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この作品には 〔ガールズラブ要素〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

煙草とシャボン

作者: 花崎あや

 開かれたドアの向こうにあったのは、やっぱり不機嫌そうな顔だった。


「ゴメン、美波……遅くなって」


 ぎこちない作り笑いで謝りつつ、玄関に入って靴を脱ぐ。扉を閉めると往来をゆく車の音も遮断され、わたしと美波のあいだを沈黙が満たした。

 時刻は午後10時をまわったところ。わたしのルームメイト――もとい同棲相手の美波は、すでに寝間着に着替えている。

「あの、仕事はいつも通りに終わったんだけど、なんか急に全員参加で飲みにいくぞって言われてさ。連絡入れる機会も逃しちゃって……ほんとごめん。一応、早々に抜けて来たし、ご飯も食べるから」

 わたしの弁解をむくれ顔で聞いていた美波は、ひとつ大きく息を吐いた。

「べつにいいわ。ちょっと心配したくらいだし。晩御飯はとっておいてあげたから、温め直すのは自分で勝手にやってよね」

「わーい、ありがと」

 短く済んだお咎めに胸をなでおろしつつ、そそくさと彼女の横を通り抜けてリビングへ向かおうとする。しかし、


「まって」


 すれ違いざまに小さく、けれど鋭い声が響き、腕を強く掴まれた。ふりむくと同時に、美波はわたしの肩に両腕をまわしてくる。

 抱きしめられた――と思ったのもつかの間。

「い、痛い痛い」

 後ろ髪が乱雑に掴まれ、ぐいと下に引っ張られる。喉を反らせてのけぞったわたしの耳に、低い声がささやきかけられた。


「……煙草のにおいがするわ」


 わたしより幾分背が低い美波は背伸びをしているのか、わたしの耳の裏に顔を埋めてそう言った。それから、ため息のような吐息がひとつ。くすぐったさに思わず身じろぎしてしまう。しかしぼさっとはしていられない。彼女は煙草が大嫌いなのだ。

「の、飲み会だったからしょうがないよ、煙草吸う人もいるしさ」

「なんで煙草吸う人の近くになんか座るの?」

「席順とか、その場の流れだし……そんな選べないよ」

 だんだん棘を帯びてきた美波の言葉にはらはらしつつ、鞄を床に下ろす。空いた手で背をぽんぽんと叩いて宥めてみるが、あまり意味はなさそうだった。

「ほんと最悪。臭いし、吐き気がするわ」

 吐き捨てるようにそれだけ言い、美波は黙り込んだ。

 ふたたび吐息がうなじを撫でる。何度も、何度も。

「そ、そう言うわりには、すごい嗅ぐね……?」

 たまりかねてそう零すと、あっさりと腕が解かれた。爪先立ちをやめた彼女は上目づかい気味にこちらをじっと見つめてくる。

 怒るかな、と思ったけれど、美波はつまらなさそうな表情で視線を横へやり、口を開いた。

「ご飯の前にお風呂入ってよ」

「え、でももう遅いし先にご飯食べちゃいたい――」

「そしたらお腹いっぱいになったからって、朝シャンでいいやなんて言って寝ようとするでしょう。ぜったいに嫌よ、枕にそんなにおいつけないでよね」

 性質を見透かされている。反論できずに力なく頷いたわたしを見届けるやいなや、美波はコートを脱がせてきた。乱暴な手つきでそれを床に放り、続いてカーディガンの、そしてブラウスのボタンも外しにかかる。

 拒絶もできず、行き場のない手をなんとなく美波の脇腹のあたりに添えたまま、わたしはされるがままに立ち尽くした。

 ブラウスが床に落ちる。下着までは取らずに、彼女はわたしの胸元に顔をうずめた。肌に直にあたる息が、髪が、やっぱりくすぐったい。

「良かった。ここまではにおいがついてないわね」

 そっけない言い方でも、語気がどことなくやわらかくなっていた。

 わたしは彼女の頭を見下ろす。胸に触れるその髪は少しだけ湿っていて、あまい花の香りが控えめに立ちのぼってくる。わたしたちの家のシャンプーのにおいだ。

 わたしの髪にしみついた煙草のにおいは自分では感じ取れないけれど、彼女がこれほどに嫌悪感を示す理由がなんとなくわかってくる気がした。


 胸に吸い込む花の香りが、彼女の頬の温度が心地良い。だけどこんな状況はさすがに少し恥ずかしかった。


「えっと……美波、廊下でこの格好はちょっと寒いかも」

 わたしの言葉に美波は身を離し、わたしとは目を合わせずに短く言った。

「じゃあ、先にお風呂場に行ってて」

「うん。……うん? 先に、って」

「私も一緒に入るわ」

 そしてさっさと歩き出す。リビングの手前、私室のドアノブに手をかけた彼女をわたしは慌てて呼び止めた。

「美波、もうお風呂入ったんじゃないの?」


「仕方ないでしょう。徹底的に洗浄しないと私の気が済まないもの」


 ぴしゃりとそう言い放って、彼女の背中はドアの向こうへ消えていった。

「せ、洗浄……。ひどい言い方するなぁ、もう」

 床に散らばった服と鞄を拾いあげながら呟く。でも、美波とふたりで花の香りに包まれるのもなんだか素敵かもしれない――わたしは小さく笑った。


 それから、わたしも煙草は好きじゃないけど、たまにはひとりその匂いにまかれてくるのも悪くないかな、なんて。


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