を脱ぎ捨て、また寝そべる。

素肌に古い畳が触れて、不快が増した。

家具の裏に隠れているであろうネズミどもに向かって声を上げた。


「俺ぁこれから寝るが、耳だの鼻だの齧るんじゃねえぞ、まだ生きてるからな!」


暑さで死んだなら好きに食え。

言葉に出さずともアイツらはそうするだろう、なんて意味もないのに考えて眠ったからだろう。


妙な時間に目が覚めた。


灯を買うような金はない、あっても食い物か女に使う。

自分の指も見えない暗闇、手探りで浴衣を探し、長屋を這い出た。


夜になれば暑さも少しはマシになる。

とはいっても快適ではない、全くの不快だ。

ジージーという鳴き声も不快だ、知り合いの博打打ちは「あれァミミズだ」なんて言ってたか、俺は「ミミズが鳴くわけねぇだろ」だとか言って、ちょっとした喧嘩になった。

顔に二つずつ青あざを作って、「なら今度それで博打をしよう」と話したか。

まだ博打を打ってはいないが、それで手打ちではあった。


どうせなら今確かめておいてやろう。

これ以上金がなくなっては食うに困る、本当にミミズが鳴いているのなら難癖つけて博打を降りよう。


そう思って、俺は道を外れた田んぼの横の柔らかい土を掘ってみた。

道端で拾った小枝が存外役に立つ。

とはいっても暗闇なので、ミミズが出てきたところで手に触れなければ分からない。

あの柔らかく細長い物体が手に触れるのを想像すると、少し涼しくなった。

表面よりも冷たい地中を羨みながら、拳が埋まるほどの窪みを作って掘るのをやめた。


虫だとかなんだとか、そういったものは嫌いだ。


ハナからやらなければいいものを、そこまで考えが及ぶ頭ではない。

結局、その夜は家に帰ってまた眠った。




ごろごろと畳の上を転がりながら、家具の裏から覗くネズミに紙くずを投げる。

俺の家に間借りしたけりゃ金を払えってんだ。


「よォ、相も変わらずぐうたらだなァ。きょうびネコでもお前より働いてるってのによ」


名乗りもせず家に上がり込み、挨拶代わりに侮辱する。

知り合いの博打打ちだ、昨日は勝ったのだろう、今日は珍しく機嫌がいい。


「バカ言うな、俺ぁアイツらより働き者だ」


「こうして家に来て、体を縦にしてるところ見たことねェ」


「俺ぁお前と違って横になって生活する生き物なんだよ」


「こりゃ驚いた、十年来の友人は妖の類だったか」


ゴミ同然の荷物を蹴りどかして座り込む。


「てめぇに貸すような金はねぇぞ」


「金の無心に来るほど落ちぶれちゃいねェさ。ほら、こないだ話したろ? 博打打とうかって」


「あー……本気にしたのかよ」


昨晩目が覚めたのは天啓だったのかもしれない、鳴き声の主を確認しておけとの。

それを俺は無視してしまったのか。


「お前と俺には金と器量はねェが時間だけはあるんだ、ジージー呑気に鳴いてるミミズを掘り返してやろう」


「器量がねぇのはてめぇだけだ、てめぇの顔をまともに見りゃ夜鷹だって逃げだすね」


「さァ行こうさァさァ行こう、ミミズで遊ぶのなんざ何年ぶりか」


「ミミズで遊ぶのなんざてめぇだけだ、お前がミミズほじくり返してる間、俺ぁセミでも捕まえてたね」


人の話を聞かないのはコイツの悪い癖だ。

悪い癖が多すぎて霞んでいるが、俺はこの癖が一番嫌いだ。

人が言うにはコイツの一番悪い癖は博打らしいが、他人に金を借りようとしないんだから好きにさせりゃいいと思う。



真昼間の太陽は親の仇より憎い。

まぁ親の仇なんて俺にはいないから、比べられはしないのだが。


「いやァ暑い、毎年言ってるが今年は特に暑い」


「だから嫌なんだ……夜にすりゃいいのによ」


「夜じゃ何も見えやしねェ、灯を買う金があるなら丁半するね」


「なくなるだけなんだから灯を買えよ」


「バカ言うな、勝てば灯が倍買える。その金でまた勝てばその倍買える。その金をまた──」


「あぁ、あぁ、分かった分かった。好きなだけ打ちゃいいさ」


コイツの博打好きにはほとほと呆れる。

だがま、他人に迷惑かけなければどんな趣味でも構わないか。

