阿修羅の世界
「これは、見た目は酷いが、刀創自体は浅いようだ……なに、五針くらいですみましょう……ただし、血が多く失っておるようだ……手術後は、滋養のあるものを食べさせるように……」
「はいっ! よろしくお願いします、玄白先生……竜胆を……竜胆を頼みます!」
「先生、竜胆ちゃんをお願いするのですぅ……」
「まかせてください……」
紅羽は剃髪し、おだやかな顔の蘭学医に深く頭を下げた。
ここは御蔵前にある森田町の米問屋・大隅屋の離れ。松田半九郎が走り回って医者を探しだした。
ちょうど、蘭方医の杉田玄白が懇意の大隅屋に訪れていて、診て貰うことになった。
大隅屋の好意で離れが仮の手術室となった。
杉田玄白はこのとき、数え歳で四十九歳。
若狭国小浜藩医の家に生まれる。
八年前に『解体新書』(ターヘル・アナトミア)を和訳し、刊行したことで有名となった。六年前、藩の中屋敷を出て、旗本・竹本籐兵衛の浜町の拝領屋敷うちに地借りし外宅とする。
そこで開業するとともに、「天真楼」という医学塾を開いて、後進の育成につとめていた。
「よかったな、紅羽……玄白先生は現在、日ノ本でもっとも外科に優れた医者の一人だそうだ……」
ちなみに日本に西洋流外科技術が伝わったのは、江戸初期の慶安の頃、オランダ商館のドイツ人医師カスパル・シャムベルケルが教えたものだ。
これをカスパル流外科手術といい、日本蘭方医学の祖となる。
玄白が離れの障子を閉め、弟子と女中とで外科手術をはじめた。
竜胆は離れの布団の上でうつ伏となり、刀創に焼酎をふきつけてアルコール消毒をして、針と糸で縫合手術をうける。
竜胆は竹箸を咥え、痛みを耐えた……
華岡青洲が世界初の全身麻酔による手術を行うのは、この話より三年後の文化元(1804)年の出来事であり、青洲はいまだ麻酔を研究中であった。
「はい……松田の旦那……でも、手術をのぞいて、竜胆の裸を見ないでよ……」
「ば、莫迦……俺がそんな破廉恥なことをするか!」
「ふふ、冗談ですよ……それにしても、日本一の外科医に手術してもらえるなんて、竜胆は幸運だなあ……」
「きっと、紅羽ちゃんが蝙蝠さんを斬らなかったので、幸福を授けてくれたのですぅ!」
「蝙蝠は『幸盛り』、または『幸守り』か……」
さかしげに言う黄蝶を、紅羽はぎゅっと抱きしめた。
「わわっ……なんです、紅羽ちゃん……」
「ありがとう、黄蝶……あやうく、あたしは修羅道に堕ちるところだったよ……」
「えへへへ……なのです」
半九郎が修羅道とはなにか、と訊いた。
「修羅道……それは仏教において妄執によって苦しむ戦いの世界……修羅とは、阿修羅という善神のこと。彼は帝釈天との、正義の戦いを続けるうちに、相手を赦すことを忘れてしまった……」
「そして、正義に固くこだわっているうちに、善の心をうしなって執念の固まりとなり、善のはずが、気がついたら悪となっているのですぅ……」
「ほほう……お前たちはずいぶんと難しいことを知っているなあ……」
「秋芳尼さまのありがたい法話のお陰なのです!」
「ああ……なるほど……」
「そうだっ! このことを秋芳尼さまに報告するのです!」
黄蝶がダッとかけて、離れの雨戸から外へ出た。
「こんな夜中に危ないぞ……」
と、松田が追いかけるが、黄蝶は屋根より高く跳躍した。
商家の屋根、木々の枝を跳躍して、最短距離を進む。
「なっ……黄蝶は天狗の子なのか!?」
「……黄蝶なら大丈夫だよ、旦那……」
口をあんぐりと開ける寺社役同心に、紅羽がしんみりとした声をかける。
「そうか……それにしても、何故、雷音寺は急に引いたのだ……俺を目の仇にしていたのに……」
「松田の旦那……ともかく今は奴を探し出さないと、被害が広まるばかり……」
「むうぅぅ……紅羽のいう通りだな……俺は岸田殿と車善七殿にかけあって捕り方を出してもらう……」
「あたしは竜胆を見ている……」
「……そうだな……頼むぞ、紅羽……」
松田半九郎は番屋にいた岸田修理亮に『赤目の辻斬り』を取り逃がした事を報告し、捕り方を手配することにした。
「そうか……『赤目の辻斬り』の正体は、新九郎と試合した道場破り・雷音寺獅子丸という廻国武芸者だったか……」
「ええ……俺を恨んで斬りかかりましたが、突然、逃走しました……」
半九郎は妖怪変化を信じていない岸田同心に、雷音寺が魔物と化して飛び去ったことは告げなかった――
「まさか、秋田屋の裏の亡霊屋敷に潜んでいたとはな……瓢箪から駒だぜ……」
「まったく、世の中はわかりません……雷音寺の奴めぇ……かならず捕まえてやる……」
岸田同心は雷音寺が向島の四ツ木村、三囲神社、浅草の御蔵前と、まっすぐ南西に進んで姿を現していることから、南西の方角、浅草橋、柳橋方面に追手を差し向ける事にした。




