最後の魔法
我々は決断の時を迎えたのだ。最後の魔女が生まれた。運命の輪が回りだす証。新しい時代の幕開けだ。我々は滅びなければならない。
それは宿命。新しい未来のための宿命。我々はそれを受け入れる決断をした。最後の魔女に魔法は教えないと。あの子の運命はあの子自身に託すことを。だが、私は悩んでいる。あの子だけが魔法を知らぬ魔女として生き続けなければならないのなら、それは悲しむべきことではないかと。
それでも、それはどうしようもないこと。ならば、せめて魔女の呪縛から解かれる魔法をかけるべきだろう。それがあの子にとって最良なのかどうか、私にはもう見えないけれど。せめて、幸福になれるようにありったけの願いを込めて魔法をかけよう。最後の魔法を。
川に何人かの女たちが沈められていく。生きたまま。魔女ならば死ぬことはなく、人ならば神の御許に向かう。死なぬものは魔女として火あぶりになる。結局は、殺すと言うことだ。そうやって何の罪もない人間が死んでいった暗黒の時代があった。
あたしは覚えている。まだ、覚えている。かあさまが、水に沈められ、生きていたから火あぶりにされたことを。そのときの、民衆の反応を。誰もが惨いと思わずに、魔女狩りにあけくれた日々。毎日のように火あぶりになる女たちは、貧しい身の上のものばかりだった。
神などいない。いや、あたしは神など信じない。魔女の娘である限り。かあさまとのあの穏やかな日々を忘れない。目の前で焼き殺されるかあさまを忘れない。絶対に忘れない。
あたしがものごころをついたときに、弟が生まれた。両親は弟につきっきりで、幼いあたしは朝から晩まで家事をした。早朝の水汲み、朝食の支度、家の掃除、家畜の世話。すべてが当たり前のように回っていく。弟が学校に行く年になったころ、あたしは人買いに売られた。
おしゃべりな人買いは、あたしをかわいそうにと言ったがあたしにはその意味はわからなかった。ただ、あたしはあの家の本当の子供ではないことがわかっただけだった。あたしは、母方の姉の娘。弟にとっては従姉だったのだ。生みの母は、お針子をしていた。遅くなったある晩に、男たちに蹂躙され、あたしを身ごもったのだと人買いは言った。
誰の子であれ、何の理由であれ、堕胎は罪。母は、あたしを生んで発狂して川に落ちて死んだそうだ。乳飲み子のあたしは、子供を亡くしたばかりの母の妹夫婦に引き取られた。だが、実の子である弟が生まれた日から、あたしはただの厄介者にすぎなくなったのだろう。
それでも、別に恨む気持ちなど沸きはしなかった。ああ、そうだったのかと思っただけだった。人買いはお前は運がいいという。お大臣様の家で働けるからなという。眠る場所も、食べるものもこれまでとは雲泥の差だと笑う。それがどういう意味なのかもあたしにはわからなかった。
そんなおしゃべりな人買いは、道を間違えたのか街とは反対の森の中へと入っていった。森に入ってからはおしゃべりは止んだ。そして、あたしたちは熊に遭遇した。熊はまるであたしが見えていないかのように人買いだけを襲うとそのまま、森の中へ消えていった。行く当てのなくなったあたしは、仕方なく森の奥へと歩いて行った。
しばらくすると、森の中なのにレンガ造りの綺麗な家が見えた。歩き疲れたあたしは、休ませてもらおうとドアを叩いた。すぐに黒い衣装をまとった綺麗な女の人が出てきた。彼女は優しく微笑み、お入りと言ってくれた。それが、かあさまだ。その日から、あたしはかあさまと暮らした。
夜はかあさまと一緒に眠り、朝は暖かいスープと焼き立てのパンを食べた。午前中は読み書きのできないあたしに字を教えてくれた。午後は森で野イチゴやブルーベリーをたくさん摘んでジャムを作った。あたしはいつのまにか彼女をかあさまと呼ぶようになっていた。
春が過ぎ、夏が来て、秋になり、冬が終わる。一年目にようやく自分の境遇が悲しいものであることを理解した。それと同時にかあさまが魔女であることも理解した。だが、悲しいとか怖いとかそんな感情はわかなかった。
