門出の朝に
かつては、私も姫と呼ばれていた。
「木立、この邸にはもう慣れたかしら?」
「えぇ、姫様方のお陰です。皆さん良くしてくださって」
木立という女房名で働き出す前は、私も他人に仕えるような身分ではなかった。けれど、当主である父が病で急逝。我が家はあっという間に廃れていった。
私の器量がもう少し良かったら、誰か通う公達もあったのでしょう。でも、そんな夢みたいな話にはならなくて。結局、父の友人だった少納言様のご息女、花菱の君に仕える身となった。
幸い、邸の方々はとても優しくて、特に姫様は私を妹のように可愛がってくださる。その姫様は、近々大夫様と結婚されるので、今は邸中が少々慌ただしいのだけれど、ご本人はいつも通り静かにお過ごしだった。
数日経った吉日。婚儀の為、大夫様が姫様の元を訪ねた。これから三日、お二人は夜を共にされる。そして三日目の朝、正式な夫婦として認められる。
一夜目、二夜目と万事順調に進んだ。旦那様……姫様のお父様が、大事そうに大夫様の沓を懐に入れたのをお見かけした。娘の結婚が上手くいくようにという、昔からのおまじない。私も、姫様の幸せな婚姻を祈った。
そうして迎えた三日目の夜は、誰もが浮足立っていた。姫様が、下々の者にも優しい人柄だったから、皆、心から姫様を祝福しているのでしょう。名家の姫でありながら、偉ぶったところの無い姫様は、誰からも愛されている。
そんな姫様の晴れの日だもの、自然、身支度のお世話にも力が入ってしまう。
「木立ったら、いくらなんでも丁寧過ぎるわよ?」
姫様の髪を整える私に、笑いながらおっしゃる。
「だって三日夜ですもの。こうしてないと落ち着かなくって」
「ふふっ。皆どうしてそうなのかしら。日の高い内から邸中そわそわしちゃって」
当事者である姫様に、緊張感がまるで無い。私にはそちらの方が不思議だったけれど、おっとりと笑ってらっしゃる方が姫様らしい。そんな姫様を見ていたら、なんだか私も余計な力が抜けてしまったみたい。思わず笑ってしまった。
夜も更け、出迎えの者が門へと集まる。大夫様がいらっしゃったのでしょう。
「では姫様。私はこれで」
大夫様がお着きになったのを確認した私は、局へと戻る。明日の朝には、大好きな姫様と、お優しい大夫様が夫婦になられる。なんと幸せなことでしょう。
姫様のような、お顔もお心も美しい方にこそ、このような幸福が相応しい。
私は不美人で、結婚など縁が無い。もし、どこかの公達に見染められていたら、今頃は実家で女主人を気取っていたかもしれない。姫様とも、対等な友人になれたかしら。
そうならなかった事を嘆いた事もあったけれど、姫様が「木立は字が綺麗でお裁縫も上手。頭だって良いし、働き者で何事にも丁寧で……ああ、琴も上手だったわね。こんなに良いところだらけの貴女に気付かないなんて、世間の殿方が皆おかしいのよ。そんなおかしな殿方に私の可愛い妹分はあげられないわ」と言って笑うので、私も一緒になって笑ってみたら、あれこれ気にしていたのが馬鹿馬鹿しくなった。
一人、姫様との思い出に耽っていると、御簾の向こうで、何やら物音がした。振り替えると、部屋の前に誰かいるようだった。
「木立、木立や」
影の主が、私を呼ぶ。声の感じからして、老女らしかった。北の方様の女房の誰かだろうか。
「はい、何でしょう?」
「ちょっと、女物の単衣を縫っておいて欲しいの。布はここに置いていきますから」
「はい?」
こんな夜中にどういう訳だろう。私が戸惑うのも構わず、老女は「じゃ、頼みますよ」と立ち去ってしまった。
御簾を上げると、紫色の、綺麗な布が置かれていた。
「よくわからないけど、急ぎの用だったら大変だわ」
私は早速、作業に入ることにした。もともと、姫様方の事が気になって眠れないでいたから、丁度良い。
夜が明け、姫様と大夫様の元に、餅が運ばれる。三日夜の餅と呼ばれるもので、これも夫婦になる為の儀式だった。姫様は小さなお口で、この餅を召し上がる。
すると突然、大夫様が大声を上げた。
「食ったな、三日夜の餅を。食ったな。これでもうお前は俺のものだああああっ!!」
立ち上がり、腕を振り上げている大夫様。整えたばかりの衣が乱れるのも構わず、床を蹴っている。
「ど、どうなさったの!? お酒は飲まれていないのよね?」
突然の咆哮に、姫様が狼狽えながら大夫様にお声をかける。けれど大夫様には、姫様の声が全く聞こえていないようだった。
「こら、大人しくせんか。これ以上暴れるなら、娘との結婚を取り消すぞ!」
騒ぎを聞いた旦那様も駆けつけて、大夫様を止めようとなさる。本来なら、この後親族が集まり、花婿のお披露目をするはずだった。旦那様もそのつもりで上等の衣を纏っていたけれど、無残に引き千切られてしまう。
目を覆いたくなるような光景。悲鳴を上げて逃げ出す者、腰が抜けて動けない者。誰もが大夫様の豹変に怯えていた。お願いだから、いつもの優しい大夫様に戻って。そんな願いも虚しく、更なる恐怖が私達を襲った。
黒く、ごわごわした毛が大夫様の全身を覆っていく。手足も太くなり、身体が大きく膨張した。まるで熊のような容貌。私は恐ろしさのあまり、呼吸すら危うくなった。
大夫様だった者が、姫様を見やる。男は姫様と目が合うと、姫様に向かって迷い無く手を伸ばした。
「あ、ああ……っ」
「姫様逃げて、逃げっ……姫様っ」
私は硬直してしまった喉から、やっとの思いで声を絞り出した。でも、身体は動かなかった。男はその大きな手で姫様の身体を掴み、どこかへと去って行った。