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妖霊退治忍!くノ一妖斬帖  作者: 辻風一
第十四話 襲来!暗闇の緑魔
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御庭番

 秋芳尼たちがやってきた引又村の東側に、新河岸川をはさんで宗岡領があり、弧を描いた引又橋が人の交流をつないでいる。


 この道は奥州と甲州をつなぐ脇往還の奥州道(今の志木街道)である。


 新河岸川の両岸には引又河岸と宗岡河岸があって、市日いちびともなれば、市場通りに絹市がたち、江戸へ生糸や絹織物などを八十船から船人足たちが荷物を下ろし、江戸から戻った船は代わりに江戸の荷物を蔵へ運んで活況となるのだが、今はひっそりとしている。


 それというのも、幕府が急に生糸貫目改会所を七月二十日から設置するというので、呉服問屋の買い付け人と養蚕農家が戸惑ってしまい、絹市が停止してしまったからだ。


 宗岡村は荒川と新河岸川にはさまれた土地であり、昔から水害が多かった。


 そのため、江戸時代に宗岡領の周りをぐるりとつつみで防いだ。


 しかし、大雨が降ると堤が決壊した。そのため農家は少し高地に家を建てたが、さらに盛り土をして高さ2メートルほどの石垣で囲んだ。


 宗岡河岸から奥州道を東へてくてくと歩く、風呂敷包みを背負った二十七、八歳ぐらいの行商人がいた。


「ほう……あの高地の蔵は『水塚みずつか』という奴だな……」


 これは川の多い武州ならではの工夫で、土地の者は『水塚みずつか』と呼ぶ。


 『水塚』の上に土蔵をつくり、貴重品を保管し、手漕ぎの小舟まで用意して、水害時の避難地にした。


 高地を島に見立てると、大海原のような田畑が広がっていた。


 そのうち、蒼々とした桑の木の畑が広がる大地が見えた。


 桑の葉はどれもむしられ、幹だけが立っている。


 すべてかいこに餌として与えるためだ。


 草葺くさぶき屋根の妻を切り落とした独自の二階造りの百姓家は、養蚕をしている証拠だ。


 行商人を垣根から猫があくびをして見送った。


 養蚕百姓の家では大抵、猫を飼っている。


 蚕を食べてしまうネズミ退治のためだ。


 垣根からのぞくと、太った女房が桑切り包丁で採集した桑の葉を切っていた。


 二階で育てている蚕籠かいこかごの虫にあたえるエサのためだ。


「どうだね、お上さん……江戸の上り船から仕入れたばかりの干し魚があるよ……江戸湾で取れた真鯵まあじで、生きのいい奴だ」


 行商人は眼が細く、鼻が低く、中肉中背の男で、これといった特徴もなく、半刻もすれば忘れてしまいそうな平凡な顔立ちである。


「あら……海の魚なんて珍しい……十匹ほど貰おうかしら」


「まいどぉ」


 行商人が何気なく切り妻屋根の二階を見上げると、壁一面が白い障子しょうじで覆われていた。


 蚕の飼育は神経と体力を使う大仕事だ。


 稚蚕期ちさんきには部屋を密閉して高温にして育て、壮蚕期そうさんきには風通しのよい二階に移して飼育する。


「お上さんの所では蚕を育てているのかい?」


「ああ、そうだよ……おや、あんた……武蔵国ははじめてかい?」


 干し魚の行商人が内心でギクリとした。


「ああ……ずっと江戸で働いていたが、こちらにも行商をはじめたのさ……よくわかったね」


「そりゃあそうさ……武州で商売するなら、御蚕おかいこさまといわなきゃ駄目だよ」


「御蚕さま? 虫にさまをつけるのかい?」


「そうだよ……なんたって、御蚕さまのお陰で飯を食わせてもらっているだからねえ……養蚕百姓に気に入られたいなら、御蚕さまといったほうがいいよ」


「ほい……こりゃあ、良い事を訊いたよ……お礼に魚をもう一尾おまけしちゃうよ」


「あらま、気前がいいねえ……」


 これに気を許した女房が行商人の惣兵衛そうべえと長話をはじめた。


 彼女はおかつといい、亭主の名は庄吉しょうきちで子供が三人いるという。


「……御蚕さまのお陰で絹織物を市に出して、よい値で売れるのさ……お陰で年に一度は家族そろって湯治場へ行ける贅沢ぜいたくだってできる……小作だけじゃできないねえ……」