文字を読めるようになったあたしは、壁一面を埋め尽くす本を貪るように読んだ。古すぎてよくわからない本もあったけれど、かあさまはあたしが何を読んでも叱ることはなかった。時々、街まで買い物にも行った。そんな日のかあさまは、黒い服ではなくつぎあてのある色あせた赤い服を着て、少し老けて見えるようなメイクをしていた。どうしてそんなことをするのか尋ねると、街では目立たない方がいいのよと苦い笑いを浮かべる。よくわからなかったけれど、かあさまが言うのだから大事なことなのだろうと思った。
街は年々、活気を失いつつあった。誰もかれもが襤褸をまとい、何とかその日をしのいでいる感じがあった。そして、誰もが教会へ行き、神に祈っていた。かあさまは、少しずつ街に行く回数を減らしていった。冬が近づき、必要なものを買い込んだこともあってのことだが、あたし自身、重苦しい空気につつまれていく街をみるのは、あまりいい気分ではなかった。だから、街へでなくなっても、気にはならなかった。
この森の家には時折訪ねてくる人たちがいて、かあさまから薬を買って行ったが、二度とは来なかった。理由を聞くと、かあさまは魔女の薬はよく効くからねと笑っていた。それに、森には魔法がかかっていて一度来た道を忘れてしまうのだそうだ。
だけど、ときどき同じ人がもう一度たずねてくることもあった。どうしてなのかと尋ねると、魔法が薄れているからねとかあさまは答える。そしてもうすぐ魔女の時代は終わるから仕方がないのだけどねと少し寂しそうに笑うこともあった。魔女の時代が終わる。そのときは、まだあたしは意味を理解できなかった。そんなことよりも、幸せというものを知ったあたしは、ずっとかあさまといられると思っていた。それが幸せなのだと思っていた。けれど、長くは続かなかった。
その日は、ひどい雨だった。あたしたちは暖炉の前で冬支度を始めていた。かあさまは薬を調合し、あたしは編み物をしていた。嫌な夜だと思った。そして、誰かがドアをノックもせずに開けた。白い服の老人と鎧をまとった兵士。何事かと思う間もなく、いきなりかあさまを組み伏せた。
あたしは怖くて動けなかった。かあさまも何もするなというように、首を振る。白い服の老人は、恭しく袖から紙を取り出して、読み上げた。そこには、根も葉もない罪がずらりと並んでいた。悪魔と通じた魔女。人心を惑わせ、薬を売りつけた。男を惑わせ、姦淫の罪に陥れた。疫病をばらまいた。子供を攫って悪魔に捧げた……どれもこれも嘘ばかりだ。
誰が一体そんなことを言ったのか。あたしはぎりぎりと唇を噛み、みんなうそっぱちだと叫ぼうとした。けれど、口は言葉を発してはくれなかった。かあさまも抵抗はしなかった。男たちがかあさまを連れて行く。雨ばかりが激しくなっていった。あたしは何かに足を縫い付けられたように動けなかった。そしてその晩は一睡もできなかった。
翌日、一人の老婆がかあさまを訪ねてきた。事情を話して、かあさまがいないことを告げると老婆はあたしに一通の手紙を手渡し、去って行った。手紙はかあさまからだった。手紙には、これから起こることが書いてあった。魔女として自分は火あぶりにあう。それは、魔女になった時からの宿命だから嘆いてはいけないと。そしてあたしにも魔法をかけていることが書いてあった。
あなたが恋をすれば、わたくしのことは忘れてしまうようにしましたと。あたしは、手紙を握りしめぬかるみに足を取られながらも街へ走った。街を東から南へ流れる川に人だかりができていた。隙間をぬうようにして最前列までいくと、荒縄で縛られた何人かの女たちが船に乗せられていた。魔女じゃないと泣き叫ぶものもいれば、ぐったりとして今にも死にそうなものもいた。そして、かあさまも。
