最初の魔法
袿を縫い終えようかという頃。大夫様が少しずつ落ち着きを取り戻し、あの日何があったのか、徐々にお話出来るようになった。
「内裏から帰る途中、熊のような化け物に襲われました。奴は、私の共や牛を殺してしまうと、牛車を軽々と持ち上げて都の外に出て行きました。森に入り、川岸にやってくると、奴は私から衣装を剥ぎ取り、私の顔や身体をじろじろ見るのです。奴は『あい、わかった』と言うと、私を川へと放り込みました。そこから先は何も覚えていません」
大夫様のお話は、たちまち都中に広まった。怯える都人達は、若い娘を部屋の奥へと押し込む。化け物が内裏近くまで侵入した事もあって、一部の貴族は参内を取り止めているそう。他にも、あちこちの警備が強化されたりと、都中が物々しい空気に包まれている。
私も、背筋が凍る思いだった。牛車を持ち上げる程の化け物が、今も姫様と共にいるなんて。
「私ったら、姫様が大変な時に何をやっているのかしら。こんな綺麗な色柄の袿、どうせ似合わないのに」
美しい萌黄色の袿。姫様がお召しになったら、きっとお似合いだっただろう。無事に姫様がお戻りになったら、差し上げようかしら。でも、あの老女は私の為に用意してくださった。なのに一度も袖を通さないというのは、さすがに申し訳ない。
私は、袿が不美人な自分に似合わないことを確認するという、自嘲的な理由で鏡を覗きこむ。
「姫様!」
どうした事でしょう。姫様が、鏡の向こうにいらっしゃる。あの化け物の仕業でしょうか。どうりで、姫様が見つからないと思ったら。
「姫様、こんなところにいらしたのですね。ああ、早く出して差し上げなきゃ。でもどうやって……あら?」
私が鏡に近付くと、姫様もこちらに近付いて来られる。鏡に触れてみると、私と姫様の掌が、寸分の狂い無く重なった。着ている衣装も、私と同じ。
「まさか、私……なの? 私の顔が姫様に? どうして?」
つい先ほど化粧をした時には、いつもの不美人が映っていたはずなのに。先ほど覗いた時と、今の違いといえば、袿を羽織った事くらい。
「まさか、ね」
半信半疑のまま袿を脱ぐと、鏡に映る姫様はどこえやら。いつもの自分が、みっともなく口を開けていた。これはもう、間違いない。この萌黄の袿を着ると、私は姫様の姿になれる。
「これを使えば、姫様を助けられるかもしれないわ。姫様と入れ替わって、私が身代わりになれば良いのよ」
とても怖い事だけれど、姫様の為だもの。またあの幸せな日々が帰って来るのなら、私は頑張れるはず。そうそう、大夫様との婚儀も仕切り直さないと。
しかし、問題はまだあった。大夫様と共に保護された士が言ったらしい。「大男の住み処を異形の者達が囲み、誰も近付けない」と。少納言様が最初に放った使いの者は、この士以外、皆異形の者達によって命を奪われてしまったという。
「その異形の者に見つかってしまっては、姫様と入れ替わることなんて出来ないわ」
私の足は、それ程早くない。きっと見つかってしまう。それ以前に、邸の誰かが私を引き止めようとするかも……。
困り果てていた私の耳に、またあの声が届いた。