慈愛の乳房
――温かい……まるで春の草原で日向ぼっこをしているような……いや、幼き頃に、母に抱かれているような……
竜胆は己を包み込む快い温もりに、充実感と幸せを味わっていた。
頬がやわらかい物に触れ、思わず頬ずりをする。
――そうじゃ、赤子の頃、こうして母の乳房を求めておった……
「……んど……りんどう……」
鈴の音がコロコロと転がるような声が、竜胆を呼んでいた。
この声は彼女がもっとも信頼し、仕えているお方の声だと頭の奥でいっていた。
薄目を開いて見上げると、そこに艶やかな黒髪を肩で切りそろえた尼削ぎという髪型で、観世音菩薩のように慈愛にみち、左の目尻にホクロがある美貌が見えた。
しかも、目の前数寸の距離で……
「目が覚めましたか、竜胆?」
「……これは……秋芳尼さま……ここは……」
ここは米問屋・大隅屋の離れに敷かれた布団の上。
背中を斬られた竜胆は蘭方医の杉田玄白にカスパル流外科手術をしてもらい、手術後、安心してうつ伏せに眠っていたのだ。
その後、黄蝶の知らせを聞いて、夜分にも関わらず秋芳尼は鳳空院から伴内と金剛のもつ駕籠にのって、浅草御蔵前の大隅屋にやってきたのだ。
米問屋主人にお礼をし、離れで施術後にうつ伏せで熟睡している竜胆の背中に、両手を刀創にあてた。
淡い緑の光を放ち自己治癒能力が高まり、刀創の縫合痕が塞がっていく。
そして、尼僧は般若心経の言霊を唱えた。般若心経とは、釈迦の真言であり、写経すると病気が平癒するといわれる。
まだ完璧には治らないが、怪我の治りが格段と早くなるのだ。
しかし、今は横向に横臥し、真横に美貌の尼僧が添い寝をしていたのだ。
抱き合うような姿で、竜胆の頬は秋芳尼の豊満な乳房に密着していた。
「はわわわわわわわ……これは失礼を……秋芳尼さまっ!!」
顔を真っ赤にして離れようとした竜胆だが、背中の刀創が痛んで、顔を歪ませた。
「いけませんよ……怪我人は安静にしなくては……」
秋芳尼が竜胆をひっしと抱きしめた。
尊敬する主の肌のぬくもりを感じ、ますます竜胆の体温があがった。
「しかし、これではまるで赤ん坊のようで……」
「よいではないですか、竜胆……今は赤ん坊になって養生するのですよ……」
「そんな……しかし……しかし…………」
その時、襖があいて、隣室から紅羽と黄蝶が入って来た。
「竜胆ちゃんが目覚めたのですか!!」
「心配したぞ、竜胆……あっ!!!」
布団の中で竜胆と秋芳尼が抱き合っている様をみて、紅羽が赤面した。急いで黄蝶の背後から両目を覆う。
「ちょっ……なんで目隠しをするのですか!」
「黄蝶にはまだ早い……竜胆と秋芳尼さまとがこのような関係だったとは……あたし達は隣で控えているので、ごゆっくり……」
「待て待て待て待て待て! 紅羽、お主は勘違いをしておる!!」
竜胆が弁明するが、妖刀に血を吸われたため、眩暈がして気を失いそうになる。
「あらあら、まあまあ……ほほほほほ……」
尼僧のおなかがクゥゥゥゥ~~と鳴った。治癒の法力は体力と栄養を削るのだ。
「まあ、お恥ずかしい……ほほほほほ……」
「秋芳尼さまぁ、浅茅さんからお結びを貰ってきたのですぅ……」
「まあ、ありがたい……」
「それに、竜胆ちゃんにはこれをと渡されたですぅ!」
黄蝶が合切袋から梅の実ほどの丸薬を出した。竜胆が手を伸ばす。
「おお、浅茅さんの作った兵粮丸と血渇丸か……ありがたい……」
忍びは漢方の薬の知識もあった。兵粮丸は栄養剤であり、人参・餅粉・麦粉をベースに、生姜・鶏卵・甘草などをかき混ぜ、それを梅酒か古酒に蜂蜜をくわえて混ぜ、とろ火で煮つめ作る。
血渇丸は天摩忍群が開発した秘伝の造血剤である。
「ダメなのです。重湯に混ぜて飲ませるようにいわれたのです……ちょっと待つのです……」
黄蝶が丸薬をもって、厨房を借りに走った。
「やれやれ、黄蝶まで私を子ども扱いしおって……」
ともかく、竜胆の世話を秋芳尼にまかせて、紅羽と黄蝶は別室で小頭の松影伴内と兄弟子の金剛に会って、今までの経緯を述べた。
「ふむ……その雷音寺獅子丸が所有しておる妖刀について、金剛が耳寄りな情報を得た……」
「えっ、それは……」
紅羽と黄蝶がその名の通り、金剛力士のごとき筋肉質の先輩忍者を見た。