あたしは、かあさまと叫ぼうとしたが声がでない。何度も何度も呼ぼうとしたけれど、口は動かない。そうしているうちに、女たちは次々と川へ投げ込まれた。すぐに沈んでいったもの、必死でもがくもの。誰もが息をのんでそれを見守っている。やがて、水面にぷかりぷかりと女たちが漂った。船に乗っていた兵士たちは、一人一人女たちを引き上げ、息があるかないかを確かめた。息のないものは荒縄を解かれ、十字架の刺繍の入った真っ白な布がかぶせられた。
そして、かすかでも息をしているものは、黒い布を頭にかぶされて川岸へとあげられた。かあさまは、どの女よりも平然としていた。その頭に黒い布がかぶせられる。誰かが言った。魔女だ。二人もいたぞ。疫病はあいつらのせいだ。すぐに焼き殺せ。
あたしにはわかった。かあさま以外は、魔女じゃない。息をしていた女も刑場へ引き出されるまでに死んでいた。刑場には、三つの十字架とその足元にたくさんの薪が置かれているのが見えた。かあさまは真ん中の十字架に縛り付けられた。もう一人は右側に。民衆から怒号が飛ぶ。石をなげる者もいた。
どうしてかあさまが、こんなひどい目にあっているのだとあたしの中は怒りでいっぱいだった。薬で人助けをしていただけだ。悪魔の使いなんかじゃない。静かに森で暮らしていただけじゃないか。それのどこがいけないことだというのか。命を奪うほどの罪を誰が犯したと言うのか。
あたしの心は憎しみと怒りで破裂しそうだった。誰でもいい、かあさまを助けてと叫びたかった。叫べない自分を呪った。
火が放たれる。油がまいてあったのだろう。炎は一気に燃え上がり、二人の女の身を焼いた。かあさまは炎の中でももがくことはなかった。群衆の中にいるあたしをみつけて、しっかりと目を見つめてきた。
あたしは必死で叫ぼうとするが、かあさまは静かに微笑んで唇を動かした。それは、はっきりとしたかあさまの声だった。すべてを忘れて幸せにおなりと。あたしだけに、それはしっかりと響いて聞こえた。あたしは嫌だと首をふった。振り続けた。肉の焦げた匂い。群衆の怒号。投げられる石。
忘れるものか。忘れるものか。この憎しみを抱いて生きてやる。いつか、きっとかあさまの仇をとってやる。そのときは、そんな風に思っていた。憎しみでいっぱいのあたしは森に帰った。だが、家はなかった。無残にも焼き払われ、打ち壊されていた。
あたしは泣いた。大声で泣いた。今頃声がでたって遅いのに。泣く以外に何もできなかった。
あれから、どれぐらいたっただろう。気がつけばあたしは年をとらなくなっていた。沢山の無実の人間が死んでいく中で、あたしは生きていた。始めはお針子として働きいた。五年ぐらいだろうか、同僚が不思議がっていた。まるであなたは変わらないわねと。そして、誰かが魔女なんじゃないかと言うようになった。
あたしは、かあさまの悲劇を思い、夜逃げした。そうやって何年間か過ごすうちに自分が年をとらないことに気がついた。どうして年をとらないのかわからなかったけれど、一つの場所に長くいることができなくなってしまった。あたしはできるだけ老けたメイクをして、年をごまかしながら、他人とも距離を置いて何十年と一人で生きてきた。
その間に、色々なことがあった。戦争、災害、疫病、新しい分野の発達。あたしは時代に埋もれるように生きてきて、とうとう百年以上の時が流れていた。そして疲れてしまった。大きな憎しみも怒りも抱えきれなくなっていた。まるで、もう忘れなさいとかあさまが囁いているかのようだった。
そんなときにあの人にであった。同じ紡績工場で機械の修理をする青年。海のように青い目がかあさまににているとふと思うことがあった。無口で不愛想なあたしにも、親切にしてくれた。けれど、あたしは恋はしないと決めていた。かあさまのことを忘れることはできない。だから、彼とは極力接触をさけた。
そして年をとらないあたしは、十年でその工場を辞めた。そのあとは、また別の街に移り住む。国境を越えて異国へも流れた。不思議なことにビザやパスポートがなくても、ただ税関の職員の目をじっと見つめただけで、やすやすと国境を越えられた。言葉にもさしたる不自由はしなかった。なぜ、そうなのかわからないけれど、わからないままあたしは生き続けた。