無心に来るようになったら殴り倒そうと決めているのに、コイツはその気配すら見せない、だからこうして付き合いを続けていられる。


「お、お、お? 聞こえる聞こえる、ミミズの声だ」


「ミミズかどうかまだ分かんねぇだろ」


神社の境内に不躾に入り込み、挨拶なしに木の根元を掘り返す。


「おい、どこ行くんだ。探すの手伝えよ」


「神社に来たらまずカミサンに挨拶しなきゃなんねぇだろ」


「信心深いねェ」


「しねぇから負けるんだ」


「……俺もする」


「もう遅い」


「ここで勝たせてください! 神様仏様!」


「ここにゃ仏はいねぇ」


そこまで神様というものを信用している訳でもないが、コイツが負けるのはそういうところが原因だななんて思ったりはする。

信教はないが、敬意は一応払っておく。

死んだように生きている俺の唯一の人間らしさだろう。


「さてさて参りも済ませたし、とっととミミズ掘り当てなきゃな」


「だからミミズかどうかまだ分かんねぇっての」


「ミミズやーい、ミミズよーい」


「聞けや」


人の話を聞かない。

今まで何度言ったか分からないが、何度でも言おう。

コイツのこういうところが大嫌いだ。



大の男が二人、境内で穴を掘る。

はたから見たら何かに憑かれたとでも思うのだろう。

だが今更人目なんて気にしていない、汗も拭わず穴を掘ろう。


額から染み出て頬を伝って顎から落ちる。

変わらないはずの道筋を外れる馬鹿な汗が目に染みる。

冷たく湿った地中に汗が落ちていく。


「おっ、いたぞ」


そう言って見せてきたのは帯締めほどの太さのミミズだ。

手のひらでのたうち回っている。


「気持ち悪ぃ、見せてくんな」


「お前は本当にこういうの苦手だなァ、いいからほら、鳴いてるかどうか確かめるぞ」


「……耳に寄せるのか?」


「嫌なら俺の不戦勝だ」


「絶っっっ対に手から離すなよ」


肩に落ちたら、耳に入ったら、コイツをぶん殴って埋めよう。

そう決めて固く目を閉じた。

うにうに動くミミズが耳のそばにいるなんて、想像しただけで総毛立つ。


「何か聞こえるか?」


「いや、何も」


「おかしいなァ……おら、鳴かねェか、鳴かねェと喰っちまうぞ」


「てめぇなら本当に食いかねんな」


とりあえずは一安心。

ミミズが落ちてこなかったことと、ミミズが鳴かなかったことに。

コイツに払う金はない、払う分でなくとも金はない。


「……ん? おい、何だこいつ」


ミミズを放り投げて掘り進めていると、また何か見つけたらしく手のひらを広げた。


「ケラだな」


「揚げたら美味そうだな」


「……かもな」


本気で言っているとしか思えない表情に、嫌味すら言う気にならなかった。

ケラは手のひらの上で苦しそうに足をうぞりと動かしていた。


「今は関係ねぇんだから土の中に戻してやりな」


「ああ分かって──ん? いや、待て、鳴いてる」


「はぁ?」


「ジー……って、聞こえねェか」


「……ん、聞こえるな」


耳に寄せられた黒い塊、それはジー……と弱弱しい鳴き声を上げていた。

地中から聞こえてくる声は、コイツのものだったのだ。

つまり、ミミズではない。

つまり、俺の勝ち。


「俺の勝ちだ!」


「うォっ、いきなり叫ぶな。ったく。」


「俺の勝ちだ」


「分かった分かった、ちくしょう、払えばいいんだろ払えば」


そういえばいくら賭けるかは決めていなかった、コイツはいくら払う気なのだろうか。


「ほら! 持ってけドロボー! 俺の有り金全部だ!」


「お前が勝手に打って勝手に負けて勝手に渡すんだろ、誰がドロボーだ誰が」


投げ渡された銭を拾い、数えながらほくそ笑む。

今夜はいつもより多く酒が飲める。

貯めないのかって? 俺は宵越しの金は持たない主義だ。


「ちくしょう!」


相当腹が立ったのだろう、空になった巾着を帯に挟むと、まだ持っていたケラを参道に叩きつけた。


「お、おい! 弱ってるのにそんなことしたら死んじまうぞ」


「知るか! 死ねばいいんだンな虫けら!」


「確かにコイツは虫のケラだけど……」


