忍び寄る陰謀
筧惣兵衛が托鉢僧を尾行すると、宗岡領の廻漕問屋・商店・馬方宿・足袋屋などが軒をつらねる宗岡河岸の方へ向かった。
横手に名物の『いろは樋』が大蛇のように横たわって見える。
――あの雲水は土地の者なのか……それとも旅の者だとしたら、この辺りで宿を取るのかな?
義民気取りの学者僧ほど始末に負えない者はないと、惣兵衛は心の中で毒づいた。
だが、托鉢僧は旅籠に見向きもせず、まっすぐと堤を登り、人気のない引又橋の下に向かった。
托鉢僧のほかに、宗岡領から針の行商人、鋳掛屋が、引又領から船着場の荷場人足や問屋場の宿場人足、薬の行商人などが集まってきた。
身分職種も違うが、彼らは仲間のようだ。
――やや……怪しげな奴らが集まってきた……これはただ事ではないぞ……
御庭番は葦の大群に身を隠し、様子をうかがった。
夏だというのに、脇の下から冷たい汗がでる。
気づかれないように呼吸を整えて、穏形の術で気配を消す。
彼は若年より紀州根来寺で忍術・武術を修練して、諜報活動に役立てていた。
八人の男たちは何も会話せずに彫像のように佇んでいる。
すると、橋脚の影からゆらりと白い影が陽炎のように現れた。
深編笠に白い着流しに袖無し羽織で髷は結わず総髪である。
顔は見えないが、青白い肌で、どこか雅な風を感じさせる武士であった。
集まった人足や旅の者は片膝ついてうやまった。
「奥月さま……引又宿の高札に例の檄文を貼りだしました……」
「宗岡の高札も同様に……」
「薬を売るついでに、養蚕百姓どもに生糸改会所ができれば、やがて武州の生糸市場は衰退すると示唆しました……」
「仕事のあぶれた人足たちに巧みに近づき、改会所が設立すれば仕事にあぶれて職を失うかもしれぬと、流言を撒き散らしました……」
そして、筧惣兵衛が尾行した暁闇坊が、
「神社に養蚕百姓たちを集め、改会所の有害さをとき、会所派商人を怨嗟の的に仕向けました……」
「うむ……皆の者、御苦労……」
白色尽しの侍・奥月勘解由が鷹揚にうなずいた。
彼らは橋の上を通った者にも聞こえない低声で話していたが、筧惣兵衛の優れた忍者耳が一句も漏らさず盗み聴いていた。
まるで人間集音器である。
「これで武州の百姓どもも眼が覚めるであろう……」
「しかし……こんな回りくどいやり方をせずとも、我らが夜間に絹宿を襲い、暴徒が怒り狂った事件に擬装するなどをして、一揆の呼び水にしたほうが手っ取り早いのではありませぬか?」
「そうそう……十八年前に伝馬騒動があり、中山道が滅茶苦茶になったとか……なにか切っ掛けがあれば、火が付きやすい土地柄なのでは?」
「いや、……今回の改会所の設置策は助郷の強要とは違い、そんな事をしても暴動にはならぬ……今はまず、武州の養蚕百姓どもに疑念の種を撒けばよい……」
奥月勘解由は深編笠の下でニヤリと笑った。
「やがて、次々と疑心は広がり、暗鬼と化していくだろうて……その頃合いを待つのだ……すべて計画通りに進めてゆくのだ……」
「はっ!」
八名の男たちが御前様の言葉をきいて、緊張した面持ちで平伏した。
これを訊いて、筧長兵衛は蒼褪めた。
――とんでもない奴らに出くわしたものだ……こいつらは只者ではない……計画的に一揆を煽動している……さては義賊と称する輩か?