時代が移り変わるなかで、自分だけが変わらない。一人きりでいるのが、少しずつ辛くなっていく。もう、どれほど一人で生きてきたかわからないほどの時間が経ったころ、憎しみと怒りを抱えて生きていることが徐々に辛くなっていた。
そんなあたしを見かねたのか、時折、夢に優しいかあさまとの日々がよみがえった。ただ、一緒にいるだけで、毎日が幸せだったあのころ。帰りたい。あの森に。かあさまのところに。そんな思いは日に日につのった。気がつけば、あたしは思うままにあの森を目指していた。沢山の国境を越えてようやくたどり着いたあの街は古いものと新しいものが混在していた。昔に比べれば、豊かになったのがよくわかる。道路には車があふれ、ショッピングモールもにぎやかしい。誰もが飢えを知らない顔で闊歩していた。
時代が変わるとかあさまは言っていた。確かに変わった。物のあふれる時代になった。人々は神にすがるより自由を謳歌している。魔女狩りの惨劇など覚えている者もいない。街を流れる川は綺麗に整備され、女たちを呑み込んだことなど忘れて穏やかに流れていく。その流れを見ているあたしの目には、今でもあの日の光景が映ると言うのに。あたしは思いを振り切るようにしてその場を離れた。
医者が名前はと尋ねたが、あたしにはわからなかった。鏡を見せられても、それが自分の顔であるのかどうかも判然としない。あたしは誰なんだろう。どうして病院なんかにいるんだろうか。体のあちこちが痛むのはなぜだろう。疑問ばかりが頭をよぎる。医者はあたしが車にはねられて頭を打ったせいで記憶をなくしてしまったのだろうと説明した。その医者の横には青い目の青年が生真面目な顔で立っていた。そして、記憶が戻るまで自分が面倒を見ると言っている。なぜ、彼がそんなことをしなければならないのかと思っていると、部屋に警官が入ってきて何かを彼に話していた。どうやら、あたしをはねたのは、彼らしい。あたしは、何か身元を証明するようなものを持っていなかったかと警官に聞いてみた。だが、警官は騒ぎの中で荷物を盗まれたと答えた。あたしは、自分が何者なのかはわからなかったけれど、手ぶらで歩いていたということはないと確信していた。それを何故と尋ねられても答えることはできないのだけれど。
結局、あたしは青い目の青年の世話になることになった。青年の名はメッツァード・ワーグナー。メッツェと呼んでほしいと言われた。そして、あたしの仮の名前はミルカとなった。彼は幼くして亡くなった姉の名前だと申し訳なさそうに言った。
こうして、ミルカと呼ばれるあたしの日々が始まった。幸いにもあたしは記憶喪失以外は軽い打撲だったため、目覚めたその日のうちにメッツェの住む森の中の家に連れて行かれた。見知らぬ人間と二人で生活することを思うと気が重い。だが、記憶のないあたしにとっては、メッツェ以外に頼れる人もない。
あたしは早く記憶が戻るように祈った。だが、祈れば祈るほど記憶が遠のいていく気がして、メッツェともなかなか会話することさえままならなかった。不安と焦燥に苦しめられていたあたしは、軽度のうつ状態となっていて、医者からは何度も焦らないでと言われた。そんなあたしをメッツェは辛抱強く世話してくれた。おかげで、少しだけメッツェを理解しようという気持ちになったのは確かだった。
彼の仕事は、国有地である森の管理だった。彼の日課は朝食後にライフルやチェーンソーを持って森に入り、動物や植物の生態を調べたり、危険な場所に赤い布を張ったり、虫や病気に犯された木々の消毒や伐採をするなど多岐にわたっていた。だが、あたしと同居するようになってからは、仕事量を減らしていたようだった。
それはあたしがあまり食事をとることもせず、一日の大半をゲストルームに引きこもっていたせいもあるのだろう。あたしは、外へ出るのが無性に怖かった。何かを失うような気さえしていた。そして何よりも記憶がないことがたまらなく辛かった。あたしにとって、自分がどこのだれかなど二の次で、絶対に忘れてはいけない何かを忘れていると言う自覚の方が辛かった。