面白くないシャレは彼をなだめるには至らず、そのまま参道のド真ん中を歩いて帰って行った。


「真ん中は……ああ、行っちまった。この金で飲みに誘おうかとも思っていたのによ」


元々はアイツの金だし、一人酒というのも寂しいものだ。

参道の端で弱々しく震えるケラは、足が二本吹っ飛んでいた。


「あーあ、可哀想に。悪いな、妙な賭けに巻き込んで」


虫が人の話を聞くはずもないのに許しを乞うたのは、ここが神社だったからか。

とにかく俺はケラに謝って、小枝を使って青葉の上に乗せた。

そうして運んで、穴の奥に落とした。

軽く土を被せ、軽く叩く。

色の変わった地面が馬鹿な博打の目印になった。


「死ぬかな……死んだらコレが墓標ってことで」


大丈夫だろうと思いつつ、ケラを運ぶのに使った小枝を墓標に見立てて突き立てた。

二秒ほど手を合わせ、立ち上がる。

参道に戻った瞬間、風が吹いた。


青々しい葉が何枚も散って、俺をめがけて落ちてきた。

少しばかり異様な風景に魅せられ、境内の木々を見渡した。

風が止むと静かなもので、通りの喧騒すら聞こえない。

まるで別世界にいるような──考えすぎか。


神社を後にして、家路についた。

宵越しの金は持たないと言っていたが、今日は飲む気にならずそのまま眠った。

金は明日使おう、少しいい酒を頼もうか、いつも通りの酒を多く頼もうか。

迷ってしまうな。



夢だったのかまどろみの中の幻覚だったのかは分からない。

俺の意識は覚醒しておらず、ぐるぐると天井が回っているように見えた。

薄っぺらい布団の下の、畳の下、そこから響く"声"。


ジー……ジー……


うるさいな。

ああ、そういえば。

うるさいを漢字で書くと「五月」の「蝿」になるそうだ、だがこの声はケラのものだ。

虫は虫でも種類が違う。

……蝿って鳴くのか? 羽音でもなく?

なんて、細かいことを気にするのは俺の悪い癖だ。

アイツの"人の話を聞かない"癖よりマシだとは思う。


「……ああ! もう、うるさい!」


飛び起きて布団を叩く。

固まった綿の感触が返ってくるだけで、虫の声は聞こえない。


「…………あれ、夢か?」


夢の中で虫が騒ぐなんて、ましてやケラだなんて、昼の出来事を気にしすぎてはいないか。

自分でそう、自分を馬鹿にした。


──おれい


「ん?」


声だ。

今度は虫ではない、か細い人の声。

子供か、女か、はたまた細っこい男なのか。

それは分からない。


──おれい、する。……のこえ、きこえる、ように


「何だ?」


長屋の隣は酒乱の親父だったはず、こんなか細い声は出せない。

反対の隣は若い男だ、こちらもこんなか細い声は出せない。

それに、この声は下から聞こえる。


『虫の声が聞こえるように』


今度はハッキリと聞こえた。

それを最後に声は聞こえなくなって、俺の眠気も戻ってきた。

外からは虫や蛙の声がいつも通りに聞こえていた。

下からは何も聞こえない。

部屋で音を立てているのは壁を引っ掻くネズミだけだ。


「んだよ、寝ぼけてんのか?」


誰に言うでもなく独りごちる。

夢、そう結論付けた。

その結論が間違っていると気がついたのは、翌朝だった。



『おはよう』

『おはよ、おじさん』

『おにいさんだよ、ウソでもそういわないと』

『あっ……ごめんなさい、おにいさん』


どこからか聞こえてくる挨拶、それが通りの人々ではなく、俺の部屋で俺に向かって言われていると気がつくのには時間がかかった。

目の前を飛び回る蛾が話していると気がつくのにも、時間がかかった。


「……なにこれ」


『おじさん、ゴハンは?』

『おにいさんだって』

『あっ……ごめんなさい、おじさん』


「え? なに、虫? の声?」


『おじさん聞こえるようになったって聞いて、見に来た』

『おにいさんだって』

『聞こえてる?』


「ああ、うん、聞こえてる……じゃなくて、何で?」


昨晩の夢か幻覚かは現実だったのか? いや、だとしても納得がいかない。

おれい……お礼? お礼、なんの?