御庭番・惣兵衛は忙しく頭を働かせたが、まだ情報が足りない。
奴らに見つかれば只ではすまないだろうと思うと恐怖心も湧く。
だが同時にこれは好機でもある。
一揆を煽る者たちの情報を老中に報告すれば大手柄だ。
――ふふふふ……お峰、俺にもようやく出世の兆しが見えてきたぞ……
御庭番の表向きの仕事は、朝になると江戸城へ出仕し、広大な庭にある御庭番所に詰め、大奥の警備をしていた。
ときに御側御用取次の小笠原信喜から命令を受けて情報収集をして、老中・松平輝高に直接報告した。
惣兵衛は毎日夕食時や、非番の日の内職の提灯作りの時に、女房のお峰から、「同じ御庭番十七家でも某は旗本に出世した、あんたも早く手柄を立てて、広い屋敷に引っ越して、奉公人をやとって楽をさせてよ」などと嫌味をいわれる。
そんな日々もお終いだ。
御庭番は、御目見以下の御家人身分だが、将軍に直接あって密命を受ける特殊な存在であった。
そして、功績しだいで旗本にまで出世できた。
たとえば、幕末に新潟奉行・外国奉行となった川村修就、普請奉行となった明楽茂正、外国奉行となり、日米修好通商条約批准書交換のためアメリカに行った使節団の副使となった村垣範正などがいる。
伊賀組や小人目付などは手柄を立てても、恩賞はあるが、加増や出世は難しい。
じっさい、御庭番十七家――のちに二十六家は、幕末までに大半の者が下級旗本にまで出世した。
こんな話が残っている――ある地方に新しく就任した代官は、土地の者にこんな噂話をされた。
代官となった旗本は、十数年前にこの辺りで飴屋をしていたそうだ、と。
これはその旗本が昔、その地方で飴屋に変装して情報収集をしていた御庭番だからに他ならない。
御庭番がそんな特別待遇をされるのは、紀州出身の徳川将軍家が藩祖より忠勤に励んだ家臣のうち、優秀な者を取り立てて身近に置きたいという心情からであろう。
――俺は手柄を立てて旗本に出世してやるぞ! 貧乏御家人生活とはおさらばだ……旗本屋敷を拝領して、俺だってお殿様になってやる!! 見ていろ、お峰……お前も旗本の奥方様だぞ!!!
葦原の中で野心に燃える男の存在を知らず、白尽くめの侍は江戸に向かって冷たい眼差しをおくった。
「松平右近太夫め……老中首座になど登り詰めおって……もはや、容易に近づくことも出来ぬ……だが、これが上手く進めば……ふふふふふ……貴様のせいで散った同志たちの無念を思い知れ……」
薬の行商人が、
「……ところで、奥月様……妙なことを耳にしました」
「なんだ……甚内、妙な事とは?」
「引又宿の名主・三上屋七郎右衛門の屋敷に、河童退治のため江戸から妖霊退治人を呼び寄せたというのです……」
「河童退治だと……それがどうした?」
「いえ……それが……妖霊退治に呼ばれたのは谷中鳳空院の秋芳尼一党だというのです……」
「なにぃ!?」
奥月の眼が見開かれ、薬の行商人に食い下がった。
「それは真か!? おお……聡明にして、美しくも可憐なる秋芳尼さま……武州の片田舎で逢いまみえるとは、これぞまさに天佑! 忌々しくも奸佞邪智たる天摩衆から救い出し、御前の元へお連れせねばなるまい!!」
奥月勘解由が両眼に狂的な光をおびて熱弁した。
「お待ちください……三上屋へ行って確かめたところ、麗しき秋芳尼さまとは似ても似つかぬ偽者でした……どうやら、河童騒ぎに乗じた騙り屋のしわざのようでして……」
「なにぃぃ!? 偽者だとぉ……くだらん……いや、無礼にもほどがある……騙り屋ごときが秋芳尼様の名を汚すとは万死に値する!」
奥月勘解由が太刀を抜き打ち、近くに生えた葦の茎を切り払った。
「この私が不躾なる偽者どもに天誅を食わらせてやる!!」
「おやめ下され、奥月さま!!」
薬売りの甚内や托鉢僧の暁闇坊たちが慌てて止める。
「余計な騒ぎで役人に気取られてはいけませぬ!」
「大事の前の小事……小者など、今は捨て置きなされ!」
「そうです……御前様の計画を御破算にするおつもりですか!!」
御前様の名前を訊いて白装束の武士も動きをとめる。
「ううむ……そうだな……御前様の命は絶対だ……」
「そうです……今は忍苦の時ですぞ……」
「わかった……明日は上州へ向かう……かの地で疑惑の種を撒くのだ……」
「ははっ!!!」
一時の激情が冷め、冷静沈着な本性にもどっていった。
一方、葦原の中の御庭番は『御前』と称する黒幕の存在を訊いて心が騒ぐ。
――ただの義賊一味かと思いきや……これはとんでもない黒幕がいるやもしれぬな……
「いや……待て……」
男たちの頭目株がギロリと周囲へ視線を向けた。
「なにか?」
奥月がさらに低声で「誰か尾行されたな……」といい、目配せをした。
暁闇坊、甚内らが阿吽の呼吸で息を止め、奥月が右手を上げると、みな一斉に、長く息を吸い、同じだけの時間で息を吐いた。それを延々と続ける。
――やや……奴ら、何の呪いをしているのだ?