眠れば何かの夢を見る。目覚めれば覚えてもいないのに、勝手に涙が頬をつたった。病院にいくとき以外は、完全にひきこもった生活が一月続いた頃だった。メッツェは、あたしにすこし日を浴びた方がいいといった。だが、あたしは家を出るのが怖くて震えた。メッツェは大丈夫だ外には出ないよと言って、朝日のあたる窓辺に揺り椅子を置いてくれた。
毎朝少しでもいいから、ここに座っているだけでいいと彼は言う。あたしも素直にその提案に従った。それから、毎日目覚めてはそこから外を眺めるようになった。優しい鳥たちの声や美しい緑が心の琴線に触れる。あたしは徐々に目覚めては流していたはずの涙を忘れて、穏やかな朝を過ごすようになっていた。
時々、警官がやってきてあたしの記憶が戻ったか尋ねたりしたが、あたしは首を横に振るだけだった。警官も困り果てた表情をしていた。どこの大使館に問い合わせてもあたしの身元が分からないらしかった。だからと言って、メッツェの家から連れ出されることも、施設にいれられることもなく、ただ生活保護の申請をすすめてくれた。医者もそのほうがいいと言って、手続きをしてくれた。メッツェは、優しく微笑んで君が何かを思い出すまで僕がちゃんと面倒を見るから安心してと言ってくれた。あたしは、その言葉に甘えることにした。
あたしは少しずつ元気を取り戻していった。ときどき、メッツェと森を散歩したり、街に買い物に出かけたりするようになった。それでも、胸の奥で誰かが泣き叫んでいた。それは、あたし自身だった。忘れるな、人はいつでも残酷になる。誰も信用してはいけない。憎しみと怒りをお前は忘れられるのかと。街に出るたびに胸が苦しくなった。
いったい何を憎み、何を怒っているのか自分でもはっきりしない。ただ、街を流れる川や、古びた教会を目にするたびに心の何かが訴えかけてくる。だから、あまり街へは行きたくなかった。
メッツェにそのことを話すと、よほど悲しいことがあったんだろう、買い物は僕がいくよと言ってくれた。街へ出たくなったら、いつでも連れて行くよとも言ってくれた。あたしはメッツェの心遣いに感謝した。
そして、あたしは一つのお願いをした。居間の壁一面を覆ている本棚の本を読んでもいいかと。彼は破顔していいともと言ってくれた。ありがとうと返すと、やっと笑ってくれたねと言われた。あたしは、自分が笑っていることに気づいていなかったから、そう言われて少し気恥しく感じた。
メッツェは、そんなあたしを見て言葉を紡ぐ。何かに興味を持つことはいいことだよ。専門書が多いけれど娯楽小説もあるから、どれでも、気になった本を読むといいよと。
あたしは、うんと頷いた。その心には、何か懐かしいものを感じていたけれど、それが何かはわからなかった。それからは、メッツェが仕事に行っている間、揺り椅子に座って、本を読む生活をした。植物の分類図版や動物の専門書、ファンタジーや推理小説と、あたしは気になる本を次々と読んだ。
仕事から帰ってきたメッツェは、今日はどんな本をよんだのと話を聞いてくれた。あたしは夢中になって、その日読んだ本の感想を話した。そして、いつのまにかあたしたちの間で、本の話題が多くなった。同じ場面で共感したり、違う意見で真剣に話し合ってみたり、二人で新しい仮説を考えたりした。あたしたちの距離はだんだんと近づいていくようなそんな日々が続いた。
ただ、彼はときどき誰かと電話しては、悲しい表情になることがあった。それを見たあたしの胸はぎゅっと締め付けられるように痛んだ。いつも明るい彼が疲れたように電話を切る姿を見ていて、辛くなった。