「そりゃあ、うらやましいなあ……おれも行商なんぞやめて御蚕様を育てたほうが割りがいいかなぁ……」


「だけど育てるのは大変だよぉ……それに、霜で桑の葉がやられる事もあるし、御蚕さまが病気になることもある……全滅したら大損さ……御蚕様は『運虫うんむし』とは、よくいったものさ……」


「ありゃあ……そいつは並大抵じゃない覚悟がいるようだな……俺は行商の方が性にあっているかもなあ……」


「まあ、ひとそれぞれさね」


「だけどよぉ……引又河岸の人夫に訊いたんだが、いま、絹市は止まっているそうじゃないか?」


 お勝が顔を曇らせ、


「そうなんだよ……幕府おかみが絹糸改会所だかと立ち上げるとかで、反対した養蚕家や絹宿が買取を止めちゃってねえ……どうなるんだか……」


「それじゃあ、御亭主も機嫌が悪いだろうねえ……」


「そうさぁ……うちの宿六やどろくも、せっかく用意した生糸や絹織物を売りに出せなくて、いらいらとして、仏頂面さ……こっちまで辛気臭くなる……」


 お勝がここぞとばかりに愚痴を吐き出す。


「なに、そのうち元のように絹市は再開されるだろうさ……」


「だと、いいんだけどねえ……」


「庄吉どんは畑にいるのかい?」


「いいやぁ……近所の吾作ごさくどんや長兵衛ちょうべえどんが呼びに来て、西の方へ行ったよ……どうせ、引又宿の飲み屋でうっぷん晴らしに酒を飲むに違いないよ……」


「ふぅん……まさ、酒でも飲めば気分も晴れるだろうて……絹市が再開されれば、余裕もできて、亭主の機嫌も元に戻るさ」


「そうだねえ……」


 行商人は女房をなぐさめて去っていった。


 ――ふぅむ……まだ絹市の停止は続いているか……百姓どもも、不満が溜まりだしているようだ……どれ、亭主殿たちが何を話しているか、引又宿へいって探ってみるか。


 この干魚売りは、ただの行商人ではない。


 算惣兵衛かけいそうべえといって、実は江戸幕府の「御庭番おにわばん」である。


 先日、老中首座の松平左近太夫の密命をうけて、六名の御庭番が二手にわかれて武州と上州の絹市および養蚕百姓の動向を探りに出たのである。


 徳川吉宗が八代将軍の座についたとき、紀州藩から二百五名を幕臣に取り立てた。


 その中に、諜報組織として作られたのが「御庭番」である。


 元は吉宗が紀州藩時代の薬込役くすりごめやくとして使った者たちである。


 表向きは将軍とその家族の身辺警備や取次などをしたが、密命が出ると姿を変えて、江戸市中を探り、遠国御用の命が下ると諸国へ情報収集に旅立った。


 徳川幕府の情報組織は徳川家康がつかった伊賀組同心にはじまり、三代家光の頃になると、若年寄わかどしよりが差配する「公儀隠密こうぎおんみつ」と呼ばれる徒目付かちめつけ小人目付こびとめつけに役目がうつった。


 徳川吉宗がそれとは別に、将軍直属の情報組織「御庭番」をつくったのは、将軍の耳目となって世間の声を聴き、家康・秀忠系統の大名・旗本たちに不穏な動きがないか監視するためだ。