筧惣兵衛が眉根を寄せ、不安げに様子をうかがった。
奥月勘解由は両眼を閉じ、五感を研ぎ澄ませて周囲をうかがった。
「わずかな呼吸の乱れ……そこだっ!!」
白装束の侍が指差す先の葦原に、男たちが踵を返した。
匕首短刀などを取り出し、
「ええい、そこに誰かいるのか!?」
葦原から平凡な顔立ちの行商人が顔を出した。
気弱げな表情で、袴をあげて帯を締める。
「ま、待ってくだせえ……おらはただ、用を足しに踏ん張っていただけですだ……見逃してくんろ……」
「なんだと?」
「きさま……今の話を聞いていたな!?」
「はて……おらは難しい話はわからねえだよ……字も書けねえし……帰っていいだか? 干し魚を売らないと、おまんまも食えねえだよ……」
「……こやつ……どうします?」
「叩きのめして、ここでの事をしゃべらないよう脅しますか?」
「いや……奴は愚か者を装っているが、ただの行商ではない……ただの商人が今の今まで、我らから気配を隠せるわけがない……」
男たちが殺気だち、惣兵衛は鼻白む。
「幕府の狗だ!!」
「隠密は生かして返さん!」
暁闇坊が錫杖を振り上げ、甚内らが匕首を持って葦原へ殺到した。
「くそっ!!」
筧惣兵衛は背中の風呂敷包を男達に投げた。
中から干し魚が宙に散らばりつつ、その中にある毬ほどの大きさの火薬玉三つから煙が湧き出し、あっという間に橋の下一帯が白煙で閉ざされた。
蹈鞴を踏む甚内たち。
「煙玉か!?」
「煙遁の術とはしゃれたことを……」
「同士討ちとなる……刃物は納めろ!!」
そのとき、何処かから、乾いた銃声音が連続して鳴り響いた。
パンッ! パンッ! パンッ!
「いかん、伏せろ!!」
「火縄銃か!?」
「ほかに仲間がるのか」
白煙が薄れていき、周囲の景色が見え始めた。
橋脚、河川敷の葦原、新河岸川の川面――隠密の姿は当然ながらいない。
周囲を探していた宿人足の男が地面に火薬臭のする妙なものを見つけた。
「奥月さま……こんなものが!」
宿人足が右手に持ったものは爆竹の焼け残った残骸だ。
御庭番の母体となった紀州藩薬込役は、狩りや射撃訓練のとき、火縄銃に火薬を詰めるのが仕事だ。
火薬の扱いに長けていて、秘伝の火薬術を心得ていたのだ。
「ほう……これで、銃声と錯覚させたか……敵ながら見事な奴よのう……手下に欲しいところだ」
「奥月さま、敵を褒めている場合ではございませぬぞ!?」
「わかっておる……奴を江戸へ逃すな……甚内、銀目は南へ。羅刹、暁闇坊は東へ。粂丸、雨鬼は北へ。幻也、血風は西を探れ!!」
謎の集団は緊張した面持ちで「はっ!!」と応えて、走りさる。
「さて……困ったことになったものだ……部下の報告を待つため宿坊に戻るか……」
一人残った奥月勘解由がゆったりとした足取りで堤にそった道へ向かった。
途中、橋脚を支える石垣があり、なんの気なしといったふうに刀を抜き、音も無く石垣に突き刺した。
刀は当然折れるはず――だが、刀尖はやすやすと岩石を貫いた。
すると血肉を持たぬ無機質な岩石から赤い血がたらり、たらりと滴り始めたではないか!?
石垣と思った壁面が人型に盛り上がり、畳ほどの布を纏った男が地面に倒れた。
その男――筧惣兵衛の胸に刀が突き刺さっている。
筧惣兵衛は煙玉で橋の下から逃げたと見せかけ、石垣に模した布をつかい、「隠れ身の術」で姿を見えなくしていたのだ。
「な……何故わかった……」
「わしは耳が人よりいいでな……息を止めても、わずかながらも心臓の鼓動音、身体内の血流音がある……小動物とは違う、人間のそれらの音を聞き取ったのよ……」
「莫迦なっ!?」
小声をも聞き取る惣兵衛の忍者耳でもそんな音まで聞き取れない。
本当だとすれば、超人的というよりも化け物に近い聴力であった。
「……くそっ、なんて奴だ……お峰……すまぬ……」
無念の表情を浮かべ、筧惣兵衛は唇から血を滴らせて息を引き取った……
その周囲に四方に散ったはずの八人の男たちが集まってきた。
四散したと見せたのは芝居だったのだ。
「こやつの死骸は川に流しますか?」
「いや……地中奥深くに埋めよ……こやつの痕跡を消すのだ……」
「はっ!!」
深編笠の侍は御庭番の袂で血をぬぐい、冷然と刀を鞘に納めた。
「ふふふふふ……次は上州で疑心の種を撒きにいくぞ……」