はじめはやはり自分は厄介者なのではないかと疑った。だが、彼は本当に親身になってくれた。本の話をするときや、森のことや、植物や動物の話をする彼の瞳はとても輝いていて、あたしを憐れんだり、自責の念にとらわれたりしているようには思えなかった。それほどに、彼は自然体であたしに接してくれていた。そして、あたしは少しずつ彼に好意を抱くようになっていた。
けれど、ある雨の日に一人の女性が尋ねてきた。あたしを鋭い視線で値踏みするようにじろじろと見ていたかと思うと、メッツェに向かって声を荒げた。貴方に私を責める資格なんかないわ。こんな女を囲って森の中の生活をお楽しみのくせにと言う。メッツェは、叱られた犬のように悲しそうに言った。そうかもしれないと。女はそれを聞いて憎々し気に笑う。あたしはなんだかわからないけれど、ひどく恐ろしかった。声も出ないほどに怯え切っていた。女は言う。これで離婚は成立ねと。メッツェはそうだねとうなだれたまま答えた。あたしは二人のやりとりを聞きながら、意識が遠のくのを感じた。
それからどうなったのかわからないまま、気がつけばベッドの中にいた。側にはメッツェが申し訳なさそうに微笑んでいて、びっくりさせてしまってすまないと謝った。それから、彼はこれまでのことを話してくれた。幼いころから、植物や動物に興味があったけれど、親の勧めで一度はIT企業に就職したのだと言う。そこで知り合った彼女と恋をして結婚したけれど、街にいるのが段々と窮屈になり、転職を考えていたところに森の管理人の募集があったと言う。
彼女は一緒には行けないと言ったそうだ。それでも、転職に反対するようなことはなかった。だから、彼は安心してこの森の管理人になった。そして、週末ごとに彼女のもとへ帰り、普通の夫婦として今までうまくいっていたと言う。
けれど、彼女の誕生日に驚かせようと思って何の連絡もなしに、家に帰ると彼女は彼の元同僚とベッドを共にしていたのだ。それがきっかけで、二人の関係はぎくしゃくし始めた。やがて、離婚の話を持ち出されて、自分でもどうするべきかわからないまま、森へ戻る途中にあたしをはねてしまったのだという。
あたしは、ごめんなさいと謝った。だが、メッツェは君は悪くないと言う。僕がいけなかったんだと苦い笑いを浮かべた。彼女に何も相談しないまま、君をこの家に連れてきてしまった。本来ならちゃんと相談すべきだったのに。それができなかったのは、たぶん、お互いにどこかで心が離れてしまっていたんだろう。僕がもっと早く気がつくべきだったんだと言った。
あたしは、なんだかひどく切なくなった。あたしが、気を失うような失態をしなければ、ちゃんと誤解だと説明さえできていれば、彼にこんな悲しい顔をさせなくてすんだのにと後悔した。きっと、彼もまだ彼女のことを愛しているのだとあたしは思った。
けれど、メッツェの話はそこで終わらなかった。僕はこの三か月、彼女のことを忘れていたんだと言った。あたしにはその言葉の意味がよくわからなかった。最初は君をはねてしまった責任感で世話をしていたけれど、君に笑顔が少しずつみられるようになってから、僕は妻の存在を忘れてしまったと言った。君といる時間の方がとても大切に思えるようになってしまったんだ。だから、僕は彼女を責めることはできない。メッツェは、そう言ってしばらく黙ってしまった。
あたしは、何と答えていいのかわからない。ただ、心臓が高鳴るのを感じていた。あたしは、少し一人にしてほしいと彼に頼んだ。彼は、頷いて部屋を後にした。あたしはどうしたいのだろう?できることなら、このまま、ここで暮らしたい。メッツェの側にいたい。けれど、メッツェが離婚することを決めてしまうのは、駄目だと思った。なぜなら、彼の妻はまだ、彼を愛している。そう感じたからだった。自分に向けられた視線に強い嫉妬の心が宿っていることがあたしにはわかった。
きっと、浮気をしたのは寂しかったからに違いない。そうでなければ、突然やってきてあたしを品定めするような目で見たりはしないだろう。週末には必ず帰って来る夫が三か月も帰らないのだ。自分から離婚の話を切り出したのも、きっとなじられたときの勢いで言ったものなのかもしれない。あたしには、彼女の行動がそんな風に思えてならなかった。なら、あたしさえいなくなれば、メッツェはもう一度彼女とやり直せるかもしれない。そうは思ったものの、心のどこかでそれは嫌だと感じた。
