帰還の大夫とわずかな希望
少納言様が大夫様の邸に使いを出すと、昨日、大夫様が内裏から戻っていない事が分かった。大夫様だけでなく、お供していた牛飼い童達までが行方不明だという。内裏を出たところまでは確認出来たらしく、お帰りの道中で何かあったのだろうと察せられた。
大夫様のご両親も、心配で内裏から邸までの道は調べていた。けれど、それ以上に「こんな大切な日に寄り道なんて、何をしているんだ」という、情けなさが勝っていたそう。結局、朝まで大夫様が戻らなかったら、小納言邸に詫びの文を出そうという事になったらしい。
そんな中で届いた一報に、ご両親はさぞ驚いた事でしょう。小納言様も、それは同じ。大夫様が行方不明だと分かり、顔から血の気が引いてしまった。
「昨晩邸にやって来たのは大夫では無かったのか」
少納言様は何が何だかわからず、狼狽しておられた。私も、姫様の身に何があったのか、訳が分からなかった。あの恐ろしい大男が、今も姫様と一緒にに居るかと思うと、生きた心地がしない。
少納言様の命で、姫様の大捜索が始まった。都中の男達を雇い、主上にも協力を仰いだ。私も姫様の為に、何かしたい。でも、私に出来る事は何も無かった。
私はただ祈るだけ。仕える主人を失った私は、自分の局で姫様の帰りを待つ。これといって仕事も無く、時間だけが過ぎていった。虚しさが込み上げて、目尻から流れ落ちる。
そんな中、またあの声が聞こえてきた。
「頼んでおいた単衣は出来ましたか?」
こんな時に何を言っているの。姫様が拐われ、邸中がひっくり返るような騒ぎだというのに。でも、あちらにも何か事情があるのかもしれない。私は、夜の内に仕上げておいた単衣を渡した。昨夜は暗くて顔を見る事が出来なかったが、やはり老女だった。
「ああ、これなら結構。良い出来です」
そう、満足気に頷くと「次は、袴をお願いしようかね」と緋色の布を置いていった。
「まあ、姫様がいらっしゃらないと何もする事が無いし、置いて貰っている身で仕事を断るわけにいかないものね」
誰のご衣装かは分からないけれど、この布も随分高価そう。きっと、高貴な方がお召しになるのでしょう。私は、黙々と袴を縫った。
「ああ、この袴も良いわね。では、今度は袿をお願いしますね」
「わかりました」
納得のいかないことも多いけれど、姫様の居ない生活に色々がどうでもよくなってしまった。誰の為かも分からないまま、私は紅の布を広げた。
「姫様は今頃どうしているのかしら。まさか、もう……」
不吉な事を考えてしまいそうになると、目の前の針仕事に専念するよう意識した。少しでも不安な気持ちが和らぐ気がして。勿論、気休め以上にはならなかったけれど。
紅の袿が縫い上がる頃、少納言様が放っていた使いの者が、とうとう姫様を拐った大男の居場所を突き止めたと報せがあった。これでようやく姫様がお帰りになると、邸中、いや、都中が喜んだ。少納言様は士を集め、大男の住み処だという都近くの森へと向かわせた。
しかし、数日が経っても姫様や迎えの士達は戻って来なかった。少納言様は、別の使いを送り込んだ。すると、今度は半日も経たない内に、使いの一部が戻ってきた。
「随分と速かったな。花菱はどうした」
「実は、九条のあたりで大夫様と士の一人が蹲っているのを見つけたので、我々だけ戻って参りました。皆は姫様の元へ向かっているはずです」
娘婿の無事に、少納言様は泣いて喜んでいたという。同時に、姫様のお帰りに希望が出てきた。皆、口にはしなかったけれど、姫様はもう亡くなっているのではないかと、そう思い始めている様だったから。
その晩の事。
「木立、木立やい」
また、あの老女が訪ねてきた。私は「袿ですね。縫えていますよ」と、紅の袿を差し出した。
「ああ、良い出来です」
そう言いながら、萌黄色の布を差し出した。
「今度は何を縫えば良いのかしら」
「これは、いつぞやの単衣のお礼です。袿を縫ってお召しなさい」
「女房の役目の内です。お礼なんて……」
私が言い切る前に、彼女は立ち去ってしまった。結局、自分には不釣り合いな美しい布で、袿を縫った。




