御蔵前殺人事件
もう、時刻は夕七ツ(午後四時)ごろになっていた。
ここは浅草にある御蔵前片町――隅田川の川岸に櫛の歯に似た船着場があり、広い往還をはさんで南西の一画に片町はあった。
御蔵前とは、この場所に幕府が天領地からあつめた米を収める六十七棟の御米蔵があったことから、そう呼ばれている。
この地には蔵奉行をはじめとする役人、多くの米問屋や札差が店を並べていた。
江戸時代の米問屋、札差はかなりの大金持ちぞろいで、高級住宅街でもある。
大商人たちは義侠心と洒落っ気もあった通人でもあり、吉原で大盤振る舞いをし、芝居歌舞伎のスポンサーもしている。
そして、殺人現場があったのは、その御蔵前片町にある袋物問屋・秋田屋の屋敷裏にある無人の空き家である。
なんでも、以前ここに住んでいた札差商人が一家全員殺されてしまい、幽霊が出るとかで、亡霊屋敷と呼ばれ、誰も買い手の無くなった地所だ。
ちなみに袋物とは、紙入れ・煙草入れ・手提げ・筥迫・印籠火打袋・守り袋・香袋などさまざまな袋状の入れ物のことであり、秋田屋はそれらをすべて商っている。米問屋や札差にひいきにしてもらい、たいへん繁盛していた。
そこの秋田屋主人・万兵衛の御内儀・お富が朝から姿がみえず、万兵衛が店の者に近所を探させたところ、店の近くにある件の亡霊屋敷で発見されたという。
お富は何者かに背後から斬りつけられ、即死。
検視結果では体内に血がなかった。
発見場所付近にも流れ出た血が見当たらず、噂の『赤目の辻斬り』が下手人だと思われ、大騒ぎとなった。
寺社役同心・松田半九郎が秋田屋へいくと、店の前に人だかりが見える。
秋田屋に入ろうとすると、浪人者が立ち塞がり、何者かと誰何した。狼面痩躯で、針のように目が底光りする尋常ならざる遣い手とみえる。
富豪のおおい御蔵前には難癖をつけてくる地回りや、押し込み強盗などが多いので、私設警備員として腕の立つ用心棒を雇っている店が多いのである。
「……俺は寺社奉行所の者だ……連れは事件の協力者たちだ。赤目の辻斬りのことで吟味したい……」
「寺社方でしたか……どうぞ……」
用心棒の油留木平内が態度をかえ、身を引いて通した。
帳場を抜け、廊下を進むと大広間がある。町方同心や小者が、主人をはじめ、番頭や手代、丁稚、女中たちを一ヶ所に集めて事情聴収をしている。
白皙で細身の、険しい目つきの町方同心が見えた。
「あっ! 岸兄……いや、岸田修理亮殿ではありませんか……」
「おう、松田殿か……寺社役同心がここまで出張ったってことは、やはり『赤目の辻斬り』を追ってのことだな……」
「岸田殿……あの用心棒、やけに剣の腕が立つように見受けましたが……」
「ああ……一応、刀身を調べたが、血脂のあとはねえ……それよりも、だ……いくらお前でも、ここは町方の縄張りだ。下手人は町方がいただくぜ……」
「いや、手柄云々よりも、町衆の安全のために協力して捜査しましょうよ……」
決然と言い放つ新九郎に、岸田修理亮は十手で肩をポンポンと叩きながら、ニヤリと笑った。廊下に新九郎たちを呼んだ。
「ふふん……まあ、その通りだな…可愛げがなくなったが、頼もしくなったじゃねえか……」
「岸田殿の訓戒の御利益ですよ……」
「抜かしやがって……この剣の天才児が……」
「いや、そんな……」
「謙遜するねい……十六歳で切紙を許され、十九歳で本目録を受けるたあ、中西道場でもそうはいねえぞ。俺なんか本目録をもらうのに十年以上もかかった……」
「いやいや、その話は後でゆっくり……今は事件についてお聞かせください……」
「ふふん……ここは町方にまかせて欲しいところだが、お前の後学のためだ……今回は共同捜査といこうか……」
「おおっ! ぜひ、お願いします!」
「ところでよう……その娘さんたちは……一体、なんの判じ物でい?」
岸田同心が訝しげに松田半九郎の肩越しに背後を見やる。
廊下には、茜色の羽織に、黒袴をはいた寺侍姿の男装剣士・紅羽、白い羽織に緋色袴をはき、薙刀を携えた巫女剣士の竜胆、黄八丈の着物に赤い帯をまき、赤い鼻緒の黒下駄をはいた町娘の黄蝶がいた。
「あたしたちは最近、巷で売り出し中の妖怪退治人です。あたしは紅羽といいます!」
「私は竜胆と申します」
「黄蝶なのです。よろしくなのです!」
「なにっ!!! 妖怪退治人だとぉ……」
岸田同心が括目して三人娘をみやる。一瞬にして、この空間に緊張が走る。




