引又つれづれ堀
引又宿の西側外れにある旅籠『筑摩屋』の二階の部屋に、唐桟織の着物に粋な帯をまいた妖艶なる女が通りを眺めていた。
市場通りの中央に流れる『伊豆殿掘』が流れて新河岸川にそそいでいた。
野火止用水であるが飲み水に使用できる澄んだ上流水である。
堀水の両岸には桜や銀杏の並木があり綺麗だ。
引又宿は南北にわたる長さは三町余りで、新宿・本宿・中宿・坂下町と町幅広く、伊豆殿堀の両側に広い道があり、その両側には穀物商、酒造屋、穀物商、肥料商、呉服商、荒物商などの大店商家や、酒楼、飲食店、旅籠などが軒を連ねる。
大正時代にここを訪れた田山花袋は、この伊豆殿堀や水車を見て、江戸時代の引又宿に思いをはせた紀行文を書いている。
大店の並びが河港らしい、引又は武蔵野でもっとも古く名高い町だと記す。
「きんぎょ~~い、きんぎょ……」
笠をかぶった若者が天秤棒で金魚のはいったタライを前後に提げ、ゆっくりと町中を売り歩いていた。
「川越ほどじゃないけど……相変わらず洒落た街並みだねえ……」
お咲は置き屋『梅乃井』時代に芸者として、何度か引又宿の高級料亭『陽炎』の御座敷に呼ばれたことがあり、少しだけこの宿場を知っていた。
料亭は裕福な商人の社交場であり、夜な夜な三味線の音が奏でられ、芸者たちの嬌声が聞えたと、江戸時代の紀行文にも華やかさが伝わる。
特に地方ではわざわざ江戸の芸者を呼んで豪遊するのが成功者の証しであり、見栄であった。
「なんだか、深川を思い出しちまうよ……三味線でも弾きたくなったねえ……あたしゃ、ちんとんしゃん……てね」
三味線を弾く真似をしていた女……お咲は愁い顔で堀水を眺めていた。
「あの流れる川のように、あたしの人生も半日前で激変したねえ……ああ……悪弥太さえ現れなければ、あたしは恵比寿屋のお内儀でいい暮らしをしていたのにさぁ……子供ができたら、恵比寿屋の身代を暖簾分けだって出来たはずなのにぃ……」
だが、恵比寿屋孫兵衛は死んでしまった。
店に残って番所の役人に悪弥太とは関係ないと言い張ることもできた。
「……だけど、息子夫婦はあたしを邪魔者にしている……町役人同心にあることない事いって、あたしを牢屋へ送り込むのは決まっている……女牢にはいったが最後……最悪の場合は夫殺しで死罪……軽くても牢名主にいびられ、玉の肌に入墨なんてされちまう……それだけは勘弁さ」
お咲はギリギリと奥歯を噛んだ。
「まったく……小弥太の奴も、孫兵衛じゃなくて、息子夫婦を殺せば良かったのにぃ……阿呆、莫迦、人間のクズ!」
悪態ついて赤い手拭いを何度も畳に叩きつけた。
「ああ……くさくさする……だけど、あたしを引っぱたいた孫兵衛を小弥太が斬ったときは、ちょいと溜飲が下がったけどねえ……」
少しは頼りになるかと思って、一緒に逃げ出した。
河川敷の逃避行で大金をためて小間物屋でも始めるかといいだしたときは、正気を失ったかと訝しんだ。
だが、少しだけときめいた気がする。
その後、昔の悪仲間の田久保と川口にあって、逃避行の路銀を手に入れるといっていたが、廃寺から戻ってきたら、熱い口調で「上州へ行こう」、「俺は人斬りになる」だのと、のたまい出した。
なんでも深川時代に一目置いていた須佐美源蔵とかいう侍に人斬りの腕を褒められたからだという。
「なにが人斬りの才があるだよ……勝手に舞い上がって、のぼせ上がりやがって……小間物屋の主人になると言ったそばから、上州やくざの大親分に厄介になって人斬り稼業を始める……なんて、いいだしやがる……田舎やくざの食客の女房なんてたかが知れている……夢みたいな事ばかり言って、地に足のつかない朝令暮改男なんて信用できないわさ」
その点、死んだ恵比須屋孫兵衛はケチでスケベで、言ったことは中々曲げない融通のきかない頑固親父であったが、信用はできる人物であった。
