柳の下に怪異が一匹
本所深川の夕暮れ時――
人通りが少ない川沿いの道、枝垂れ柳の細い枝がゆらゆら夕風に揺れている。
五月にしては暑い陽気の一日だった。隅田川から微風がただよい心地よい。
西日が真っ赤な血のように紅く燃えて沈みかける。大江戸八百八町の瓦屋根や土塀に紅く反射して夢幻図のようだ。
こんな夕暮れ時を昔の人は「逢魔が時」といって恐れた――。「逢魔が時」はまたは「大禍時」ともいい、太陽の照らす昼間から、闇夜に変わる時刻――物陰に眠っていた妖怪変化や魑魅魍魎がむくりと起き出し、人々と出会う禍々(まがまが)しい時間帯といわれている。
隅田川沿いに植えられた柳にそって、一人の娘が歩いていた。
娘の名はおるいといって、十五歳。蝋燭問屋・大黒堂の女中だ。凛とした涼しい目の美少女で、島田髷に結った黒髪が烏の濡れ羽根のように美しい。
両国へつかいにいった帰りである。
茶屋で休んでいた手代風の優男がおるいを見つけて声をあげた。
「お~~い、おるいちゃんじゃねえか!」
「あら……吉兵衛さんね……」
おるいはチラと吉兵衛を見るがそっけない。対して細い体をくねくねさせた吉兵衛のほうは上気した顔をしている。
「あら、吉兵衛さんとはつれないなあ……お使いの帰りかい?」
「ええ、そうですけど……」
「疲れたろう……茶と団子をおごるから、こっちへ来なよ」
「あいにくですけど、お使いがすんだらまっすぐ大黒堂に帰らないと旦那さまに叱られるものでしてね……」
「茶を一杯飲むくらい大丈夫さ……いいだろう? な、な……」
「吉兵衛さん、困りますよ……」
「嫌よ嫌よも好きのうちさ……さあさあ、椅子に座った、座った……」
「困るっていっているでしょ!」
子犬のようにまとわりついた吉兵衛が手を握って茶屋に引き込もうとしたので、おるいは袖をヒラリとさせて向きを変えた。優男吉兵衛はフラリと三歩前によろけて地面にへたりこむ。
「そんなあ~~……」
おるいは振り返りもせずに隅田川沿いの道を大黒堂めざしてスタスタ歩いて行く。樹高10メートルはある枝垂れ柳の長い枝がさわさわと揺れている。吉兵衛は声をかけようとしたが、口ごもる。
それは、枝垂れ柳が紅い夕日に反射して、まるで無数の赤い蛇に見えたからだ。美しいおるいに赤蛇が絡みつくようすを夢想して、その妖艶さに言葉が止まった。
(はぁぁぁ……おるいちゃんは柳の下でも似合うなあ……)
吉兵衛がニヤケてしばし見つめていると、日が本格的に沈みこみ、紫の闇と化していく。すると急に生臭い匂いがして、吉兵衛は鼻をつまみたくなる。さらに吉兵衛は背筋に氷をいれられたようにゾッとした。
(なんだぁ? 急に冷え込んだなあ?)
おるいにまとわりつく柳の枝に混じって、なにか黒くて細い紐のようなものが見える。それが徐々に伸びていきおるいに巻きついていった。
「えぇぇ? おるい?」
黒い紐は無数に美少女に這い回り、食虫植物のようにおるいを絡め取った。おるいは口を黒い紐に覆われて声を出せない。
異常を感じた吉兵衛が起き上がろうとするが、立てない。どうやら腰が抜けたようだ……
「たいへんだぁぁぁぁ! かどわかしだぁぁぁぁ!」
混乱した吉兵衛が助けを求めて大声を出す。人気がいなかったが、大声に驚いた川沿いの人々が通りに出てきた。
そして柳の影に隠れてなにか黒い紐の群れに襲われた娘をみて気の弱い女子供は悲鳴をあげて腰をぬかした。
だが、肝の太い男衆たち三人、おるいを救おうと駆けだした。男達はおるいに絡んだ黒い紐を触り、それが無数の黒い糸の塊だとわかった。
「この野郎! 放しやがれっ!」
しかし、黒い紐は怖ろしい力でおるいを引きずっていく。その先は枝垂れ柳の影になにか大きな毛玉のような塊があった。その塊の中心部から、突如白い霧が吹かれた。
「なんじゃあ、こりゃあっ!」
と、助けに向かった男たちが白い霧にむせて咳き込む。蒼い顔をしてへたりこみ、その間におるいが謎の影にとりこまれた。
「嗚呼……おるい……おるいぃぃぃぃぃぃ…………」
吉兵衛が涙と鼻水でくしゃくしゃの顔になったが、恐怖のために動けない。
やがて、隅田川に大きな水音がして、怪異がさった――おるいとともに……