自分の感情がよくわからなくなるほどに、あたしはメッツェを必要としていることに気がついた。自分でも気がつかないうちに、あたしはメッツェに恋い焦がれていたのだろう。それでも、その気持ちに蓋をした。あたしがいなくなれば、きっとメッツェと彼女はやり直せる。あたしは、決めた。今夜こっそりと出て行くことを。そして、医者のところにいって施設を紹介してもらおうと思った。
その日の夕食はお互いに気まずくて何も話せなかった。でも、あたしはこれでいいと思った。今夜、あたしはこの家を去るのだから。そして、真夜中にそっと家を出た。雨でぬかるんだ道をこれでいいんだと言い聞かせながら歩いた。それでも、自分の心に嘘はつけなかった。メッツェを思う苦しさで涙が頬をつたう。何度も何度も涙を拭いながら、重い足を引きずるように歩いた。
そして、もう少しで森の外へ出る道まで来た時、後ろから激しい足音が聞こえてきた。振り向いては駄目とあたしは自分に言い聞かせる。けれど、足は勝手に止まってしまった。そして、追ってきたのはいうまでもなくメッツェだ。彼は強引にあたしを抱きしめると行かないでと懇願した。あたしは、冷え切った体が熱くなるのを感じた。
それでも、彼を諭すように言った。彼女はまだあなたを愛している。もう一度話し合えば、元に戻れるわと。けれど、彼はあたしを強く抱きしめて言った。無理だよと。僕の心は君を求めている。自分に嘘はつけない。僕は君を愛しているんだと今にも泣きだしそうな声で彼は言う。
でも、彼女は……。
あたしは違うと言いたかったけれど言えなかった。あたしもメッツェと離れるなんて嫌だった。蓋をしたはずの心が開いてしまった。もう、嘘はつけない。僕のことが嫌いかいとメッツェは言った。あたしは、首を横に振る。溢れる思いも止めることなどできない。あたしは言った。あなたが好きだと。ずっとそばにいたいと。見上げたメッツェの青い瞳には涙がにじんでいた。月明かりの下で、あたしたちはどちらからともなく、口づけを交わしていた。
翌朝、目を覚ますと隣にメッツェがいた。おはようと額に口づけをくれた。あたしは、気恥ずかしさと喜びで彼の胸に顔をうずめた。彼は、もう少しこのまま眠ろうと言った。あたしは頷いて眠りに落ちた。
再び目を覚ますと隣に彼の姿はなかった。あたしは、慌てて着替えると夢でも見ていたのではないかと思って部屋を飛び出していた。慌ててゲストルームから出てきたあたしは、キッチンにいる彼を見て安堵した。夢ではなかったんだと、ようやく確信した。メッツェは、キッチンから出てきてあたしを抱きしめた。
そんなに慌ててどうしたの?怖い夢でも見た?と尋ねる。あたしは、違うのと応えると、メッツェは優しい顔で、ゆっくりと口づけをくれた。お腹減っただろ?もうお昼だしねといたずらっ子のような微笑みを浮かべた彼にあたしは、しばらく抱き着いていた。ああ、もう離れられない。この人以外に誰かを愛するなんて想像もできないと思った。
それから、メッツェは離婚調停をはじめた。だが、思っていたほどすんなりとは行かなかった。やはり、彼女はメッツェを愛しているのだとあたしは思わざる得なかった。それでも、あたしは待った。いつまでも待てる気がした。
あたしと彼は、彼の部屋で一緒に眠るようになった。あたしの記憶は戻らないままだったけれど、彼はあたしをいつくしんでくれた。また、穏やかな日々が続く中で、離婚調停に出かける彼の背中を見送るときだけは、不安にかられた。
彼が帰って来るとつい抱き着いてしまう。