まさかケラの……いや、ありえないな。


『知らない』

『聞こえるようになったって聞いただけ』

『なんでか、知らない』


「そうかよ……まぁ、考えても仕方ないか」


虫にこうも話しかけられては眠る気も失せる、昼間に開いている酒屋などいくらでもある。

昨日の勝ち金を使い切るとしよう。


そう思って外に出て、相変わらず人通りの多い大通りを歩いていた。

十字路に差し掛かった時、また声が聞こえた。


『おにいさん、止まって』

『あぶない』

『あ、そうだ。足だけ出して』


「はぁ?」


着いてきていたのか、この蛾。

言う通りにする義理はないが、特に損もないだろう。

言われた通りに右足を出した。


すると、全速力で走っていた男が俺の足に引っかかって転んだ。

……損だった、これで難癖つけられてはたまらない。

逃げるか?

そう考えた瞬間、二人の男がその転んだ男に馬乗りになった。


「捕まえたぞこそ泥!」

「さぁ返せ!」


呆然とその光景を眺めていた。

しばらくしてその騒ぎが収まると、後から来た男達の片方に話しかけられた。


「いや、助かった。店の売上を盗まれてな……あ、ひと串あげるよ、お礼ってことで」


男は団子屋の店員で、捕まった男はその店の金を盗んだ泥棒。

俺が足をかけたおかげで追いつけて、捕まえられて、助かったと。

で、そのお礼にと団子をひと串……得だった。

言う通りにして良かった、のか?

いや、良かったな。

これで腹が少し膨らんだ。


『おだんご、おだんご』

『あまい、あまい』


「……一個やろうか?」


『たべられない』

『口、ない』


「そうなのか、それは残念だな」


蛾に口がなかったとは知らなかった、そこまでじっくり見たことはないし、そもそも興味もなかったからだ。

だが、こうやって話すようになると興味も湧く。

地べたを這いずり回る気持ち悪い毛虫やらと違って、ひらひら飛んでいれば可愛いと思えなくもない。

どうせなら蝶が良かったな、なんて考えたり。


「お? 偶然だな、俺の金で食う飯は美味かったか?」


「まだ使ってない、あとアレはもう俺の金だ」


「まぁそうだな、俺は負けたし。ああ、これから丁半に行くんだ、一緒に来いよ。使ってないならまだあるだろ? 今持ってるか?」


「いや、俺ぁこれから飲みに……」


「今日は勝つぞ!」


話を聞かない癖はやはり最悪だ。

だが、それを断らない俺も俺だ。

大して好きでもないのに、博打に連れていかれるなんて、これは損だ。

どうせならコイツが来るのも知らせてくれればよかったのに。



蒸し暑い部屋の中、大勢の男が集まっている。

この空気が嫌なんだ、息が詰まる。


「はい、ツボ」

「はい、ツボ開きます」


暑い。

もう勝っても負けてもどっちでもいい、早く部屋を出たい。


「おい、お前どっちにする? 俺は……んー、こないだ丁で負けたし」


「二つしかないんだから半でも負けてるだろ」


適当にやろう、確率は半々なのだから。

いや、賭け金が少ない方に賭けた方がいいのか?

