谷中の尼寺へ行け
鳳空院の山門から出た石段下、五丈(約30メートル)ほど先には、茅葺き屋根のこじんまりした茶屋がある。
たまに訪れた旅人や通行人は、「こんな寂れた山寺の前に店を開いてもうかるのであろうか?」と疑問に思うであろう。
江戸時代には電車も車もなく、庶民は馬に乗ることも制限され、移動手段はもっぱら徒歩だけであった。
そこで、山の峠や宿場ちかくなどに休憩所としてよく茶屋があった。
「掛茶屋」あるいは「水茶屋」ともいう。
現代でいうなら町のコンビニ、ファミレス、高速道路におけるサービスエリアといえよう。
この鳳空院山門前にある茶屋は「松葉屋」といって、山道に面した店先には縁台がおかれ、緋毛氈がしかれ、真っ赤な野店傘が差されている。
うららかな小春日和に、森林ではウグイスが鳴き、なんとも風光明媚な地所である。
そこへ、石段上にある寺院から紅羽を筆頭に黄蝶が駆け下りてくる。
その背後にゆっくりと秋芳尼と竜胆が降りてきた。
店の表で、前掛けをした仏頂面の松葉屋の主人と、大柄な炭売り男が一人の若者を縄でぐるぐるにふんじばっていた。
「うわぁっ!! 小頭っ、なにがあったんだ! 泥棒か、食い逃げでも捕えたのか?」
「莫迦っ! わしは茶屋の主人だぞ、その名で呼ぶなっ!」
「あっ、そうか……てへぺろ」
紅羽が舌をだす。
「ったく……お前は粗忽者のクセがなおらんのお……」
自慢の口ひげをしきりにひねっている鋭い目つきの初老の男が茶店・松葉や主人だ。
本名を松影伴内といって、若い頃は豊後国で名の知れた忍びだ。
松葉や主人が怒りを爆発させんとしたとき、やっと秋芳尼が茶屋に到着した。
「ふう……さっき石段をのぼったのに、もう降りることになるなんてねえ……あらあら、伴内さん、金剛さん、どうしたのですか?」
「それがですな、秋芳尼さま……男子禁制の尼寺に不届き者が押し入ろうとしていたので、金剛と捕まえんですじゃい……」
名前の通り、金剛力士のごとく筋肉隆々の大男が秋芳尼のまえで膝まずいている。
近くの炭小屋にすんでいる炭売りだが、実は伴内配下の忍びだ。
鳳空院は尼寺であるゆえ、男子禁制の結界がはられている。
無理に侵入すれば寺役人に捕縛されるが、役人を呼ぶまでもなく伴内と金剛が確保した。
「まあまあ、乱暴はいけませんよ……なんでも江戸に怪異が現れたとか……」
「ええ……それが……」
縄で縛られて店の前で芋虫のように転がされていた若者は、女の集団がきた途端、米つきバッタのようにピョンと跳ね上がった。
「これはこれは、秋芳尼さま……手前は呉服屋・湊屋の手代で吉兵衛ともうします。どうかお話を聞いてください……」
と、勢い込んで話そうとしたが、秋芳尼の端正な顔立ちと、法衣につつんだ情感あふれる肢体をみた吉兵衛は目を見開いた。
「うはぁぁぁ~~なんとも美しい尼法師さまで……こんな小汚い茶屋より、本所の小粋な料理屋で話しませんか? 二人っきりで……」
「えぇぇぇぇ? 困りましたね……」
戸惑う鳳空院住持の周囲を、縄でぐるぐる巻きの吉兵衛がピョンピョンはね回る。
松影伴内が吉兵衛を背後から取り押さえた。
「小汚い茶屋で悪かったな……それよりも秋芳尼さまに向かっていやらしい誘いをしおってからに……金剛、こいつの足を持て。簀巻きにして谷川にほうり投げてやる!」
「はっ!! 秋芳尼さまを不遜な眼で見ることは万死に値します!!」
「どわあああああああっ! 待て待て、春の谷川はまだ冷たいよぉぉぉ……死んじゃうよぉぉぉ……」
「まあまあ、伴内さんも、金剛さんも落ち着いて……それよりも江戸の町に怪異がでたとか……」
「そうそう、そうなんですよっ! おいらの許嫁のおるいちゃんが、妖怪にさらわれたんですぅぅぅぅ!」
「妖怪!?」
妖怪の言葉に一同が反応する。
吉兵衛を縛った縄をほどき、縁台にすわって話を聞くことになった。