あたしの心はメッツェのことでいっぱいになっていた。記憶のことなどもう、どうでもよくなっていた。ただ、メッツェを失うことだけがとても怖かった。メッツェはいつもあたしを安心させるように強く抱きしめてくれる。そして、あたしが不安がっているのに気付いているのか、彼はミルカ愛していると言ってくれた。
あたしは、いつの間にか、自分はミルカという一人の女だと思うようになっていた。あたしたちは、お互いの存在を確かめるように体を重ねた。そして、あたしは妊娠した。メッツェは大喜びして、あたしを抱き上げた。
調停ももう少しで終わるよ。終わったら、結婚しようと言ってくれた。あたしは、うれしいと言って彼にキスをした。それから、一か月後に彼の離婚は成立した。そして、あたしたちは二人だけで結婚式を挙げることにした。理由は彼の両親に反対されたからだった。メッツェの両親は信仰心が篤く、離婚した息子を勘当したのだった。離婚調停が長引いたのも一つは両親の反対があったからだとメッツェは結婚前に話してくれた。
それでもあたしたちは、幸せだった。二人で街に行き、白いドレスとスーツを買って小さな教会へ向かった。ただ、あたしは教会に近づくにつれて気分が悪くなっていたが、我慢していた。教会にいくことがひどく背徳的なことに思えるのはなぜなのか、あたしにはわからなかった。それでも、教会に着いた頃には気分も少し落ち着いていた。メッツェはいたわるように、はにかんであたしをエスコートしてくれた。だが、教会に入ろうとしたその時だった。血走った眼をした彼の両親がいた。誰にも内緒にしていたのに、なぜ彼らはここにいるのだろうと、あたしたちは戸惑った。それは一瞬の出来事だった。彼の父親がこの悪魔め!と叫んであたしを突き飛ばしたのだ。あたしは、そのまま道路に転がりでてしまった。そして、メッツェの目の前で車にはねられた。
目を覚ますと白い天井が見えた。そして、ミルカ、ミルカ……僕がわかるかいとやつれたメッツェが涙ながらにあたしを呼んでいた。ぼんやりとした意識の中であたしは、頷いた。顔なじみの医者もいた。あたしの意識は三日ほど戻らなかったが、どうやら一命をとりとめたらしい。
あたしは、ぼんやりとした頭で赤ちゃんはとか細い声で尋ねていた。医者は奇跡的に無事だよと言った。だが、君は重症だとも答えた。メッツェは泣きながら、あたしの頭を撫でてくれた。そして、すまないと謝った。まさか、こんなことになるなんてとメッツェは言った。
あたしは、そっと手を伸ばして彼の涙を拭いた。あたしも赤ちゃんも生きているわ。大丈夫よ。あなたは何も悪くない。そういうと、メッツェはあたしの胸に顔をうずめて声を殺して泣いた。あたしは子供をあやすように彼の髪を撫でた。誰も悪くないわ。お願いだから誰も恨まないでとあたしはなぜかそんな言葉を彼に囁いていた。
そのとき、どうしてそんなことを言ったのかわからないけれど、メッツェは強く頷いて約束するよと言ってくれた。それを聞いてあたしは心底安堵した。それから、長い闘病生活を送り、あたしは無事に女の子を出産した。
事故の後遺症で左足を引きずるように歩くあたしを支えながら、娘を腕に抱いているメッツェはとても頼もしく見えた。そして、あたしたちは森の生活に戻った。新しい家族を迎えたあたしたちは、毎日が幸せだった。娘はすくすくと育ち、歩けるようになると三人で森の中を散歩した。
娘はすぐに植物に興味を持った。あれは何?これは何?とメッツェを質問攻めにする。あたしは、そんな二人を見ながら喜びに浸る毎日だ。ああ、なんて幸せなんだろう。今この瞬間の幸せが永遠につづくような気がして笑みがこぼれる。
本棚には絵本が増えた。家の中には玩具も増えてにぎやかしい。ただ、あたしの左足はリハビリを続けてもうまく動かないけれど、そんなことは気にもならない。でも、メッツェは気にしているようで、家事もよくこなしてくれた。あたしは、幸せすぎて怖いくらいだわと彼に言った。彼もまた同じ気持ちだと言う。けれど、もう、何も悪いことは起きない気がするんだと笑って言った。そうね。きっとそうね。あたしもそう答えた。
<了>