誰かが繋がっている可能性も考えて──


『おにいさん、ちょう』

『ちょー、しにのちょー』


「……丁?」


「お前丁か? じゃあ俺は半だ!」


「え、あ、いや」


蛾に丁半のやり方が分かるのか? シニとか言ってたが……まぁ、口に出してしまったから仕方ない、賭けよう。


「うわっ、丁だ……おい、お前勝ったぞ。俺は負けた」


「……へぇ」


「なんだよ、もっと喜べよ、もうやめるか?」


「いや、もう一回」


「珍しいな! やっと博打の楽しさが分かったか!」


博打の楽しさ? それは違う。

博打の楽しさは勝つか負けるか分からない緊張感だろう、金額が上がれば上がるほどそれは増す。

だが、俺が楽しいのは勝つと分かったからだ。

俺は絶対に勝てる。


『ぴんぞろー』


「……よし、丁だな」


「いやいや連続はない! 半!」


出目は一と一、俺の勝ちだ。

横で叫ぶ博打好きを無視して、勝ち分を全て賭ける。


『しそうー』


「……半か」


「二度あることは三度ある! 丁だ!」


意地でも俺と同じにしないな、そんなに負けたいのか。

まぁいい、一人勝ちの方が優越感がある。

他にも人がいるから本当に一人勝ちにはならないのだが。


結局、その日俺は全てに勝った。

全財産がと叫ぶ奴の隣に居たくはない、俺は部屋を出ると早足で歩いた。


「まーて待て待て待て待て、なんだよお前、強いんじゃないか!」


「うるさいな、奢ってやるから黙れ」


「……いや、それは俺の主義に反する。俺が賭けで勝ったらお前に奢らせる!」


夕日を眺めながら酒屋を探す、この辺りまで足を伸ばすことは滅多にないから、どの店がいいかは分からない。


「よし、次にそこの蕎麦屋から出てくるのが男か女か、で決めよう」


くだらない賭けを思いつくな。

もはや感心の域だ。


『……おとこ』


男か、なら。


「じゃあ女」


「う、じゃあ俺は男。って俺に決めさせろよ」


わざと負けてやろう。

ここでコイツの機嫌を悪くしても仕方ない、金はあるのだから、奢ってやろう。

一人酒はつまらない。


「ん……男だ! おい、見たか、俺の勝ちだ!」


「おう、じゃあ奢るぞ」


「はは! やったやった!」


奢ってもらえるから、ではなく純粋に賭けに勝ったから喜んでいる。

本物の博打好きだな。

それにしても単純なヤツ。

何故わざと負けたのか、なんてしつこく聞いてくる蛾達を無視して酒をあおった。




酒を浴びるように飲んで飲んで、そんな日が毎日続いた。

賭けに負けることはないのだから、金に困ることもない。

元金を残すのを忘れずに、毎日毎日遊んで暮らした。


「いやぁ、便利だな。お前らは」


何も聞こえるのは蛾の声だけではない、全ての虫の声が聞こえる。

人の喧騒に虫の喧騒が混じっただけだ、虫の鳴き声を楽しむような趣味ではなかったから、不快なことは何もない。

賭けでなくとも、虫の話はそれなりに面白い。


特にこの季節はセミがよく鳴いている、大声で「夜のお相手」を募集するのは、人間からしてみれば滑稽極まりない。

っと、虫は別に夜だけでもないのか。それは余計に面白い。


まぁとにかく、俺は面白おかしく暮らしていた。

これからもずっとそうやって暮らせるのだろう。



『……そろそろ?』

『聞いてくる』

『……どうだった?』

『もうちょっとだって』



このところ、俺が眠った後、蛾達が何かを話していることが多くなった。

時期を見ているような言葉、何の時期かは言わない。

それだけに気分が悪い。

だからといって会話に参加するのものはばかられる、虫ごときの会話に気を散らすなんて、人間として恥だろう。

虫のおかげで暮らしているのも忘れて、俺は前以上に虫を見下すようになった。


博打好きの知り合いとの付き合いも薄くなっていた、アイツの方はたまに誘ってくるのだが、俺が断っていた。

金の差というものは付き合いにまで現れる、奢ると言ってもアイツは「賭けで勝ったら……」と言い出すし、アイツは金がないから酒屋の質も自然と下がる。


嫌いだったはずの一人酒にも慣れた。

女も毎日のように買えるようになった。

だけど何故か満たされない、どこか足りない。


前の方が良かったとは言わないが、心のどこかはそう思っていた。

上等な酒を飲んで、上等な女を抱いて、上等な布団で眠る。

毎日毎日、博打を打って上等な暮らしを続けていた。



『……明日だって』

『本当にいいの?』

『おじさん、もう楽しくなさそうだし、丁度いいよ』

『前までは私達にもお酒くれようとしたりしたのにね』



素晴らしい暮らしも慣れるとつまらない、引っ越しを考えた頃だ。

蛾達が面白いものがあると言ったのは。

山奥にそれはそれは素晴らしい宿があるのだと。

その宿の代金も今なら払えるだろうと。

山奥の素晴らしい宿とはおとぎ話のようで信じ難いが、虫と話せる俺だ、妖の宿に招待されても不思議ではない。

二つ返事で宿への案内を頼んだ。


「おい、まだなのか?」


『もうちょっと』

『もうちょっと』


「もう暗くなってきたぞ、俺ぁこんな山で野宿なんざお断りだ」