「だけど……今のあたしは小弥太に頼ったほうがよさそうだ……いい折をみて奴から逃げ出して、玉の輿に乗らなきゃ……そう、夕鶴より上にいけたはずさ……」
夕鶴は『梅乃井』の競争相手である置き屋『山吹』の看板芸者で、お咲とともに深川の辰巳芸者の代表格といわれた美女だ。
引又の料亭『陽炎』にも同時に呼ばれて火花を散らしたこともある。そんな山吹の夕鶴も、千五百石の寄合旗本の側室として身請けされ、浮名を馳せたものだ。
お咲は仲間の芸者には「あら、素敵ね……夕鶴さんならお似合いよ」と褒めて大物ぶりを装ったが、内心では歯嚙みして悔しがった。
「……あたしと夕鶴を同じくらいの器量良しと人はいうけれど……節穴どもめ……あたしが頭一つも二つも綺麗に決まっているじゃないか!」
板橋の恵比寿屋主人に後添えの話があったときは、相手を焦らしつつも、内心ではスッポンのように喰らいついた。
「寄合旗本なんて、やたらと身分は高い癖に、内情は火の車さ……豪商の後添えになったほうがよっぽど贅沢できるというものさ……だけどあのケチ親父……」
恵比寿屋孫兵衛は当初こそ、お咲の関心を買うために高い着物や簪、櫛といった贈り物をしたが、後添えになったとたん、生来のケチ根性がでて、倹約生活を強いてきた。
「あたしの美貌と肉体があれば、大店の内儀か、大名の側女にだってなれるはずさ……」
お咲は玉の輿の豪奢な夢を見ていたが、青竹売りの呼び売りではっと我にかえった。
「そうだ、目印をつけなきゃ……」
女は宿屋の二階窓の桟に赤い手拭いを巻きつけて目印にした。
御手配人の垣内小弥太はこんな繁華街の旅籠に白昼から入れない。
深夜遅くに忍びこんで合流する手はずなのだ。
「ああ……廃屋で久々に火照った身体が、今頃になってうずき出したよ……はやく夜にならないかねえ……小弥太は粗野で小悪党で莫迦だけど、あっちの方はいい線いっているからねえ……火遊びには最高の相手さ……うふふふふ」
淫乱な笑顔をみせ、元深川芸者は階段を降りて、筑摩屋を出た。
筑摩屋は甲斐と奥州をつなぐ奥州道の旅客相手の旅籠のひとつだ。
通りかかった薬の行商人や百姓男が、はっと息を呑むほどの美人である。
「……おっと、いけない、いけない……」
お咲は手拭いを姉さん被りにして顔を隠し、いろいろな店屋を覗いた。
「……いろいろあるねえ……さすが商業の宿場・引又宿だよ……」
栄橋のたもとにある船着場の八十船から荷揚げされた荷物は船人足たちによって大八車などで市場通りのだらだら坂をのぼって廻漕問屋の作業所や蔵へ運ばれる。
荷揚げした荷物はこの市場で取り引きされ、六斎市の市日は活況となる。
だが、紅羽たちが来た頃の荷揚げ作業が終わると、人通りが減った。
「だけど、おかしいねえ……人が少ないよ……今時期なら、絹市の取り引きで買い付け商人たちで芋を洗ったように人でごった返しているはずだけど……」
市場通りを東へ進むと、伊豆殿掘の真ん中あたりに巨大な大枡の建造物があった。
幅三尺余り、深さ四、五尺の大樋が掘に埋められている。
引又の町人たちはここから伊豆殿堀の清流を組み上げ、飲み水や洗いすすぎに使っている。
この地域では水が乏しい地域であるのに、引又周辺は水が潤沢に使えて、まったく松平伊豆守信綱の高智は凄いものだ、『伊豆殿堀』様さまだ、と称えられている。
大樋のそばに高札場が見えた。
高札とは、幕府や諸藩が新しい法令を民衆に掲示するためのものである。
一番右の板面に真新しい紙で御手配人の人相書きが貼ってある。
――どれどれ、小弥太の人相書きがあるよ……改めて見ると悪党顔だねえ……あいつはさあ……ところで、あたしの事は御手配になってないかねえ……どれどれ……ふふふふ……しめしめ、役人もあたしが共犯なのか、小弥太にさらわれたのか分からないようで何も書いてないねえ……ん?