急に周囲が薄暗がりになり、不気味な雰囲気となる。
春風に吹かれ、厚い雲が通りかかったからだ。
「おるいちゃんを探して欲しいと町奉行所の同心に訴えたんですが、妖怪幽霊は専門外だといわれて……町奉行より寺か神社へ行けと……」
といっても、近くの神社仏閣では妖怪退治なんてしていない。
そこで、寺社奉行所へいって、妖怪や悪霊を退治してくれるところを聞きだしたのだ。
吉兵衛がみぞおちに左手をあて、右手を前方にあげた。
すると、雲の隙間から陽光が差し込み、憂えた表情の吉兵衛を照らした。
「すると、寺社同心のひとりがこう言いました……谷中の尼寺に行け……っと」
悲劇の主人公よろしく、吉兵衛が余韻にひたると、また雲が覆って周囲が薄暗がりになった。
通り雨でも降りそうである。
「え~~と、もっと詳しく教えていただけますか?」
そして吉兵衛が昨夜おこった本所深川の隅田川沿いの土手道での怪異事件をこまかく語る。
「それでですね……隅田川へボチャンと消えようとする妖怪を、手前がむんずと捕まえて引き戻し、黒い紐をちぎっては投げ、ちぎっては投げて格闘したんです。すると、恐れをなした妖怪が逃げ去り、今まで許婚の手前を邪険にしていたおるいちゃんは、『見なおしたわ吉兵衛さん……』といって、互いにヒシッと抱きしめたんです……」
吉兵衛が両手で自分を抱きしめ抱擁の身振りをする。
あきれた紅羽がジト目で手代を問いただす。
「おいこらっ、吉兵衛! 最初、おるいちゃんという娘は妖怪にさらわれたといったのに、なんで今はお前が助けた話になってるんだっ! 仮にお前がたすけたら、鳳空寺に来る意味はないだろ……」
「はっ、こりゃまた失礼……途中で手前の妄想がはいりました。本当は震えてしまって動けませんでした……」
そして、正直に事件の一部始終をくわしく話した。
「黒い紐の妖怪かぁ……正体はなんだろうなあ?」
「おっと、若侍の姿をしておりますが、なんと凛々しくも美しい娘さんで……お名前は?」
「ん……あたしは紅羽だ……莫迦野郎、お世辞なんかいいやがって……」
「いえいえ、手前、あなたのように綺麗な美女剣士をお見かけしたのは初めてでして、おもわず心の声が出てしまったしだいでして……」
「え、そうかぁ……じゃあ、しょうがないなあ……てれてれ……」
美しいと言われて素直で単純な紅羽は照れて赤くなる。
「赤くなるでない、紅羽! どれだけチョロのじゃ……コイツは相当な女たらしと見たぞ!」
巫女剣士の竜胆が紅羽のにやけた頰を引っぱって正気に戻す。
「いひゃいよ……ひぃんどぉぉぉぉぉ……」
「おぉぉぉ……なんとも麗しくも可憐な巫女さん……お名前を是非……」
「お主のような好き者に名乗る名は無いのじゃ!」
――パァァァン!
竜胆は吉兵衛の右頰を平手打ちにした。
「ぶひえぇ……でも、いいかも……」
「変態なのじゃ、こやつは……」
「ちょっ……いくらなんでも暴力はいけないですよ、竜胆ちゃん……」
黄蝶が二つ結びの髪をなびかせ、不自然な角度で倒れた吉兵衛をたすけ起こす。
「あぁぁぁ……なんて優しい女の子だ。名前をおせえて……」
「黄蝶なのですぅ」
「お兄さんがお礼に本所の老舗和菓子屋でお菓子を買ってあげるよ……」
「わぁい、黄蝶お菓子だ~~い好きなのですぅ♪」
秋芳尼がはしゃぐ黄蝶を抱き寄せた。
「いけません、黄蝶……知らない人にお菓子をもらっては……」
「はっ、そうでした……」
松影伴内と金剛が吉兵衛を莚で包んで、縄で縛りはじめた。
「この好兵衛野郎め……やっぱり、簀巻きにしてやるわい!」
「谷川の水で行水させ、性根を治してやろうか……」
「ぎゃああああ~~~死ぬ死ぬ死ぬ……たすけて秋芳尼さまぁぁぁぁぁ……」
呆気にとられた鳳空院住持だが、とにかく妖怪退治の依頼がきたのだ。
「え、え~~と、とにかく本所の堤防沿いに妖怪が出現したのですね……これは事件ですわ!」