不安の影
「どうしたの、喬太郎さん!?」
「ええ……本来は今ごろ盛んに絹の取り引きがおこなわれているのですが……今は武州と上州の絹市がすべて止まっているのですよ……」
「そうなのですか?」
「はい……在地の養蚕農家も買取人も課税に反発し、市場が止まってしまい……手前どもも、ほとほと困っております……このまま取り引きがなければ、今年は新しい着物が店に卸せません……」
いわば現在でいうストライキである。
「新しい着物が手に入らないってことかぁ……」
「これは知り合いの町方同心に訊いたのだが……上州の地元の有力者たちが絹の販売を独占しようと、幕府に生糸などの改所の設置を申請したのが、絹市が止まった原因だと聞き及んだのだが……」
「はい……室賀屋さんの調べましたところによりますと、上州の商人・新井吉十郎ら二名と他に賛同した在地商人たちと連判した名簿とともに、お上に武州と上州にある四十七ヶ所の『絹市』に対し、十ヶ所の生糸貫目改め会所の設置を申請したのがことの発端です」
「新井吉十郎とやらが、騒動の原因か……」
「御老中の松平右京大夫さま、田沼さまたちが、米の年貢以外の税収を求めていて、新井らの出した申請による改会所の設置をお許しになり、生糸や絹への課税が決まったそうです……」
老中・田沼意次ら経済担当の幕閣は、ほかにも商人に株仲間を公認し、冥加金を徴収する政策をとっていた。
絹への課税もその一環であろう。
「その新井吉十郎って奴は何者なんだい?」
「なんでも、上州西部の在郷商人でして、新井たち改会所設立派の商人や地主たちは、『絹市』で発生する莫大な利益を狙っているようです……なにせ同じ地元の絹市場で動く富は、ほとんど『絹宿衆』が独占しておりますから……」
つまり今回の絹市停止騒動とは、絹市場でうごく莫大な利益を狙った商人・地主たちが裏で暗躍し、『絹宿衆』から奪おうという仁義なき戦いが表面化してしまったということだ。
「『絹宿衆』……ここ室賀屋さんのような『絹宿』商人たちの集まりということだな……」
「はい……上野国と武蔵国の絹市場は年々膨れ上がり、今では、上州武州の絹取引をすべて合わせると、小大名の国家予算に匹敵する額になるのです……」
「ひえええ……国の予算……そんなにもうかっているのかぁ……」
「とんでもない額なのですねえ……」
「なにせ、江戸だけでも百万都市……大坂、京都、他の都などでも着物は必要ですからねえ……」
「あたし達のような貧乏寺では古着が主だけど、それだって、新しい着物があっての古着だからねえ……」
「俺みたいな下級同心も似たようなものだ……しかし、それでは会所を申請した新井吉十郎らに、儲けはないように思えるのだが……」
「いえ……おそらく、新井たち申請した在郷商人たちは、生糸改会所の役人となることで、利益を得ようとしているのでございます……呉服の大店一軒につき『絹宿』は一軒という決まりですし、『絹宿衆』はよその商人を介入させません……おそらく、新井吉十郎ら会所設立派の商人はお上を抱きこむことでその利益を得ようとしているのでしょう……」
「『絹宿』ほどの利益ではないが、それでも会所役人として、絹市場の利益にありつけるというわけか……」
「はい……いや、もしかすると、新井吉十郎たち会所派商人は、『絹宿衆』にかわって利益を得ようとしているのではないかと……」
「う~~ん……横取りが目的とは、ひどい奴らだなあ……」
「だが、仮に会所が設立すると、喬太郎さんたちは改会所の役人とうまく付き合わないといけないわけでござるからなあ……」
「あっ、そうかぁ……むずかしいところだなあ……」
「今でも、改会所設立の御触れで、武州や上州の養蚕業の百姓や買取人たちが不満を抱き、買い取りが拒否されて絹市が止まってしまったでござるしなあ……」
三人はさきほどの高札場での騒動を思い起こす。
「それでピリピリしていた養蚕農家の人たちが、高札場の落書を訊いて騒ぎ出したのかなぁ……」
「いったい、誰があんな落書を貼りだしたのでしょう……」
武蔵屋喬太郎は首をかしげ、
「さて……まったく見当もつきませぬが……絹商いにくわしい方が、義憤に燃えて、こっそり貼りだしたかもしれませぬなあ……」
「なるほど……」
「これは聞きかじりだが……生糸や絹織物に課税をするとあったが、養蚕農家の言葉では、課税金は商人にのみかかると訊いたのだが……」