その隣に宿役人が貼りだした難しい御触書が三つ貼ってあるが同じ内容だ。
さらに一番奥の高札に宿役人が貼りだしたとは思えない字で、何か書いた張り紙が貼りだしてあった。
漢字が多く難解な幕府の高札の御達しに比べ、平仮名が多くて読みやすいし、第一短い。
だが、その意味を知ると、さ~~っとお咲の顔色が蒼褪めていった。
「……なんだいこりゃ……こんなもの貼った奴は、下手すりゃ打首獄門だよ……関わり合いになる前に行っちまおう……」
反対側の通りに古道具が見えた。そこで三味線がないか見てみようと、何気なく東の往来を見ると、黒羽織の男が見えた。
「ぎょっ!! あの黒羽織で三白眼は……板橋であたしに面会した町同心じゃないか……まずい!」
寺社役同心の松田は偶然、岸田同心と町蔵親分に立ち会っただけなのだが、お咲は彼を町方同心だと思い込んでいるのだ。
お咲が手拭いで顔を隠し、伊豆掘を南北に渡す太鼓橋をそそくさと渡って逃げた。
入れ替わりに松田半九郎と紅羽、黄蝶が通りかかる。
「……この通りは奥州道に通じていて、その昔、源義経も通ったといわれているそうだ……」
「ありゃま……ほんとに?」
三人の横を、鉢巻きに腹掛けをした金魚の振り売りとすれ違った。
「金魚屋さん、二匹ほどちょうだいな……」
「へえい、まいどぉ……」
「元気なのをちょうだいよ」
「へい、わかってまさあ……」
金物屋の御新造が声をかけて赤い魚を買った。
五歳ほどの娘が黄色い声をあげてはしゃぐ。
そんなやり取りをほほ笑ましく見送る。
「あっ……あそこに高札場があるのですよ!」
「おお……ここでも小弥太の御手配書きが貼ってあるなぁ……」
黄蝶が松田半九郎の袖をひっぱり、
「松田のお兄ちゃん、隣の高札になにか貼ってあるのですよ……漢字が多くて読めないのです……なんて書いてあるのですか?」
「どれどれ……絹糸貫目改会所設置の布達とあるぞ、
一つ、実施は天明元年七月二十日より。
二つ、市日には、会所役人が出張。
絹・生糸売買につき生産者農民、買付商人、会所役人の三者が立ち会うこと。
数量、価格を帳面に記し、買人・売人ともに捺印すること。
三つ、改料は反物一疋につき銀二分五厘、生糸百匁につき銀一分。
四つ、改料は四割を運上として幕府へ献上すること。
残る六割を市場取引の円滑化に使用するものなり……」
まったく同じ文面の御触書がみっつ高札に貼ってある。
「ほへ? それって、なんの話だ?」
「むっ……これは岸田殿がいっていた話だな……老中首座の松平右京大夫さまが指揮をとって、武州や上州の特産物である生糸や絹織物に課税をするといっているのだ……」
「ええ……お上は米の年貢以外にも百姓から税金を取る気なのかい?」
「しっ……こんな人通りの多い場所でお上を批判するな」
「ありゃ……ごめんちゃい」
「一番左にある貼り紙は平仮名が多くて、黄蝶でも読めるですよ……ええと……『生糸あらため会所は天下の悪法なり』、です」
「うわわわわっ!!」
紅羽と松田が蒼褪めて黄蝶の口を押さえた。
「むぐぅぅぅ!?」
「なんだってぇ!?」
通りを歩いていた百姓や行商人などが集まってきた。
高札の貼り紙に気が付いて騒ぎ始める。
ざわり……と周囲の空気がいやな気配に包まれる。
「おらの家は代々養蚕を生業にしている……生糸改会所はやっぱり、悪法だったのか!?」
「いいや……お上の御触書では、生糸や反物の課税は呉服問屋がもつはずで、養蚕農家にはかからないと訊いたが……」
「でも、悪法だとあるぞ!!」
「どういう事なんだ!?」
騒ぎを聞きつけ、問屋場から宿役人の問屋や年寄、下役の帳付や馬刺たちが出てきた。
慌てて貼り紙を引っぺがしはじめる。
「誰だ!! こんな落書を貼りだした奴は!?」
「それより、頭取様……生糸改会所は悪法だという話は本当だか?」
「おらたちの稼ぎが減るいうことだか!?」
「待て……待て、待てぇ……そんな事はないぞ!」
うろたえた宿役人たちが返答に困るが、虚勢をはって言い募る。
「落書を貼りだした奴、騒ぎを起こした奴を捕まえろ!!」
騒然となるなか、紅羽・黄蝶・松田は青い顔をして人ごみから逃れようとした。
「えらいこっちゃぁ……」
「ぴえん……黄蝶のせいでこんな事に……」
「とにかく逃れるぞ……」
「皆様……こちらへ……」
聞き覚えがある若い男の声がした。
「あっ……あなたは……」
「今はともかくこちらへ……」
三人は人ごみの間を抜けて、男の案内で通りを走り、どこかの大店の裏口から中庭に入った。
「ここまでくれば安心でございますよ……」
「いやあ……ありがとう……喬太郎さん。おかげで助かったよ」
二十歳前後の細面の若い商人がにっりと笑った。