『声をたよりに』

『私達を追いかけて』


太陽が沈み始めて、足元はもう見えなくなっていた。

空を見上げれば枝葉の隙間から薄く赤い空が見えた。

蛾達の声だけを頼りに歩く、腰ほどの高さの草をかき分け、歩く。


『こっち、こっち』

『ここ、ここ』


宿の灯りだろうか? ふわふわとした丸い光が見えた。


「よし、着いたんだな……うわぁっ!?」


宿の前庭があるはずの場所、石やらが敷き詰められて道が作られているはずの場所。

そこには何も無かった。


地面につくはずの足は虚空を踏み、体を前に投げ出させた。

崖だ。

俺は崖の上から落ちたのだ。


尖った岩場を滑り落ち、身体中に裂傷ができる。

地面に叩きつけられて、肺の空気が追い出された。



幸か不幸か即死ではなかった。



立ち上がることはできない。

手も、動かない。

黒く変わっていく赤い空を眺めることしかできない。

……いや、やれることはもう一つあった。


「お……い、蛾、いるのか、いるんだろ」


呼吸をする度に胸に激痛が走る、折れた骨でも刺さっているのだろう。


『なぁに、おじさん』

『おにいさんだって』


「どぉ……いう、ことだ。宿、は…?」


『ウソだよ』

『ケラに頼まれたの』


ケラ? 神社に居たあの虫か? アイツに俺を嵌めるような理由があるのか?

薄まっていく意識の中、走馬灯のような景色を見て、そこで考えた。

ケラを掘り返して、鳴き声を聞いて、投げ捨てられたケラを拾って、埋め直した。

……その後、お礼だとか言って虫の声が聞こえるようになった。


「俺は……助けた、だろ、アイツを」


もう目が見えない。

目の前に飛んでいるはずの蛾が本当に居るのかも分からない。

声も聞こえない。

それは俺が重傷だからなのか、蛾達が黙っているのか、それも分からない。


「助けた……俺は、埋めて、やった……助けてやった」


意識がなくなるまで、いや、意識がなくなってもそう呟いていた。

息が止まるまで、うわ言を繰り返した。





『これでいいの?』

『これでいいの』


温度を失っていく男の体の上で、蛾が舞う。


『どうして? ケラは、助けられたんでしょ? 土の中に戻してもらえなきゃ、死んじゃってたんでしょ?』


『そもそもおにいさんが掘り返さなきゃ、怪我もしなかった』


『でも……』


『足がなくなっちゃったせいで、上手く土を掘れなくなったんだって』


『…………』


『あのまま死んだ方が、楽だったかもって』


『でも、おじさんは』


『おにいさんも、この方がきっと幸せ』


裂けた皮膚を剥がすように、割れた肉の間に潜り込むように、虫達が男の体に入っていく。


『何もせずにただ生きているだけなのを、少しの間だけ楽しく生きられた』


『でも、最後の方はあんまり楽しそうじゃなかったよ』


『だから、ちょうど良かった』


宿の灯りを努めた蛍達も、男の体に降りてくる。

柔らかで儚い光に照らされて、色の白い皮膚をまだらに染めた赤が輝く。

死によって強調された生の退廃的な美は、虫という大量の生によってまた引き立つ。


『このまま、たくさんの子供たちのオウチになるの、ゴハンになるの』


『それは幸せ?』


『種を繋ぐのは無上の喜び』


『そうかな?』


『そうだよ?』


人間の幸福が何かなど分からずに、蛾達は美しく舞う。

大きな死の上で、中で、小さな生は全てを謳歌する。


『そうなのかな』


『そうなんだよ』


『きっとそうだね』





夏が終わる頃、残暑が人の心を優しく締め上げる真昼。

博打好きの男は今日も長屋の一室を訪ねていた。


「やっぱりいねェな」


このところ金回りも良かったし、引っ越しでもしたのか、でも荷物も残っているし、次の住人もいない。


「どこ行ったんだ……ん?」


家主が博打に勝つようになってから着なくなったボロボロの浴衣。

ほつれた糸に足を絡めたネズミがか細い鳴き声を上げていた。


「…………」


助けてやろうだとか、可哀想だとか、そんな思いもなくただなんとなくその糸を解いた。

家具の裏に逃げていくネズミを見送らず、長屋を後にした。


──おれい、する


「ん?」


男は大通りの中、自分だけに向けられたようなか細い声を聞いた。







私の投稿している短編の雰囲気と文体は全部こんな感じです。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 古き良き日本の怪談という感じがして、とても良かったです。 現代日本の都市伝説とかも面白いですが、こういった単純に怖いだけじゃなく、読み終わった後に色々と考えさせられる話もいいですね。 登…
[一言] 虫は言うほど好きじゃないですが、何だか可愛く思いました(笑) また、どこか残虐な冷酷な部分が、虫らしい気もします……。 とても不思議で、個人的に好きなお話でした。
2018/06/29 18:35 退会済み
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