「それですか……たしかに改会所が設置されると、呉服屋の儲けはだいたい半分ぐらいとなります……」
「ええっ……そんなに……」
「ここだけの話ですが……実は困っております」
「やはり……」
「実は、絹市が止まった事は過去にもあるのでございます……」
「そうなの?」
「はい……元禄と宝暦のときにも、お上が武州と上州の絹に課税をする計画がありました……」
「その時はどうしたのですか?」
「やはり、今のように生産地の養蚕家や買取人の『絹宿』たちの反対があり、絹市が停止し、取りやめとなりました……今回も上州で幕府に会所設立反対の訴願をした者がいるようです……」
「じゃあ……今回の生糸改会所も、それで立ち消えになるんじゃないか?」
「実は手前もそうなると思っておりました……しかし、問屋仲間の情報では、今回ばかりはお上も本腰を入れて課税に踏み切るのではないかと申しているのです……すでに田沼様が他の産業にも会所を立ち上げ運上金を徴収しております……絹市だけが例外とは思えず……」
「そうか……田沼様は財務に関して遣り手でござるからなあ……」
「手前どもの店は、十年前まで小さな古着屋でしたが、今は十五人の奉公人を抱え、彼ら彼女らの生活の面倒を見なければなりません……他にも品物を卸す呉服屋各店、運送業者、衣服の裁縫業者など関連する人達にも家族がございます……それにお得意さまに新しい着物を売れないのが心苦しい……このままでは在庫の着物に高値がつく事態になってしまいます……」
「そんなぁ……」
「しかし……この絹市の騒動も今月中には幕が引きましょう……」
「どちらかに決まると……」
「はい……実は絹市に関わる者たちは三井越後屋さん、大丸屋さん、白木屋さんの動向で決まります……武蔵屋は呉服問屋の大店といっても、先の三軒は大店の中の大店……お上にも影響力がある豪商でございますから……」
「えっ? 呉服問屋がお上に影響を?」
「はい……とくに三井越後屋は豪商の中の豪商でして、幕府の公金為替もおこなう御用商人でして、手前のような呉服問屋は三井越後屋さんや他の豪商の意向を知ってから対応していこうと思っているのですよ……」
三井家は元々武士であったが、武士をやめて伊勢商人となった。
本業の質屋から他の商いにも手を出し、延宝元(1673)年に江戸に進出して越後屋三井呉服店を創業した。
三井越後屋の商売は革新的である。
それまでの呉服屋は、貴族や武家の屋敷などの富裕層に訪問販売をして、反物一疋から売り、代金は売り掛け(ツケ売り)が常識であった。
だが、三井越後屋は、町人層の人口増加を見て、反物や着物を店前で売り、現金安売り掛け値なし(定価販売)という商法を編み出した。
金の無い町人百姓でも買えるよう反物を細切れにし、材料費などを安くした価格の衣服を庶民向けに販売する。
それまでの貧乏な民は古着を買うか、自分たちで安い布地を裁縫して服を作るのが当たり前であった。
現在では常識の服の売り方は、三井越後屋がパイオニアとなってはじめたことである。
この売り方を他の呉服屋も真似ていったのだ。
「なるほど……政商の三井越後屋がどうでるか、だな……」
「三井越後屋からの圧力でさすがの老中たちも課税をあきらめるかなぁ?」
「いえ……大方の予測では、御触書にもあったとおり、七月二十日から絹糸貫目改会所が設置されて、改料が徴収されると思われます……幕府の財政はひっ迫し、本気で改会所設立を擁立しようとしているようです」
「すると、改会所はできて、呉服問屋も呉服屋も売り上げが半分に……」
「はい……今はお上の言うとおりに従い、利益は半減するでしょうが御触書通りに運上金を払います……」
喬太郎は声を低め、
「ですが……室賀屋さんを含め、武蔵屋と提携した武州や上州の『絹宿』さんたちには悪いのですが……少しずつ、それ以外の場所……まだ改会所のない甲斐国などの絹市などと取り引きをするべきではないかと考えております……」
「ありゃまあ……」
「………………」
世話になっている室賀屋の中では、非常にいいづらい話だ。
武蔵屋だけでなく、利に敏い呉服問屋ならば改会所のまだない国の絹市へ、取り引き量を増やしていく見せが増えていくだろう。
松田半九郎、紅羽、黄蝶はなんとなく暗い顔をして室賀屋を去った。
もしかすると、引又宿をはじめ、武州・上州の商業都市の繁栄も今が最高潮で、これよりのちは徐々に衰退するのかもしれない……




