春風駘蕩
春風がそよそよと心地よく吹き、駘蕩たるおだやかな日和。
黒の紋付羽織を着流した二人組が田舎道をあるいていた。
「ふうむ、雨が降ったときは冷えたが、また温かくなったのう、半九郎……」
「はい、伯父上……春と秋がもっとも過ごしやすうございますな……」
「これから廻るところがわしらの担当する寺領だから、しっかりと覚えるのじゃぞ……」
「はいっ、それはもちろん! 寺社役同心としての初仕事、つつがなく覚えてまいります!」
「うむ、その意気じゃ……」
彼等は寺社奉行・牧野豊前守惟成の家臣で、寺社役同心である。
年かさの者が坂口宗右衛門で、若い者は松田半九郎といい、ともに寺社役同心である。
寺社役同心とは、僧侶・神官の身分素行を調べあげ、寺社領で犯罪があったときは捜査し、咎あれば捕縛する。
また寺社領で祭などの興業があれば、見廻りをする役目もある。
江戸城から北へ歩いて二里半(約9500m)ほどの地に谷中がある。
ここは寺が多い町で、感応寺(今の天王寺)がもっとも寺領が広い。
その周囲に中小の寺院が広がり、さらに道を北へ進むと新堀村となり、田圃と山林が多く見え、寺社の建物も点在している。
この辺りは江戸町奉行の管轄ではなく、墨引きの外ゆえ関東郡代の支配する区域である。
だが、寺社奉行は墨引きなど関係ない。
全国の寺社と寺社領の僧侶・神官・門前町の人々を管轄して、訴訟あれば裁判もする。
二人は実相寺という寺院へ挨拶にいった。
寺社役同心のおつとめで見廻りに来たのである。
実相寺は谷中では中規模の寺領だが、半九郎は丹後国の松田家や坂口家の菩提寺である小さな山寺しか知らぬので、かなり立派にみえた。
庭を掃いていた小僧に伝えると、福々しい執事の僧侶が応対にでてきた。顔見知りの坂口宗右衛門がにこやかに挨拶し、新九郎を紹介した。
「ゆくゆくはわしの跡目を継いで見廻りにくる、甥の松田半九郎じゃ……」
「それは、それは……なにとぞ、今後ともよろしくお願いいたします……」
「……いえいえ、こちらこそ……」
庫裡に呼ばれて、茶と饅頭を出され、世間話をはじめた坂口同心と執事。帰り際に執事がにこやかに坂口と松田の袖の下に何かいれた。
サッと顔色をかえた半九郎は、袂から出して確かめる。
花紙につつまれた鳥目銭数枚であった。新九郎は執事に押し付けるように返す。
寺を出てからも松田半九郎は伯父になぜ袖の下のお金を返さないか、賄賂ではないかと詰め寄った。
「そう、硬いことをいうな、半九郎……山吹色のお菓子ならともかく、ほんのはした金……煙草賃、いや子供の手間賃ほどではないか……」
「いいえ、金銭いかんにかかわらず不正です! 賄賂です!」
他の寺や神社でも同じように袖の下に紙包みを渡す者があったが、半九郎は頑として受け取らない。
「なに……この銭はなあ……いざという時のため使う、賄い金のようなものよ……」
「なんですか、それは?」
坂口は初音の道の門前町にある菓子屋にいき、袖の下のお金で、『桜薯蕷』という和菓子を買った。
薯蕷とは、大和芋・山芋・つくね芋などのことで、これらの芋をすりおろし、生地に練り込み、蒸し上げた饅頭のことだ。
ふっくら、やわらかな白皮に桜の塩漬けをそえた和菓子である。
「……それは御供え物ですか?」
「……まあ、黙って見てなって……」
坂口同心に連れられ、初音の道の門前町から、荒川のある北の方角へ足をむけた。
寺町の往還を抜けると、田園地帯が広がり、道灌山が見える。
山といっても高さ二十二メートルで、お椀型のなだらかな台地が正しい場所だ。
江戸幕府ができる以前、室町のころ大田道灌の出城があったといわれている。近在の者や江戸の庶民たちが観光をし、山草や薬草取りにくる場所だ。
明治時代、正岡子規が見晴らし、「山も無き 武蔵野の原を ながめけり 車立てたる 道灌山の上」と、短歌を残している。
道灌山ちかくの小高い山の長い石段の上に尼寺が見えた。
石段の正面に茅葺き屋根の小さな茶屋が見えた。「松葉屋」と看板があるひなびた店だ。
往還に面した店先には緋毛氈がしかれた縁台があり、真っ赤な野店傘が差され、なかなか風流である。
「おおっ、これはこれは……坂口さま……それに、松田様も……」
「うむ。茶を一杯たのむぞ、伴内……」
「あなたはたしか……」
松田半九郎は初老の茶の主人に見覚えがあった。以前、『百目の通り魔』事件で、浅草で妖怪と戦ったときだ。たしか、松影伴内といった――
「あっ、坂口さまがいるのです!」
「一緒にいるのは松田殿ではないかのう?」
「ホントだ……見廻りにきたのかもね……」
右手の田舎道から耳慣れた娘たちの声が聞こえてきた。
黄蝶・竜胆・紅羽が山菜のはいった籠を背負って歩いてくるところだ。近くの道灌山で採取したフキノトウ、たらの芽、山ウド、わらび、ぜんまい、青こごみ、せり、行者にんにくなどが見えた。
清貧をたっとぶ尼寺では寺領で野菜などを作り、山菜をとって自給自足の生活を過ごしているのであった。
「あいつらがいるということは……伯父上、ここは……」
「そうよ……妖怪退治人の元締め、柳厳山鳳空院よ」
伯父が人の悪い笑みを浮かべて、扇子をパタパタとあおぐ。
寺社奉行所は僧侶・神主だけでなく、悪霊や妖怪を退治する山伏・陰陽師、民間の呪い師や拝み屋、除霊師、退魔師などの妖怪退治人も管轄していた。
「こんな辺鄙な場所までごくろうさまです……坂口さま……松田さま……」
三人娘の背後から黒い法衣に白い尼頭巾をかぶった美貌の尼僧が現れた。
年齢は十八歳くらい。ニコニコと微笑み、菩薩のように慈愛あふれる尼僧である。
左の目尻にホクロがあり、色っぽい。スラリと背が高く細身だが、胸部は豊満なふくらみがあった。
「おおっ……秋芳尼殿、あいかわらずお美しい……」
半九郎も思わず見とれてしまう。
――なんと、可憐であることか……
挿絵・ヨモギモチ