 不穏な動きをした大名旗本は御庭番からの情報で調査されて、蟄居閉門ちっきょへいもん、または改易かいえきされ、吉宗系統の紀州閥きしゅうばつ政党はこれで優位に立った。


「かつては大名旗本に怖れられた御庭番……しかしいまや、御庭番が畏怖した大名家の老中に、アゴで使われようになるとは……時代も変わったものだ……」


 吉宗の孫にあたる家治は政治の一線から退き、御庭番の差配は将軍から、老中首座の松平左近太夫にうつった。


 かつての大名旗本を怖れされた御庭番が秀忠系統の老中の支配下になっているとは皮肉なものである。


 御庭番・惣兵衛は地図を見ながら庄吉や吾作らが向かったという奥州道を西へたどった。


 途中、こんもりとした森に覆われた神社が見えた。


 湯島天神を祀る宗岡天神社である。


 鳥居の影からのぞくと三十数人の男たちが拝殿の前に集まり、何かを話しているのを訊いた。


 拝殿のきざはしの上に、雲水笠うんすいがさ墨染すみぞめめの法衣をまとった三十代半ばと思われる托鉢僧たくはつそうが立って演説しているようだ。


「やや……あれは……」


 惣兵衛が思わず林の木陰に隠れ、彼らの会話に聞き耳をたてた。


「……絹糸改会所は天下の悪法なり……改会所は絹織物の品質を向上させるため……というのは方便だ……これは養蚕百姓たちにとって、首を絞める御触れだぞ」


 托鉢僧の自信に満ちた物言いに、百姓たちがうめき声をあげた。


暁闇坊ぎょうあんぼうさま……ほんとうかい、そりゃあ?」


「その通りだ」


「でもよぉ……改料は絹市を取引する商人から取るという話で、おらたち養蚕家からは運上金は取らないと訊いたぜ?」


「それだ……改料は反物一疋たんものいっぴきにつき銀二分五厘、生糸百匁につき銀一分……」


「そんなに取られたら、養蚕なんて苦労する仕事なんか、やってられないよ……買取人や商人が負担するっていうから……」


「確かに養蚕百姓には改料は発生しないという建前だ……だが、代わりに絹宿や呉服商が、生糸の儲けの半分近くを幕府に改料として納めることになる……儲けが第一の商人どもが、そんな莫迦なことを続けると思うか?」


 これに養蚕家の男は反論できない。


「……むぅ……そりゃそうだけど、武州や上州の生糸や絹織物がないと着物をつくることができないんだぜ?」


「そこだ……生糸改会所が設立するのはここ武蔵国と隣の上野国だけ……そのほかの甲斐国や相模国などでは、まだ改会所はないのだ」


 托鉢僧の言葉に虚をつかれたように百姓たちは眼を見開いた。


「あっ!? すると……呉服問屋は武州や上州の絹を買わないで、甲州や相州の絹を買うというだか!?」


「そういうことだ……改会所が設立されれば、江戸・大坂・京などの大店が、潮を引くように武州から去っていくだろう……いくら丹精込めて生糸をつくろうが、売れなければ仕方があるまい……」


「そんなぁ……御蚕さまを大事に育てようと、餌となる桑畑に江戸湾からとれたいわしの肥料代が払えないだよ……」


「おらんとこだって、借金がたんとあるだ……絹織物が売れないと返せない……土地を売るか、娘を売り飛ばすしかなくなるだ……そんな事はしたくねえ……」


「おらだって……」


「……御公儀は貧困にあえぐ百姓たちのことなど考えてはくれまい」


 托鉢僧が冷然と批判してのけた。


「うぅぅぅ……今までうまくいっていたのに……」


「養蚕がうまくいって、わずかばかりの貯えだって出来たっていうのに……」


「それももう、お終いになるのか……」


「どうしてこんな事に……」


 愕然とうつむく養蚕百姓たち。


 不満は募るが、公然と幕府を批判することもできなない。


 武士に逆らえば酷い目にあわされ、最悪の場合は首をねられる……怖いものだという認識が強いのだ。


 物陰からこの様子をうかがう筧惣兵衛は昂奮を押し殺して、この話を聞き入った。


「それは会所設立派の商人どもが御公儀に掛け合ったからだ……会所派商人がお前達からかすみとった改料をお上と山分けしようという目論もくろみなのだ……すべては上州の商人・新井吉十郎、成瀬十右衛門ら会所派の豪商のせいなのだ」


「くそっ……豪商のせいか……」


 養蚕百姓たちが上州の方角をにらみつけ、やりきれない恨みの視線をおくる。


 幕府や武家を批判するのは怖いから、憎悪のかたまりがすべて会所派商人へと向いていった。


 ――こりゃあ、とんでもない事を耳にしたぞ……


 御庭番・筧惣兵衛はおもわず緊張して身が脇の下から汗がしたたる。


 なおも謎の托鉢僧は演説をして改会所の有害な点を説き、会合はお開きとなった。


 悄然しょうぜんこうべを垂れて家に帰っていく百姓たち。


 その背中から怨念の陽炎がわきたつようだ。


 だが、それは御庭番・筧惣兵衛にとっては眼中にない。


 彼は演説をした托鉢僧が東への道を進むのを、こっそりと尾行し始めた。


 ――ええい、けしからん……公然と幕府を批判する坊主め……暁闇坊とかいったな……どこの宗門の者だ? 


 正体を突き止めて、寺社奉行所の方から厳罰を与えさせねばらない……


 筧惣兵衛は托鉢僧に気配を気取られぬよう、距離をとって後をつけ始めた。



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